第32話 Boccyan to Ramen
それから数日間、楽しみといえば夏目漱石の「坊ちゃん」の続きを読むことだけで、決まった時間に寝ることができなくなっていた。そんな昼下がり、リビングで寝るようになっていたおれは、鈍い音で起こされた。見上げるとマホナがキッチンの面格子を叩いていた。今まで何度も想像していた瞬間だった。嬉しさと同時に、分の悪さも感じた。それは彼女を想っていた時間に比例して蓄積した不燃ごみのようなものだった。一方、格子越しの彼女の方も何か違って見えた。いや単に、おれの動揺が彼女を誘っただけかもしれない。彼女は戸を開ける瞬間にいつものマホナに戻った。
「やっほー」
「一人で来たの?」
「今レオは仕事に行っているいの。前にレオママと行った居酒屋よ、言わなかった?」マホナは喋りながらずけずけと部屋に上がり、当たり前のように畳に座った、
「ねぇ聞いて! 昨夜、あの馬鹿、海に飛び込んで財布も携帯も全部ダメにしちゃったの。酔っぱらってマホナ愛しているって叫んでね、崖から海に、ぼしゃーん。全く金槌なのに。信じられる?」マホナは煙草に火をつけた。「ポケットから何が出てきたと思う? 水没した携帯。だからレオの携帯もう使えないの。もうレオに電話しても無駄よ」
言われなくともあの男と電話なんてしたくないと思った。マホナは、おれとレオが連絡を取ることを恐れているらしい。前は携帯を折ったと言っていた。
話しに相槌を入れながら、布団をリビングから畳に移した。
「もう二本買ってきて、酎ハイ」
二人で行くべきだと抵抗したが、埒があかないので、一人でイオンに行き、トップバリューの酎ハイを買って戻った。
「すごーい」と言うマホナの声に出迎えられた。
マホナはドラムバックにしまってあったスケッチブックを勝手に開いていた。隠すべき物なんてなかった、むしろ好機だった。何故ならその絵の中には、今更自分から見せるには決まりが悪い、マホナの似顔絵が入っていたからだ。鉛筆でマホナの尖った鼻と耳をつり上げて悪魔にして、空いたスペースにILOVEYOU,BITCHと書いてある。
「これマホナに頂戴!」
「もちろん、そのために描いたんだよ」
マホナは似顔絵をほめちぎり、他のページも同様に褒めながらめくった。自信がある写実的なページや、抽象的なページをこそこそにして、ぐしゃぐしゃの落書きを褒めた。鵜呑みにしてはいけないと思った。彼女の言うことは全てアベコベなのだ。
布団の上に座ったマホナは、まな板の上の活魚のように落ち着きがなかった。マホナの唇に近づくと、アヒル口が憎らしく動き出した。
「昨日、部屋でレオのダサいパンツを両手で脱がそうとしたら、パンツに番号が入っていて、なんだと思う? 囚人番号なんだって、超ウケる、しかもチン毛も全部剃れてやんの」マホナはケラケラ笑った。
一緒になって笑ったが、愉快なことなんて何もなかった。次はブラジャーを取ろうとした時だった。
「レオママから今朝メールもらったのよ、見て」
そう言っておれをはねのけると携帯電話を持ってきて、腕を伸ばし、画面を俺の顔の前にやった。読ませる気のない小さな文字が伸ばした手の先で揺れている。マホナはメールの内容について何か言った。おれにとって大事なのは自分の下半身をいかに強く保つかだった。そしてもう手遅れだった。
「腹減った、飯くいに行く」
「して」
「今はやらない」
「あっ、もう行かなきゃ」
「そうだね、いい時間だ」
おれは無言で通路に出たマホナに声をかけないわけにはいかなかった、
「おなか空いてる?」
「食べたいならつき合ってあげてもいいけど」
「一緒に食べよう」
家を出てから注文を終えるまでおれたちは黙ったままだった。おれは苛立ちを演出し、マホナが黙ったことでそれが成功しているように思えた。いつもの座敷に着くと、二人は、少なくてもおれは、テレビに目を向けた。今日の種目は初めて見た競歩だった。選手たちはまるで蒟蒻を縦に持って揺らしたようなヘンテコな走り方で、もぐら叩きみたいに頭を上下していた。その中で一人の日本人選手が台頭していた。
どれだけの間、テレビを見ていたのかわからない五分から十分の間だと思う。注目されていた日本人選手がよくわからない反則を犯し、他の国の有力視されていた選手たちと同様失格になった。
「やっぱり東京にこんな店なかったわ」とマホナ。
マホナがこの店を気に入っている理由をもう一度よく考えた、
「海が近くなきゃこの感じは出せないじゃないかな」
「ふーん」マホナはこちらが何を言っても同意しない感じだった。ラーメンには手をつけず、煙草をくわえた、
「ただこの店のために戻ってきたようなものなのよ」
アヒル口が細い煙を天井へ吐いた、
「ねえ、東京で何があったか聞いてくれないの?」
「気になってたよ、教えて」
「東京にいる間にね、レオがストーカーさんたちをぜーんぶ追っ払ってくれたの」
「へぇ」とおれは言った。「たまには静かに食べるのも好きだな」
マホナは本当に黙った。
「ここでこうしてマホナといるのって幸せだよ」
「喋っちゃいけないなんて、そんなのつまらないじゃない」
「オリンピック見ながらホステスとレバニラを食うだけで十分」
「おじいちゃんになっちゃったみたいね」
日本人選手のいなくなった競歩は見所がわからなかった。実況もやる気をなくしてしまっていた。
「みんなマホナのキラキラ奪うばっかりなのよ」
「ストーカー? レオも?」
「どっちも」
「おれは違うでしょ」
「うん、そう信じていた」
マホナは手つかずのラーメンを残し立ち上がった。おれも後を追って店を出た。
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