天女

…………すた…………すた…………すた…………すた…………


 はあっ。

 屍体と思われたそれは、病院の廊下の大鏡に映し出された私自身だった。不覚にも幻覚の酩酊に耐えられなくなった肉体からは、爛熟した果実が重力に耐え切れず振り落とされた末に地面との衝撃によってものの見事に破壊されてしまったように、どろどろになった内奥の恥垢が無遠慮に弾きだされ噴出してしまった、ゲロは糞尿はそして血液すらも、ぐしゃっと潰れ出てて廊下を濡らし壁や天井すら届き濡らして……陰惨な屍体も同然の酷いありさまを塗り込めてしまっていた、…………すた…………すた、と、汚物の雨がひと雫ひと雫、可憐な花弁に揺蕩う甘露のように垂らされていた。

 むくっと起きる私はまるでゾンビだった、生きることがこんなに恥であるとは知らなかったが、しかし、私はそれでも、生きる。

 汚物にまみれたその足を一歩、また一歩と踏み出して、私は明日を切り開くのだ。

 寝静まった病院、本当に誰もいないのが不思議だった。守衛や夜間勤務の看護師のひとりでも遭いそうなものであるが、しかし、そもそもがこの狂った『島』の有する、狂った『病』専門院であるのだから、常識でものを考えないほうが得策だろう。もうすぐ出口だ、ようし、この長い廊下を突き抜ければ……………………………………えっ。

 

 深夜……じゃなかった。どういうことだ、病院に誰もいないとはどういうわけだ。確かに暗がりは広がっている、薄闇のような……しかしこれは、夜明けまえに広がっていくような、あの崇高な、清々しい薄闇、ではなくて、単に、雨雲に覆われた、夕刻あたりに広がった、あの陰鬱な、薄闇で。

 それを証明するかのように、病院を出、振り返ると、堂々たる時計台には午後三時半の表記、アナログではない、ちゃんとデジタルに夕刻を示しているのだ。どういうことだ、天変地異でも起こってしまったのか、世界からはひとけが消え去ってしまったかのようだ。

 私は歩いた、まっすぐに、病院と工場をつないだ並木道を。きっとこの先には、おそらく工場に眠っているのは、私の探し出す答えがあるに違いないのだ。


…………すた…………すた…………すた…………すた…………


 どうした、雨か。天を仰いで私は驚愕した、空を覆った雨雲であるはずのそれは、巨大な、重液の雫だった、そして、その巨大なひと雫はこの世界の大地に向かって、まさしく今、垂れこめようとしていた、その予兆が雨となって、小さな、ひと雫、ひと雫を、重液のその雨を、地面に向かって、

…………すた…………すた…………すた…………すた…………

と、振り落としていたのである。そうか、あれこそが、私の目指す結論なのだろう。すると、落雷のような暴力で地面を、世界を、事象を揺らして、引き裂き、軋轢を生み出したのは巨大な重液のひと雫で。答えはこんなにもあっけなく落下して立ち消えになってしまった。そして、見上げれば、一縷の希望をたくしてみたはいいものの、空からは、巨大な重液のひと雫は、ただぽっかりと消え去ってしまっていた。おお、神よ、私は約束の地を失ってしまったのだろうか。

 

 何もなくなってしまった大地に取り残された私、しかし、足取りをやめようとは思わない。私は、進むしかないのだった。


…………すた…………すた…………すた…………すた…………


また地面を叩く音、見上げるも、空にはポッカリと虚しいトーラスの形状だけが浮かんでいるばかりだった。じゃあ、どこから。


…………すた…………すた…………すた…………すた…………


 ふたたび。その雫のひと零れは、なぜだか足音に、そう、近づいてくる恐怖の足取りに聴こえてほかならなかった、


…………すた…………すた…………すた…………すた…………スタ。


「ぎゃああああああああっ」

 木陰からふいに現れたのは、あのナノマシンの、液化した、白銀だった。私の目の前を凄まじく過ぎていった、風圧が顔面を揺らす、そして向かいの木陰に落ちていた、かつての人間の肉体、あの、シュールな現代アートと化したモンスター。その体内に向かってゾバババババババババ、と勢いこんで侵入していく。

 世界の死の象徴であったはずのその死肉の塊を見出し、私はなぜか、久方振りに触れる人肌の匂いと暖かみとして感じ入ってしまうのだった。私は近づいていく。

 曲がりくねって、まるで家具のように変貌していたが、思いのほかかつての人間の面影を残してもいるのだった。苦悶の表情のなかに、超越的な仏像めいた穏やかさを融合させている。地面に伏した腹からは、にょろにょろと触手のごとき根を無数に伸ばしていて、地中深くまで向かって癒着しているのがわかる。その体躯の全体は遠近法で欺かれていたが、完全に近づき目の当たりにすれば、意外や意外ものの見事な見上げるほどの巨体であった。私の体躯を優に越しているばかりか、うずくまったその状態でさえ、隣りあった樹木と背比べができるほどに鷹揚とした、大岩のごときものの見事な圧巻。まさしく天からの賜物とさえ呼びたくなるモンスターは、おそらくたったひとりの宿主ではなくて、幾人もの、幾人もの人々の塊であるのだろう、そしてきっと、私の従事したかのナノマシン製造工場の労働者であり、それは私の後釜である後輩たちの生命を加工原料さながらに絞りとった惨殺屍体の集合体であったろう。その皮肉な生体科学的合体ロボを目の前に、もはや曖昧模糊としてしまった目の前の人生における唯一の指標として遥かに存在している驚異、我が命運のラスボスここにあり、と確信するに至ったのである。

 

 ブシュウウウウウ。先制攻撃は敵陣営、ドロドロに朽ちたまるで一昼夜煮込んだ手羽元のような腕を飛ばしてロケットパンチを繰り出した。すんでのところで私は顔面をわずかに動かした。轟音をみなぎらせ投げ落とされた丸太程もある勢力に満ち満ちた巨大な腕は、地面に触れるや一挙に転じて水風船のような儚さへと陥落し、地面との衝撃によりぶちまけてしまった。

 敵陣休む間もなくさらなる連続攻撃。ブーメランのごとくくの字の脚をぶるんぶるんと投げ出して、まるで曲芸に利用されたダンプカーのような信じられない膨大なイレギュラーから生まれていく破壊力。私はすんでのところでイナバウアーを決めていた、顔面すれすれを通り過ぎた回転ダンプカーブーメランの風圧は私の体躯を地面へとずしんとうずめて私は動けなくなった。

 ラスボス、ついに最終攻撃である、仏像の微笑みがわずかにさらなる広角を上げ高笑いしたのを私は直覚していた、ああ、神に殺されるのならば……

 仏像の顔面、首もとからちぎれて神経やもがれてしまった肉体の破片を、土台を失した首の付け根の断面からまるで電気スタンドのコードのようにぶら下げて仰向きに寝そべる私へとまっしぐらに襲いくるのであった、その破格のスケールはまさしく奈良の大仏の生き写し、下手をするならやや小ぶりな一戸建てそのものだった…………空から舞い降りた天女のされこうべ、私の人生の今際を一筆に染め上げ、すんでの際まで逼迫してもはや押し潰そうとしていた、穏やかな巨大な笑みが空に被さって視界のすべてを埋めつくしていた、近づき続ける死の宣告、奪われた光、そうであるのに法を凌駕したその情景は覆われた視界を突き破り眩く輝いていた、いや、金ジキみずからが光そのものであった、突き刺すほどの烈しい目ばゆさにもかかわらず、私の眼孔は、金に満つるそれらの光源と呼びあうように、しっかりと開かれているのだった、巨大な質量を湛える死刑執行人たる怪しげな顔面は刻々と迫りつつある、私と、麗しきおぞましき天女の笑み、せりあがる口角それは法悦、のっぺりとした瓜実顔のべっぴんに、ふいに深く刻まれた皺を見いだして驚愕する、それは、ガッチリとジグソーパズルのような融合で築かれたかつてのにんげんの体躰のうず嵩なりだった、にんげんそれぞれの尊厳を融解させ、曖昧となったその透明に濁った境界線はことごとく、膠のようにべったりと繋がれてしまっている、ゆえに、それらのかつての尊厳はもはや、たったひとつ、天女としての顔面の体組織としてしか機能を果たせなくなってしまった、しかしその生け贄を誇らしくまっとうしている彼らの発したボディメッセージは、ことごとく穏やかに天性の顕現をものにしておりそれはまさしくこの上ない耽美であった、もたらされるべき接吻の刹那への磁場が重力を崩壊させて、ブラックホールの特異点さながらの計りしれない宇宙領域へと突入したその暴力とは裏腹に、そよ風のごとき柔らかさをかもし出しながら、静謐さをまといこんでは私の生命の薄膜に接吻し翻って悪魔のように弄んで、ピタっと生死の境界線上へ留まっている、天女、この世のものならぬ微笑み、私のたましいをこっぱ微塵に砕き散らせて、並走して、柔らかく漂うばかりとなって。

 昇天!

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