第4話
ゆっくり食事をして、2人でお皿を洗う。
彼の鼻歌が届く。
「...Leaves are fallin' all around...、time I was on my way...」
ふと、思う。
限りなく広い世界の中で、私が関わることのできる範囲はミジンコみたいにちっぽけだ。
それでもその範囲だけはいつまでも平和にささやかな幸せに包まれていてほしい。
遠い国では戦争が起きていたり、人々が飢餓に飢えていたり、銃を持つテロリストたちが殺人計画を練っていたりする。
ミジンコくらいの私たちが1人や2人、1匹くらいいなくなったって世界的にはなんにも変わらないし困らない。
それでも。
それでも、そこにあなたがいてくれるだけで、私は幸せになれる。
更けていく夜の中、コーヒーを淹れる。
部屋に広がるコーヒーの香り。
床がギシギシと軋む音。
白いタイルが貼られた窓枠。アイボリーの壁紙。うまく閉まらない窓。
窓の鍵は小さなまるでオモチャみたいな代物で、私達は引っ越してきてまるで宝物箱の鍵みたい。と笑った。
10畳程度のリビング。
小さな、水しか出ないタイル張りのキッチン。6畳の寝室には小さな暖炉があって、でも壊れていて使えない。
白いペンキで塗られた外壁は所々ハゲていて、玄関横の柱はギシギシと歪む音を立てている。
天井が高くて・・・外見は可愛いけれど冬は冷えるんですよ。
いい所も悪い所も全部見せてくれた大家のお婆ちゃんはニコニコと笑った。
「でもね、お爺さんと住んだ思い出の多い家だからね。処分したくないの」
出来れば住んでくれると嬉しいわ。そう大家さんが言う前に、私も彼もここに住みたいと心を決めていた。
地方で暮らす息子夫婦と一緒に住むことになったという大家さんがこの家に残している思い出はどれ程のものだろう。
彼は私の手を握りながら大家さんに微笑んだ。
「僕も、この家に忘れられない記憶を詰めたいです」
大家さんは「素敵な台詞ね」とフワリと笑った。
彼が少し照れたように私を見て、私も微笑んだ。
私と彼が結婚以来、8年間住んでいたあの家は今、どうなっているんだろう。
同じように古い素敵な家だった。
家にお別れを言う時間もないまま、慌しく引っ越しをしたことが今もとて悲しい。苦しい。でも、私にはあなたがいる。
それだけで、充分だ。充分。
お風呂に熱めのお湯を溜める。
熱湯しか出ない水道栓と、冷水しか出ない水道栓。
「これの調整も随分慣れたね」
彼がまるで科学の実験みたいな難しい顔をして、お風呂にお湯を溜めるのを見る度に私はお腹を抱えて笑った。
「真剣な顔ね」
「微妙な調整がいるんだよ」
私たちはそんな些細なことでも幸せに包まれる。
毎日食事をする、お風呂に入る、ベッドで2人並んで眠る。
彼が仕事から帰ってきた後、朝までの時間が好き。とても好き。
彼の細い腕に抱かれてベッドに入る。
彼のパジャマの柔らかい生地が頬に当たって心地いい。
わざと足先を彼の足に絡めると、彼がふふと笑った。
「冷え性だから」
「・・・・・・じゃあ俺があたためてあげる」
彼が悪戯っぽく笑って、私の髪の毛をくしゃ・・・と撫でる。
まるで猫を撫でるみたい。
私は彼の胸に顔を埋めてクスクス笑う。
「ねぇ」
「なぁに?」
「好きだよ」
「・・・・うん。ありがとう」
「好き」
「・・・・・うん。ありがとう・・・」
「好き」
「うん」
「好きって言う度に、もっと好きになる」
「・・・・私の方が好きだよ・・・・・」
彼がフッと笑う。
「俺の方が絶対好き」
まるで付き合い始めの恋人同士みたいな甘い会話を彼は付き合っている2年の間も、結婚してからの8年間も、何も変わらず毎日言い続けてくれる。
甘くて見てるだけで胸焼けしそう。
大学の時の友人たちは皆、少し呆れたように笑ってた。
彼がどれだけ私を大事にしてくれているか、
私だけじゃなく、私達2人を知る人達は全員知っていると思う。
私は今日も彼の愛に包まれて、眠りにつく。
あぁ、やっぱり御伽噺のようだ。
甘く、甘く、切ない、夢の世界だ。
彼の心臓の音を耳に聞きながら、夜は更けていく。窓際に置いた琥珀が、月明かりでキラリと光った。
揺れて落ちる、通り過ぎる時間。
あなたとの時間。
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