第37話 Epirogu

 二人は馴染みのない場所で待ち合わせた。

『彼』は今でもそれがどこだったか思い出せないらしい。

 おれは、彼の話を聞きながら、その場に居合わせたかのように鮮明に情景を想像することができる。

――東京と埼玉の間のどこか・・・・・・その街は沢山の人が住んでいて、商店街を持つ駅・・・・・・ああ、そうだ、駅で待ち合わせたことは確かだ―― と彼は話し始めた。


 彼は、彼女が来るのを長いこと待っていた。・・・・・・昔は逆だった。彼が、遅れてごめん、と言いながら、買ったケーキを差し出すも、彼女は苛立ちが止まらない自分が恥ずかしいと言って、涙を見せないように離れて歩いた。彼はそんな出来事を思い出しながら待っていた。

 一方、彼女は、駅のホームのベンチに座りながら、彼から到着を知らせるメールを閉じた。それから、彼女にとってとてつもなく長く感じる二十分を、買ったばかりの小説と、入社祝いで母に買ってもらった腕時計とを交互に見ながら耐え忍んだ。自分に最大限の意識を惹きつけて仕返しする、と決心していたのだが、こうしている間にも、待たせられた日々が、故意に待たせる一分一秒に集約されたように、心かき乱され、この上なく彼を欲して崇高な存在に押し上げてしまうのだった。そろそろ行かなければならない。約束の時間が少し過ぎて、彼女は階段を上った。


「手は繋がない」と不審感に満ちた声で彼女は言った。「今まで何してたの?」

 彼には彼女の顔が何度も思い描いた顔とは大分違って見えた。もう朱色のチークなんてしていなかった。細身のスーツを着こなし、すっかりとあか抜けていた。これが本来の彼女なのだという説得力があった。彼は圧倒され冷酷さすら覚えたが、裸になれば変わらないはずだ、と無意識の内に考え欲情した。

 彼女は、彼を目の当たりにして、その呑気な風貌に腹が立った。肌を焼き、ティーシャツ、ステテコ、ビーサン、といった彼の格好は、周りで頑張っている人たちとかけ離れていた。彼はこれからも変わらないと思った、お互いの相応しい場所も相手も違うって、彼の方が私なんかよりもよくわかっているはず。

 二人は当てもなく歩き始めた。

「ローソンで働いてたんだ。浜ではパラソルを貸す仕事で、夜ローソンで働き始めたんだけど、浜はクビになっちゃってさ、家賃出すからローソンに残ってくれって話になって、そうだ、浜の朝日がすごい綺麗だった、今度一緒に見よう」

 ひょっとして空気中の音の振動が彼女に届いていないんじゃないか、などと彼が物理的な原因を探り始めるほど、彼女は無関心に振舞った。

 彼女は、応答だけでなく感情の一切をも黙秘しているのにも関わらず、全ての決定権が彼に傾きつつあるのを感じた。一言でも返事をすれば、今までの我慢が全て水の泡になってしまう。しかしそれが出来たら、どれだけ幸せだろうとも思った、彼はもしかしたら何も悪くないかもしれない。わからない。

 彼は、業を煮やしたように、脈絡なく、体を硬直させて振り返った、

「ラブホテルに行こう。抱かせてほしい」

 彼女が何よりも恐れている事態がこれだった。離れている間彼のことを不潔だと決めつけていた彼女は自分が絶対悪のように感じられた。こんなに嫉妬深い私の方が異常なんだわ。

「愛してる」と彼は尤もらしい声で言った。

 彼女は体が内側から熱くなり濡れているのがわかった。

彼女は、依存物質を避けるべく目を伏せ、声にならない声で、「ううん」と言った。それから自己防衛的に一度笑い、自分を取り戻して、顔を上げた、「行かない」

 二人はまた歩き出し、今度はゆっくりとたわいない話を積み重ね始めた。彼女は性の対象になったことに安堵し、彼は二人の関係性まで否定されてないと感じて安堵した。始めは断られた彼が自尊心を埋めるために二、三事言い、彼女が気遣いで三、四事返す。するとまた彼が四、五事・・・・・・。そこには二人だけが知っている楽曲を奏でるような建設的なリズムがあった。彼は、軽い障害物が来るたびに、例えば通行人や横断歩道などにこじつけて、何度も立ち止まって彼女の方を見た。その度に、彼女はさり気なく手を引っ込めた。

 彼は角にあったハンバーガーチェーンの前でまた止まり、距離を縮めようとした。しかし、店の光が彼女の青ざめた顔を浮き上がらせると、それ以上近づけなかった。彼はこの長すぎた間合いに適当な動機が見つからず、自白するかのように 共感を求める視線を送った。

「なに」

「いや、やっぱ可愛いなと思って」

「今以上は無理かも知れない」

「一緒に暮らすのは無理だよね。ごめん」

「仕事の事もあるし」

「お金なら少しずつ貯めればいつか一緒になれる」

 彼は繋ぎ止めてはいけないと自分に言い聞かせたが、長らく溜まっていた想いだけでも吐き出してしまいたかった。彼女とならこの先何を失ったとしても苦にならないことは明白だ、と他の女性を知ったことで尚更思った。冷静に考えているつもりで、一生幸せにする、と言いかねない心境にまで達した、

「コンビニでバイトしても案外貯まるんだ、今は君よりお金あるんじゃないかな、ほら見て」と彼は言って、エーティーエムで印刷したばかりの残高を財布から取り出した。

「いい」

「頑張ったんだから見てよ」

「いい!」

 彼は、彼女が初めて見せた頑な否定に驚き、紙を握りつぶしてポケットにねじ込んだ。彼のポケットがかさばっていたのは、彼女への土産のせいだったが、仮に覚えていたとしても、取り出そうとは到底思えなかっただろう。


――ちょっと待ってくれ―― おれは口を挟んだ、――一つ確認したいんだけど、その時のお土産っていうのは、――

――カンボジアで買った金の指輪―― と彼はそっけなく言った。

――温泉饅頭じゃなかったんだ――

――温泉饅頭? なんで? ――

――いや、てっきり・・・・・・何でもない話を続けて――


「私が、もし、すごく悪い女だったらどうするつもりなの」と彼女は言った。

「何をいまさら」彼は思わず笑った。「君をお嫁さんにもらう人は誰より幸せだって、それはおれが保証するよ」

「ありがと」彼女も微笑んだ。

 彼女は、半ば習慣的に、天性の千里眼で、相手のネガティブな感情の芽を見つけ、普段なら気付かれないうちにそれを摘み取ってしまう。

 しかし、この時、彼は、彼女の下手な愛想笑いを見て癇癪を起しかけた。彼女はあろうことか、その習慣に基づいて人の好意を利用したのだ、こんな彼女が言い出せるのならそいつをとことん見てやろう、と彼は意地悪く思った。

 彼女もそんな彼を察して思いがけない形で自分の復讐が成功しているのに気付いた。身勝手な正義(よくぼう)を振りかざしてくる彼のペースにのまれないようにしなきゃ、と絶えず自分に言い聞かせながら、自分の正当性を立証するために彼の悪意を喜んで歓迎した。

 回り始めたオルゴールは再び閉じられた。二人は、最後にした電話同様に殆ど無言になった。

 商店街を端まで行って折り返し、駅に戻って来た時、辺りは暗くなっていた。どれだけゆっくり歩いても、二人が時間稼ぎをする場所はもう残されていなかった。

 駅へ続くエスカレーターを上り、バス停の上にできた広場で、彼は足を止め、彼女に門限を諭した。彼女は、門限がだいぶ前になくなったことを告げた。彼は、次の手が思いつかず、近くの手すりから渋滞を見下ろした。彼女は、ようやく離れた彼の体を見て胸をなで下ろし、彼の決定権の失効を無様だと思うように努めた。それも束の間、自分のやるべきことが明確になって恐怖が一段と増した。生涯彼より私を愛してくれる人間が現れるだろうか。彼の背中が言いたいことがあれば言えばいい、とナイフを突きつけ脅迫してくるように感じられた。恐怖のあまりスーツの擦り音を立てないように、手を遊ばせ、彼の背中に意識がないことを確認したほどだった。

「別れよう」と怯えた声で彼女は言った。

「よく言えたね」彼はすかさず振り返り、求め続けていた彼女の手を逃げられないように強く掴んだ。「別れたいから別れるの?」

「別れたいから別れる人なんていないよ」

「そうだね」と言って、彼は手を離した。

 車の光はどこまでも続き、両端の建物も異常なほど明るい、ここにいる人たちはローソンの照明に狂わされた虫たちと同じだ、と彼は思った。今上ってきたエスカレーターにも、巣に向かう蟻のように人が列を作っている。その殆どは背広姿で、私服の人もいるが、半袖を着ている人はもういない。彼は自分の容姿に恥ずかしくなりながら、昨日までの世界が実在したのかわからなくなった。最後の歯磨き粉を絞り出すように、集中して、この時間あの町はどんな様子だっただろうと、思い出そうとすればするほど、記憶がどんどん消えていってしまう。まるで短い夢であったかように。


――そして更に君はこう思った―― いつの間にか、話しているのはおれだった、――この街が全部悪いんだ。この街がおれの記憶を飲み込んで、なかったとこにしようとする。でも知ってるぞ、あの町は消えない。明日にでも戻れば、そっくりそのまま残っている。頼めば住む場所もあるし、将棋相手だっている。それに、なんといっても、あの浜は九月中も賑わう、クラゲが出ないのだそうだ。そして、そこには女が腐るほどいる――

――勝手な想像をするな、それ以上続けたら話は止める―― と彼はむきになって言った。

――悪かった。さあ最後を聞かせておくれ―― とおれは言った。


「これから日本が変わっていくのが不安なの」と彼女が言った、「・・・・・・もし、不況とかで、」

「わかるよ。もしニュースも教育もないような原始的な土地で出会っていれば、おれたちは愛を形に出来たって、おれはずっと、」

「だったらなんで会社を辞めたの」と彼女は感情を抑えて言った。

 彼女の服も蟻の服だ、と彼は思った、

「出来る人がやるべきなんだよ」

「私がやりたくてやってると思ってる? こんなに辛い思いして頑張ってるのに? 私のしてることが全部無意味みたいに聞こえる」

「違うよ」彼は取り繕うように言った。「わかってほしい、おれには全く出来ないことなんだよ。君は本当にすごい。おれは劣ってる。前から言ってたけど近々海外に住んでみる。どこでも生きていけるようにしたいから。不況が来るならその方がいいかもしれない」

「すごいね、私にはできない」

 彼は言い残したことがないか必死に考えた、

「大学生の時君がいなかったら今生きていることさえわからない」

「私もいっぱい助けられた」

「いや、おれほどじゃないね、君だけが試合でゴールを入れたのを覚えているし、膝の手術の時も隣にいてくれた」

 彼は目頭を熱くし、そっぽを向いた、その時、やっと、やっと彼女の方から距離を縮めてくる気配を感じた。彼の中に、彼女が特にこの一年の自分の視点に立ってさえくれれば全てが元通りになる、そんな期待が湧いて出た。しかし、彼女しか自分を知る女性はいない、と伝えようとして捻出した幾つかの心情や思い出話は、彼自身の首を締め上げるだけだった。世界でたった一人の自分を知る人間がいなくなる、そのことが今一度明らかになると、寂しすぎて生きている心地がしなかった。彼はその時初めて敗者であることを実感した。

「何も変わってない、変わってなんかいないでしょ?」彼は人混みから逃げるようにエスカレーターを駆け下り路地に逃げ込んで、大きな声をひくつかせた。

 彼女も、頬を濡らしながら彼のすぐ後ろを追ったが、その胸の奥には、大仕事終えた達成感を、誰にも触れさせないよう鍵をかけて仕舞いこんでいる。

 彼は無心で人気のない方へ、かといって暗すぎない方へ、足を運んだ。気が付くと居酒屋が並んでいた。古くて大きな大衆酒場や、酒樽をテーブルにした立ち飲み屋など、様々な店があった。

 殆どの通行人は、彼らを縁起の悪いもののように、見て見ぬ振りをした。冷やかし笑いの酔っぱらいもいたが、二人は全く気にしなかった。嘲笑の中に聞き覚えのある声を見つけるまでは、


「小説の主人公気取りかよ」とその声は言った。

 彼は声に驚き、後ろを振り返った、「黙れ! 誰だお前は!」

「いちいち、こっち見ないで」今度は女の声だった。

 そんなはずない。彼は愕然とした。

 やつの顔を見てやろうと思ったが、止めどなく流れる涙と鼻水がぐしゃぐしゃに なって顔面を覆い尽くし、何も見ることが出来ない。

「ほらほら、とろいにゃあ、こっちだって」

 今度は上だった。

 次の瞬間、彼は青い瓦屋根の上にいた。視界も一気に開けた。時刻は変わらず夜。足元には泣いている自分と同じ格好の哀れなカップルがいる。男の方がこっちを睨めつけているが、その光る眼以外は、油絵具のようなもので黒く塗りつぶされている。

「今まで、ご苦労さん」とその黒顔が言った。

――おれの体を返せぇ―― 彼は無我夢中で叫んだが、猫が飼い主に虚勢を張った時に出る、かぼそい鳴き声が出ただけだった。

「これからは、沢山の女たちと寝て、似たり寄ったりの別れを繰り返すんだぜ。羨ましいだろ」おれは漆黒の中の白い歯を光らせた。「終わらない夏の始まりさ」

 彼は瓦から飛び降り、人の入れない隙間へと逃げていった。

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Endless Summer @akiona

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