第24話 Chihuahueño to 73

 八月一日。ローソンの夜勤を終えた朝、近くの公園のベンチで横になった。

 夕方にはマホナと手をつないで川沿いを歩いた。人通りの少ないところにアイス屋を見つけた。マホナは難色を示したが、自分にチョコミント、マホナにラムレーズンを買った。

「酎ハイよりずっといい。似合うよ」

「うーん」

マホナは繋いでいた手を、あつい、と言って離した。

 おれはそれを期に桜並木の陰を歩き始めた。負け惜しみの意味もあった。

「マホナそっちは行かないからね」

「虫が怖いんでしょ」

「わかっていのになんでやるのよ」

 向かいからチワワがやってきて、マホナが、可愛いー、と言って木陰に入ってきた、

「なんて言う名前ですか?」

 マホナがしゃがみ込み、遠くから手を伸ばした、その時、チワワが吠え、マホナは尻餅をついた。残っていたアイスが落ち、チワワが舐めようとして、飼い主は綱を引いた。マホナの手にコーンだけ残った。

「好きじゃないじゃん」と言っておれは笑ったが、その発言と飼い主がマホナを心配する声とが重なって、おれの言ったことがひどく意地悪に聞こえた。

「噛まれてはいません」とマホナは強く飼い主に言い放ち、立ち上がって自分の尻を払った。

 犬が去ると、マホナはコーンを川に投げ捨てた。おれは内心咎められるのを待っていたが、彼女は緊張した様子で切り出した、

「もう行かなきゃ、ついてきて、お願い!」

「店に? もう来るなって言われてるんだよ」

 この時初めて店の近くまで誘導されていたことに気がついた。

「ママに鍵を渡されたの、店開けておいてって、まだ来ないから」マホナはおれの手を握った。「それとも、あんなところで一人にするき?」

「まだ行かなくたっていいよ、時間までこの辺で一緒にいれば」

「本気で言っていんの? レディーには準備があるって、そんなのもわからなかったらあーあ一生紳士にはなれないわ」

 引っ張られるまま建物の裏から入ると、そこは狭い厨房だった。

「ママが来たら隠れてね」とマホナ。

「どこに? 隠れる場所なんてないよ」

 マホナはおれの首に手を回し、引き寄せながら、自分の背中を壁にもたれさせた。マホナの尻に爪を食い込ませると、マホナの吐息が首にかかった。

「サキ・・・・・・、サキ・・・・・・、サキ・・・・・・、サキ・・・・・・」とおれはキスしながら無心で言っていた。そして、そのことにようやく気がついた、

「・・・・・・サッキ、サッキさ、サッキの犬、怖かったんだろ?」

「うん」

「とっても、とっても、とっても、怖かったんだろ?」

「うん。怖かった」

「だめだ」笑うしかなかった。「言っちゃった、彼女の名前」

 マホナは抱き合ったまま三十秒くらい固まった。

「わざとでしょ? わざとに決まっている・・・・・・。出ていって、いいから早く、ママ来ちゃうでしょ」

 マホナは中から鍵をかけた。おれは表のシャッターを二回けっ飛ばして、「ばいばい」と叫んだ。

 駅に向かいながら考えることは一つだけだった。ここに残るかどうか・・・・・・。歩いているのは昨日と同じ場所、同じ時間。右手はワンブロック隣に並行して走る電車が建物の間に見え、その向こうで山に日が隠れようとしている。どこかで座って考えたいと思いながら、曲がれば駅というところまで行きついた。これ以上行ったら、観光客がわんさかいて煩いし、駅を間近にして帰る気になってしまうかもしれない。ビジネスホテルの日蔭になって肌寒いが、東急の回転寿司の前の広場と、歩道の間の、いかにも中学生がたむろしそうな段差に座った。寒いのは体が疲れ切っているせいだと思った。出来るだけ早く、ちゃんとした場所で休まなければならない。

 目の前でもビジネスホテルは選択肢から外した。あんな酷い場所で問題を先延ばしにしたくない、お金が無駄に減るだけだ。マホナを頭から除けば、気持ちは半々になった。部屋を借りてもお金は貯まる。実家に帰ってどうする? 母は、おれがここに来る直前に実家に送った段ボールを勝手に開け、中のスーツを見つけだし、仕事を辞めたことを知ったはずだ。

「今どこにいるの?」

「駅だよ帰ろうかなって思って。さっきのこと怒ってる?」

「嘘だ絶対信じない、どうせすぐそこにいるでしょ? 全部聞こえている、今更来たってなにもないわよ」

「じゃあ電車の音は聞こえない? あとは乗るだけ」

「ダメ!」

 その一言にどれだけの動揺が凝縮されていたことか。これまでのマホナの挑発を帳消しにして余るほどの戦利品だった。

「オマエハワタシカラハナレラレナイ」

「なんかの呪文みたいだね。残ったらまたデートしてくれる? もうエッチはしないから」

「なんで? なんでしないの?」

 彼女が即座に言い返され、なにがなんだかよくわからなくなった。

「お願い、レオの代わりになって」

 レオ? ・・・・・・ああ、レオか。単語の意味を理解して心に付いていた淡いプライドがそぎ落とされた。それから、悲しみの上に欲望が芽を出した。

「そうだね、結局、楽しければいいんだし、帰ったってすることはないんだし・・・・・・」おれは疲れがそうさせたのか、内心をベラベラと実況し始めた。

 マホナは珍しく黙っていた。

 終いにおれは言った、「わかった。レオが出るまでおれがマホナを守る、昨日見つけた大家さんにかけるからいったん切るね」

 この日も電話は通じた。

 駅のロッカーに入れておいた荷物を出し、記憶を頼りに看板に着いた。看板の裏に豪邸、軽トラとセダンの奥にアパートが建っていた。

インターホンを鳴らすと、髪を団子に束ねた背の低い六十歳前後の女性が現れた。電話で話したのは彼女だと思ったが、全く権限がないような余所余所しい迎え入れ方だった。本棚に囲まれた洋室に通された。難しそうな本ばかり並んでいた。小ぶりなソファアとデスクチェアーが一脚ずつ、その間にテーブルがあった。女性と入れ違いに、六十歳前後の七三分の男が入ってきた。棟梁にしては小柄だと思った。

「さあさ掛けて。部屋を探しているんだって? 仕事は?」

 おれはソファアに、棟梁はデスクチェアーにそれぞれ座った。

「はい。トンネルの向こうのローソンで働いていています」

「あそこは山崎さんだら」

「マリオの髭の人です」

「それなら話は早い」

 棟梁は引き戸の隙間から隣の台所に向かって叫んだ、

「かあさん! 山崎さんのとこで働いているんだって、見せてやって」

 正直に言うと、疲れ切っていて下見などしたくなかった、それに、荷物からも即決する意志は伝わっていたと思う、しかし、ここで不安を買うわけにはいかなかった。

 先ほどの女性に連れられた。三階建の三階の一番奥がその部屋だった。浜の仕事で使っていた寮と比べると同じくらいの大きさの建物だったが、外観が与える印象が全く違った。こっちは横文字で「アパート」、あっちは一文字で「荘」、と書いた方がしっくりくる。

「ちょうど角部屋の良い部屋が空いていましたわ」と言って、夫人はドアを開けた。

 洋室が和室を囲む、珍しい間取りだった。理想を遙かに越えた部屋だった。日当たりも良さそうで、トイレは和式だがコバルトブルーのタイルが輝いていた。マホナが喜ぶ顔が浮かんだ。一人には広い。

「一人で住むだら?」と棟梁は言った。

 おれはペンを止めた、

「彼女が後で来るかもしれません」

 夫人が口を挟んだ、

「東京からくるのよね。週末に呼んであげたら、とっても喜ぶと思います」

「仰る通りです」

 棟梁は無言で頷いた。

 五千円を敷金として渡して光熱費を退室時に支払う約束をした。全てが順調だった。

「今日はどうする」と棟梁は言った。「布団やなんかないだら?」

「大丈夫です、ティーシャツを引いて寝ます」

 結局、布団を渡されたのだが、何故かひどく湿っていたので使わなかった。

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