第36話 Ropeway to Syougi

 帰る日が来た。昼、マホナと一度入ったお洒落なレストランを目指した。肝心なことに店の名前を忘れ、近くまで来ればなんとかなるとも見当も、結局たどり着けなかった。仕方なく安い店を探しながら駅まで戻ってきた。どの店も割高で、満員の店はないが、空っぽの店もなかった。その時、マホナと通った中華屋が一番安い店だと気づいた。そんなことが妙に優しく感じられた。

 中華屋に一人で行く気になれずに、とりあえず足を家に向けながらロープウェイ乗り場を横切った。そこで浜の連中で行ったとんかつ屋を思い出した。当時、とんかつ屋から出て駐車場に戻る途中、夕日に照らされたロープウェイとその行先の迫りくる峰を見上げて、皆黙り込んだのだ。マホナだけは、入る前から気付いていたから別に驚かない、みたいなことを言ったっけ。丁度、係員のような男がロープウェイ乗り場から出てきた。おれがとんかつ屋を尋ねると男は数件あると言った。おれは確信をもって一番近い店を教わった。

 驚いたことに、たどり着いた店は、毎日通る大通りに面していた。正面に立っても半信半疑だった。初めに目指していた店のことと云い、目の前の店のことと云い、全く当てにならない記憶力だと思った。

 中にはいると、薄汚れたエプロンを着た小太りの店主が、カウンターの向こうで片手に本を持ちながら、一人で将棋を指していた。

「兄ちゃん、見た顔だな、浜の子じゃない? そうだら」

「はい、前にも来ました」

「いやあ表で迷ってるの見えたから、初めてのお客さんかなっと思ったんら、でも顔見たらわかった。いつものでいいら?」

「今日は選んでもいいですか?」

「おら、もたもたするのは一番きれえでさ、こっちが決めたくなっちゃうだあよ、旦那は悪くない、おら気がちょいと短いんだな、がはは、んだけど、こればっかりは治らねえ、さあ、もう決まったら?」

 生姜焼き定食を頼んだ。肉の塊が、キャベツの千切りとナポリタンスパゲッティの上に、四枚のった重たそうな皿が出てきた。やっと肉にたどり着き一枚目を噛みちぎっているところで、隙を見て、店主が、ナポリタンと豚汁のお代わりを山盛りよそった。断れないタイミングで、客を驚かすのがこの店のやり方なのだ。

「嬉しいねえ、こんなに食べてくれるお客さんは久しぶりだあな」

「一緒に将棋しませんか?」

「見られちゃったか、どうしようかな、旦那ちゃんと勉強してる? 最後にいつ指した?」

「最近指してないんですが好きなんです」

「ま、やってみるか、せっかく言ってくれたんだしな」

 二局指した。どっちも完敗だった。

「どら、おら強いら? 兄ちゃんも二級くらいはある。でもまだ負けないな、おら、この前先生に初段だって言われただ、すごいら?」店主は大きな声で笑った。

「出直してきます」

「もう一人好きなのがいるんだけんど、あいつにも今度あって欲しいなあ、いや、兄ちゃんじゃまだかなわねえかな。いいんだよ、若いからすぐ伸びる。こんなまずいもん食いに来てくれて、ほんと、ありがとね」

 そんなに優しくされると慰められている気さえする。そんなに暗い顔をしているのだろうか? 外に出るときに店のガラスに写る自分の姿を見た。腹は膨れているがまだ大丈夫だ、と思った。

 家に戻る途中、大通りから折れるところで初めてバス停の名前を気にした、「東本郷二丁目」ホンゴウ。二人きりになった時に、マホナが自分から打ち明けた名字と同じだった。これが嘘だとしたら・・・・・・くだらなすぎる。


 部屋の鍵を返しに行った。

「また来てほしいな」と棟梁は言った。

 その言い方がまるでおれのことが大好きみたいに聞こえた。まいったな、こんな不届き者に言う言葉じゃないぜ。

 駅について乗車券と特急券を確認した。まだ一時間ほどある。何気なく観光案内にあったパンフレットを手に取った。開いてみてこの土地についてまだ知らないことが多いことに驚いた。何度も横を素通りした銅像の意味、ロープウェイに乗っていく公園、ナマコ壁のこと、行っていない浜、たまに話題に上る水族館・・・・・・眺めるだけで住んでいた経験が助けになり、沢山の情報が読みとれた。観光客が車で行くような場所でも自転車で通ったことがあったから、思い出しながら正確な位置を把握できた。パンフレットは時間を忘れさせるのに丁度よかった。

 ポケットに入れた携帯電話が鳴る前に、時計は見たくなかった。だから、時間を確認した時にはもう直前になっていた。急いで駅を見渡した。

 まだ反対側に来ている可能性もある。すれ違いを恐れ、荷物を背負ったまま、二つの出口を何度も往復した。時間が迫るほど足を早めた。未だ少なくない観光客に荷物をぶつけ、見ず知らずの若い女の反感をかった。出発のアナウンスを聞き、怒る若い女を無視して、慌てて駅員に詰め寄ると、駅員は「当日なら好きな電車に乗れます」と素っ気なく答えた。振り返ると電車は離れて行った。

 それから後は自己満足の世界だった。電車の出発が迫る度に右往左往する、その繰り返しだった。段々とそんなことをする意味が薄れ、いかに次の出発時間までを有意義に過ごせるかが焦点になった。外の土産屋に行って、買う気もなく味見していると、急に肌寒くなって駅に戻った。やがて雨が降り出だし、夕方前にも関わらず外は真っ暗になった。ここに来た日のことを思い出した。しかし、風が違った。この風は、季節の変わり目にたまに吹く、埋もれている記憶や情緒を刺激する風だった。新しい季節に「久しぶり」、前の季節に「またね」と言わなければいけない風だった。

 おれは夏の間随分鈍感でいたんだなと思った。そのせいで、人を傷つけてしまった、オヤジとも、菊池とも、レオとだって、もっと上手くやれたはずだ。

 すぐにでも電車に乗りたくなった。例えば、山積みになっていた日常的な問題が、映画を見終わって気にならなくなっているような、そんな気分だった。

 構内の土産屋にばら売りの饅頭を見つけ、小銭をかき集めた。丁度一つだけ買える。サキの喜ぶ顔が浮かんだ。しかし、結局、買ったはいいが、空腹に勝てずに自分で食べてしまった。一口だった。噛む度に「まだサキと一緒にいたいのだろうか?」という問いが「まだ彼女を抱きたい」という確信に変わった。お金をおろさない決まりも、饅頭も、どっちも大事だった。これさえあれば必ずまた彼女を抱けると思った。もう一度店に入り、ポケットに饅頭を忍ばせて、ホームへと向かった。

 数時間後にはサキに会える。きっと彼女は別れ話を切り出すだろう。でもその前にこの饅頭を差し出して「どこにいても、心はサキと一緒だった」と言ってしまえばいい。

 改札を越えようとした時、後ろから走ってきた何者かが、おれの肩を強く掴んだ。おれは全身を堅くした。

「お兄さんいい歳して万引きですか?」とアヒル口が言った。ホームから出発の合図が聞こえたのと同時に、悪魔はおれの手を掴んだ。手を引かれるまま駅の出口へ、一歩、また一歩、足を踏み出した。と、その時、進行方向のずっと先、ロータリーに止まっている二人乗りのスクーターが目に入った。おれはマホナを突き飛ばし、今まさに出発する電車に飛び乗った。聞こえるはずのない、すすり泣きとも、せせら笑いともとれる女の声が、電車の中でこだましていた。

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