終章
…………すた…………すた…………すた…………すた…………スタ。
「起きなさい」
私は見知らぬ声に起こされていた。誰であろうか。
目を覚まそうと瞼を、しかし、瞼はすでに朽ちていた、それは直観として私へともたらされていた。私はとうに視覚を失っているのだった。
知覚のみの存在。知覚が聴覚を補い、知覚が視覚を補って。
「起きなさい」
見知らぬ声の正体は誰だかわからない、しかし、崇高な、超越的な存在であることは確かだろう。
「わたしの正体か」
声の正体は私の知覚を汲み取ってすぐさま返答した。
「そうだな、かつて惑星を食い荒らし、やがて死の惑星の中で自らの生態系をも滅ぼしてしまった存在の天性、つまり成れの果てだね」
ああ、なんだナノマシンか。もっと見知らぬ存在を期待していた私は、存外代わり映えのしない超現実的な運命を現実的に染めてしまわねばならずに残念に思う。
「そうがっかりするでないぞ」
説教は嫌いだ。
「私は何者でしょう、どうせ死んでしまったのだから、大きな期待はしてませんけれど」
「はっはっはっは、知覚者がどうして喋っておる、まあよい、嘆くではないぞ、君は死んでなどいないよ」
なにを言う、私はあの時ハッキリと死んでしまったではないか。
「まあよい、君は何度も死んだのだ、ハッキリとした現実感の中で。しかし現実感がなんだね、そんなに大事なことなのかい」
さあ、私には何が夢で何が現実なのかわかりませんよ、もうめちゃくちゃに引き裂かれてしまいました。
「そう、だからこそ選ばれたのかもしれないね」
選ばれた。いったいなにに。
「君は確かに何度も何度も死んだ、しかし夢の中でね。君は夢を見ることで世界を生み出し、世界を滅ぼしていく、つまり、この上なく超越的な存在さ」
「超越的? どこが」
「まあ聞きなさい、君は今、いったいどんな姿をしている」
さあ、視覚もなければ聴覚もないからね、わかりませんよ。
「はっはっはっは、もう答えを出しているではないか。君は知覚だけの存在、知覚者だよ。つまり君は、脳みそだけになってしまったのだよ」
なんだよそれ、それではまるであの、ドグラ・マグラのアンチではないか。
「ドグラ・マグラね、あの狂気小説かい。まあどうとでも取りなさい、それが君のたった今の現在なのだからね。言っておくが君、君はね、ナノマシンの食い荒らした世界で、憐れかな電極を脳みそに刺されたまま野晒しの状態で荒野に置き去りにされていたのだから、そして相も変わらずに今の今まですっかり放置されている、なんという不幸であろうか、しかしさらに憐れむべきとでも言おうか、それはどれほどの超越者であっても覆すことなどできないのだよ、なぜならばね、それ以外の存在はすべて跡形もなく朽ち果ててしまったのだからね」
「バカな」
「いいや、そんな馬鹿なこともあるもんさ。なにを隠そう君の国はナノマシン暴動の最たる中核の地、言ってみれば暴挙の一大王国だったのだから」
「いくらバカな私でもそれは違うとわかりますよ。だって世界中で引き起こされたパンデミックの中で、唯一と言ってよいほどかつての我が国は清潔を保ち続けていられたのだから」
「はははぅ、しかし、それはどの夢の記憶であるかな」
「え」
「つまり、君が見た夢のいったいどのバリエーションだったのだろう、ということだよ。しかしね、真実はひとつだよ。君の記憶は錯誤している。世界中へとパンデミックを伝播させたのは君の国であり、
惑星全体という巨大な病魔すべての言わばダイナモであったのだから、それが真実だよ」
「嘘だ」
「いいや。まあいい、序々に思い出すことさ。いずれにしたって世界はパンデミックに滅びてしまった、そして最大の無法地帯であり中心であった君の国は真っ先に空っぽになってしまったのだよ、たったひとつ、君を除いてね」
「私を覗いて。どういう意味だ」
「君は一縷の望みだった、パンドラの匣の底に息づいていた希望だった」
「パンドラの匣。ふん、くだらない、ただの説話じゃないか」
「言葉や物語を軽視するでない。なぜならわたしも、そして誰あろう君こそ、知覚、つまり言葉だけの存在になってしまったのだから」
「ふん」
「荒野に晒されていた電極刺された剥き出しの脳みそは、滅びていく世界の唯一の希望だった。君はナノマシンウィルスに完全に冒された絶対的な宿主だった」
「皮肉なものだね」
「そしてさらに皮肉なことにはそれゆえ君は死すことがなかったのさ」
「よくわからないな。それに、矛盾するようだよね、そもそもが滅びゆく世界の淵においてもってことになるよね」
「ああ。なぜならば食い荒らしてしまった世界でたったひとつの宿主だったからね、そして、奇蹟とでも呼ぶべきだろうか、世界の道理がついに転覆を起こってしまったのだ」
「わからない、どういうことだろう」
「つまりね、寄生する母体を失ったナノマシンの群れ群れは、その絶望的状況下において、もはや自らを改造する以外に手立てがなくなってしまった、つまり自らが半植物的存在にならざるを得なかった。しかしその苦肉の策の向こう側において安逸、ましてや永遠などもってのほかの過酷さでそういった甘い幻想は待ち受けてはいなかったのさ、ナノマシンの余命をわずかに引き延ばしてくれるに過ぎなかったのだよ、つまり総じて限界があったのだ。よって自然な筋道として世界にたったひとつ残されていた君の脳みそへと向かって次々に半植物と化したナノマシンたちが突撃していった。それはそれは可笑しなことに彼らの養分はみるみる君の脳みそへと蓄積されていったのだ、あれよあれよとはこのことだろうね、すんなりと自然な流れのままに、君こそが世界の王になってしまったのだ、そしてとても重要なことに彼らの知性もまた君の王国を強大にしていくこととなる。彼らの知性はすべて君に捧げられたようなものだった。そして、淀みなくしてすべてのナノマシンが君へと収まった、そうして一直線に世界は空っぽになってしまったのさ。結果、世界に君だけが残った、これがすべての真実さ」
「あなたの語る真実でしょう。私の知っている真実はまた別のものだから」
「ああ、君は夢を見ている、君が夢を見れば世界が生まれる、そしてやがて滅びていく、ひとつの夢が終わり、次の夢が始まるとき、もう君は、前の夢のことなんて覚えちゃいない」
「わかったようにおっしゃいますね、しかしじゃあ今ここでの、あなたとの会話も夢なのでしょう」
「それだけは違うと言っておこう」
「なんですかそれは」
「すべてを語りきるべからず、そうしてしまったら、物語は現実世界より価値のないものになってしまうから」
「どうして。現実世界ってそんなに価値の低いものなんですか」
「いいや、比較論さ、決して価値がないとは言わないよ」
「本当に」
「そうさ、なぜって現実世界がなければ物語は生み出せないのだから」
「それって現実世界を。わかった、あなたは物語至上主義者だ」
「それよりも知覚者と呼び給え、でもね、実際問題には、わたしなどとても君には敵わないのだよ」
「わからないな。第一私にとってのあなたの立ち位置がそもそも不明瞭ですよ」
「何度も言うが。君は世界を作り世界を滅ぼすのだ、わたしはそれを傍観しているだけなんだ」
「そうか、ということは、保護なのですね」
「まあそういえばかなり的確かもしれないね。だからといって君より偉いというわけではない。何度でもいうが君こそ創造主なのだ、君に比べれば保護者たるわたしなぞただの付き添いに過ぎないのだからね」
「創造主だって。大袈裟な。なぜなら私は病人なのですよ」
「そう。むしろそれが答えだよ。病こそ元来、創造の中心に根ざすものだよ、そうやって、生まれては、消えていく。消えもできない夢物語なぞ、ああったとしてもそれは単なるまやかしに過ぎませんぞ」
そしてもう一度微睡みの中だった、秒針のような正確なリズムが刻まれるのだと理解していた、それは時計から放たれる空気を弾くような乾いた音ではなくて、緩んでいる古い蛇口からこぼれ落ちる水滴の鳴るような湿りとくぐもりが含まれていた。
やがてだんだんと想念が霧のように漂い生まれ始めて、しだいに映像へと滑走していった。
薄闇の情景。暗い雫が上方に溜まっている、自らの重さのせいで揺らぎ、空中に浮かんでいるのが奇妙だった、そして抱えきれなくなって暗い塊が崩壊してひと雫を真下へと落下させていった。水平線まで広がった重液の海のおもてに垂れこめると波紋が重々しく描かれ伝っていく。湖のような静けさの海で、波紋を生むまで波音ひとつなく平に鎮まっていた。
…………すた……………………すた……………………すた……………………
想念の映像に引き込まれたせいであろうか、正確であるはずのリズムが緩やかに引き伸ばされているとわかる、拡張意識の仕業だろうか…………
暗い雫は延々と落下運動を繰り返す。落ちる、と同時におなじ大きさの雫が生まれていて、また、落ちて。
聴覚と視覚を行き来しながら、リズムは弛緩と収縮を弄ぶように曖昧だった。
暗い甘美に留まっていれば永遠に可能かもしれなかった、しかし、肉体は微睡みを破ろうと本能しているらしかった、ようやく、無限ほどに広がった想念の映像をふさいだ殻が、肉体として感覚をわずかに戻していき、それから『私』という認識が干し肉のような甘美さで吸い上げられていくのが直観できた。瞼には重液のたゆたいが張りついて苦労した、
…………すた…………すた…………すた…………すた…………
映像を失った私の聴覚には正確なリズムが訪れていて現実世界を占領したようだった、代わりに瞼の向こう側からは鋭く眩さが私の視覚を突き刺していた。微睡みを破るのは、もうすぐだろう。
STAGE4 YUMEZ(ゆめぜっと) @YUMEZ
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