第35話 Hairpin to Cat
翌日、昼に寝ていると携帯電話が鳴った。 マホナからだ。
「どした?」とおれは嬉半分の声で言った。
「・・・・・・今から行っていい? すぐそこまで来た」と想定より三オクターブ低い声が言った。レオだ!
急いで、畳に落ちていたヘアピンとコンドームのゴミを窓から身を乗り出して屋根の上に置いた。それからマホナからもらった小銭入れを首からかけた。それから部屋を何度も見回した。それからもうない。ドアはいきなり開かれた。彼は、まるでドラマの取り立て屋のように家に上がり、布団の上に正座するおれの前で、歩きながら話し始めた。
「彼女をどう思っているの? 君だけを信じているから嘘つかないで」
おれは震える手を布団で隠した。
「隠さなくてもいいよ、知っているから、マホナに切符渡したでしょ」
「うん」
「何で入れたの?」
「一緒に帰ろうと思った」
「何で?」
「マホナを可愛いと思うから」
「マホナと寝てないよね?」
彼は敷居を隔てて、何も物を置いていないフローリングに直に座った。
「ただ本当の事を言って欲しいだけなんだよ」
全て言ってしまいたかった。彼の声は優しかった。表情も怒っているようでも、動揺しているようでもなかった。しかし、黒目には、何をするかわからない恐さを隠していた。そう感じるのは、マホナのくだらない話や電話中の悲鳴が大きな布石となっていたからだった。
「やっぱり答えられないよね。帰ってどうしようと思ったの? マホナと付き合いたい?」
「付き合うかはわからないけど、また会いたい」
「やってないんだよね?」
「マホナはやってないって言った?」
「うん」
「マホナの言うとおりだよ」
「男として誓える?」
「やってない」奴の目を見返したが、ピントが合わなかった。もうおしまいだ部屋を壊される、と思った。
突然、彼は顔を緩めた。「わかっていたよ。僕が出てきたら演技してって言われたんでしょ? 君にもわかると思うけどマホナああだから。僕は君を信じる。今までマホナの面倒見てくれて本当にありがとう」
『ああだから』のああってなんだ。おれは丁寧に話すレオのことが気持ち悪くて仕方がなかった。
「へぇギターやってるんだ。弾いてみて」
レオは返事を待たずにフローリングに唯一あった、隅に立て掛けていたエレキギターを、座ったまま体勢を崩して手に取り、自ら抱え込んだ、
「僕は弾き語りしながら全国回ったことあるんだ。エレキのことは全然わからないんだけど。ちょっとこれズレてるな・・・・・・」彼はペグを回しながら言った、「昨日の夜振られたんだ」
「マジで」
きつく巻かれた弦がピキピキと音を立てた。
「はい、直してあげたよ」
レオは壊れそうなほど高い音になったエレキギターを適当に弾き、元の位置に戻した。
彼の言動一つ一つが異常なほど気に障った。しかし、どこに悪意があるのか説明できるものではなかった。
「浜で知り合った男がいるらしいんだ。何か聞いているかな?」
「良くしてくれるお客さんがいるって言ってたよ、昨日の人だと思う」
キッチンで不審な音がした。おれたちは会話を止め、出所に目をやった。面格子の向こうにマホナの金髪頭が見え、それが下に隠れようとした。しかし、諦めたのか、一転して膨れ顔を堂々と露わした、
「二人で何やってんのよ! 絶対来ないでって、あれほど言ったのに!」
ドアから入ってきたマホナは、喧嘩の後の先生のように、おれとレオを離れて立たせ、双方に何を話したか耳打ちさせた。「何もなかった」とおれもレオも、お互いに聞こえる声で答えた。
マホナは、埒のあかない事情聴取に納得いかない表情で、次の策を考え、おれの背中に回った。そして、レオに言った、
「いって、ここから出ていって」
「僕が?」
「煙草、マホナの煙草、もうないの。いつもみたいに買って来なさいよ。二箱」
「マホナも一緒に行くよ、ほら、ここに残ったら彼の迷惑になる。わかるよね?」
「はーやーくっ、ここで待っているから!」
三人はお互いの顔を見合った。冷戦のようだった。
「三人で行けばいいじゃん」おれはたまらず口を挟んだ。
レオのタスポをかざしてマルボロメンソールとマイルドセブンを探した。ソフトとボックスって何だよちきしょう!
部屋に戻ると鍵がかかっていた。ノックしても誰も開けようとしない。キッチンの窓から覗くとレオがリビングの上で体育座りをしているマホナの耳を舐めていた。
「早く開けろ!」
二人はこっちを見てドアに向かった。
ドアを開けたレオは何事もなかったかのように、
「お釣りは取っといてくれていいから」とおれに千円手渡した。
二百円ほど足りないのを言い出せずにいると、二人は逃げるように外に出た。
ドアを押さえながらレオは言った、
「そうだ干支が間違っていた」
「本当に?」
「本当よ」とレオの後ろでマホナが言った。
「すぐに代えてくる」
「せっかく君がくれたものだからこのまま使わせてもらうよ」と彼はゆっくり言って力任せにドアを閉めた。
部屋に戻った時からマホナの目を注視していたが、彼女の視線はおれを一度も捕らえなかった。そのことを思いだしながら畳の部屋をぐるぐると歩き回った。どこにだって行けばいい。本当にその通りだと思った。マホナがおれを使ってレオを嫉妬させればさせるほど、彼女の素直になれない感情がレオに向けられていることを実感した。もし仮に、取っ組み合いになり、やつをこてんぱんにしたらどうだっただろう? 想像できるのはマホナがより素直になってレオを手当する姿だった。その時のおれは悪者でさえない、二人の気持ちを確認する自然災害みたいなものにされてしまう。
ふと、今朝二人に届けようと取っておいた廃棄のカップケーキの事を思い出した。それはご当地キャンペーンの一つで、ミルクムースの上にニューサマーオレンジのジャムがのった、なかなか廃棄に回らない人気商品だった。こんなことがなければ届けようと思っていた・・・・・・いや、まてよ、こんな時だからこそか・・・・・・。
音を立てないように居酒屋に忍び込んだ。黒い割烹着の男がカウンターで、テンポよく包丁を鳴らしていた。
「まだ開いてないんですよ、すいませんね」と男はおれに気づいて言った。
「客じゃないです、レオの友達なんです」おれは観念して男の前に出た。
「レオ? ・・・・・・レオ? どのレオ?」
「ここで働いているレオです。差し入れ持ってきました」
「なんだなんだ、そうかそうか。でも、彼はここじゃないぞ。今は病院にいるはずだ」
「病院? 何かあったんですか?」
「何も聞いてないのに差し入れを持って来たのか? じゃあ、今すぐ電話して自分で確かめなさい、早く」
店の階段からマホナに電話した。
「しー、今話せないの」
「病院だから?」
「やだ、どっかから見てる」
「そんなことしないよ。居酒屋の人に聞いたんだよ」
「あそっか」マホナは笑い声を上げて思い出したように続けた、「レオ運ばれちゃったの。今、平ノ台病院で診てもらって、逆流性食道炎だって」
固有名詞や聞きなれない単語をどんな時でも正確に言える彼女は、やはり知的だと思った。
「それって大丈夫でしょ?」
「すぐ良くなると思うけど」
「わかった」
おれは電話を切り、ケーキを冷蔵庫に置いてもらうように頼みに戻った。
「良かったよ。レオに君みたいな友達がいて、安心した。前にも店に来てくれたんじゃない? 名前は? レオとはどんな関係?」
おれはできるだけ早くここから立ち去りたかった。レオはここでも愛されていて、ケーキには偽善という毒が盛ってあるのだから。
その夜、ローソンにレオがやってきた。一人で来たのは初めてだった。
「ケーキありがとう」
「美味しかったでしょ?」
レオはそのことには触れなかった、
「マホナは君の前にもう来ない。男の君なら彼女の気持ちを考えればどうすべきかわかるよね? 何か言いたいことがあったらいつでも僕が聞く。わかった?」
「わかった」
レオが店を出てから怒りが沸き上がった。自分がこんな安っぽい感情を持っているなんて知らなかった。マホナの情緒の豊かさに憧れ、試され、ジェットコースターのように真っ逆さまに堕落していく。一生かけて、こつこつと積み上げてきた心の平穏が、彼女に壊されるのを待っていたかのように。それでも懲りずにいる。
次にスナックのママがやってきた。
「相変わらず。いい男だね」
ママは、マホナが働き出してから酔っていない日がなかった。店が上手くいっている証拠だ。
「ありがとうございます」
「後どれくらいここにいるつもりだい?」
「明日までです」
「寂しいけどしかたないわ、これでマホナちゃんともお別れね」
「ええ」
「私がってことよ」ママは笑った。「給料も日払いで渡してあるの。でも、気をつけなさいね、レオ君みたいにならないように、いい男は社会と女の敵なのよ。気高さは隠し通しなさい。君に出会えて良かったわ」
「ありがとうございます」
最後のバイトの終え、裏の坂でトラ猫を探した。しばらく鳴き真似をしてみたが出てこなかった。後ろめたさを感じる必要はない、一体ネコに何がわかる。
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