診察

 診察室のドアを開ける、中は明るい、うしろの窓から光が差してさっきは陰鬱だと感じていた樹々の緑が爽やかに思えた。

「どうぞ、お掛けになって」

 医者は私と同じくらいか、あるいはもう少し年下であろうか。ポマードのような甘い匂いが立ちこめている、ぴっちりと几帳面に分かれた七三が妙に感じられる。椅子に腰掛けてもう一度相手をじっくり観察するとその妙な感覚の理由がわかった。医者はメガネをかけていたが、レンズになぜかしら薄紫の色が入っているのだ、なんだか医者らしからぬ違和感を覚えてしまう。

「これまで定期的に提出してもらった報告書を鑑みて、今回お呼びだてすることになりました。『マシンシック』主治医の御所浦です」

「お世話になります、瀬下です」

 『マシンシック』とは世界規模のパンデミックの総称であり今や正式名称とされている。しかしこの国では『I・Cチップパンデミック』という名称のほうがポピュラーであった。パンデミックとは字義通りであるが、『I・Cチップ』というのは、ナノマシンウィルスの寄生宿主へもたらす現象から来ている。白銀色の流体、もしくは蒸散して一定時間漂うことのできるナノマシンウィルスは、母体に感染すると、やがて変態していって、相手の肉体に『I・Cチップ』のカタチで存在していくことになる。これは癌細胞のようなもので、いったん形成してしまうと、肉体へと癒着して離れてしまうことがない。先端医療では唯一、『電極』と呼ばれる長い針を局部に刺して、そこからプログラミングをすることで駆逐していく。『STAGE1』と呼ばれる初期の段階では成功例も多く見られるが、ステージが進むにつれてしだいにうまくいかなくなる。

「瀬下さん、率直に訊きますが、定期報告書に少し違和感を感じまして」

「はあ」

「というのもですね。はじめのほうはまったく症状が見られなかったのです、しかし、前回の報告で、急に」

 医者は急に口を閉ざして薄メガネ越しに私を凝視し始めた。私は言いようのない圧力を感じ押されて黙りこむ、しかし、御所浦医師は何事も発する様子を見せない。仕方がないので私のほうから話をつないだ。

「ええ、実は心あたりはあります」

「そうでしょう」

 医師はふたたび勢いよく返答する。

「そうすると、瀬下さん、あなたにはあまりいい結果をお知らせできないかもしれない」

「えっ」

 沈黙。

 一分ほどであろうか、互いを見つめあっていた。

「先生、まだ何も調べてませんけど」

「ええ、しかし」

「しかし。じゃあなにかあるんですね、明確な答えが」

「ええ、調べてみなくてはお答えできませんけど」

「ちょっと」

 つい荒げてしまう。偏屈医師のペースに乗せられてしまった。

「すいません。先生、一応私患者ですので、もう少し丁寧にそのいきさつを教えていただけませんか」

 すこし沈黙。一瞬なぜだか色メガネの表面がギラリと輝いた。

「ええ、いいでしょう。恐らくこういうことでしょう、あなたははじめ、報告書に偽りを書いた、ええ、それはよくあることです。別に罪悪感をもたなくてもいい、それに、自分自身にとって、あまり気持ちのいいことではありませんから」

「先生、遠まわしに聞こえます、もう少しわかりやすく教えてくれませんか」

「ええ。つまりです。はじめのほうは人間、誰しも目を背けたくなるものです、いかなる微塵な症状でも、そんなわけないよと思いたくなるものですね、しかし、この場合それが命取りになるのですよ」

「ふぅ」

 ため息。医師は遠まわしな言い方をやめようとしない、しかし私には十分響いた。

「瀬下さん。この感染症はね、初期に見つかればどうにでもなるんですよ、でも、あなたが正直に書かれた段階ではね、下手をすると手遅れの段階にまで進んでいるかもしれない」

「そうですか」

「まあ一番悪いことをお伝えします。あなたはそれがいい、年齢的にもね。そうしてはいけない年齢もあるものですよ、わたしも長いこと医者をやってるものでね、そういうことには敏感にもなるし、大胆にもなってしまう。とりあえず今は勘でものを言っているに過ぎません。瀬下さん、ここにはこの感染症の最先端の設備がありますよ。あれをご覧なさい」

 彼が指差したものは巨大な医療マシンだった。普通ならこのような診察室には置いていない代物だろう。

「このようなものは他の病院にはない場合すらあります。しかし、この病院にはね、これと比較にならないくらいの設備がありまして。驚くでしょう、見てくれはとても古いただの病院ですからね、しかしです、今世界中で問題になっている病気に関するんですから、国の予算は大幅に割かれているんですね、それが世界平和へとつながるくらいですよ、とても大きな問題だ、これは医療を越えた領域と言えるのかもしれません。まあそういうことで善は急げです、さっそくこの中へお入りなさい」

「先生、ひとついいですか」

「ええ、どうぞ」

「これは、」

「そう、CTスキャンですよ」


 これまでの人生で診察といえば大げさなものでも診察室のベッドに寝転がるくらいのものだった。しかし御所浦医師の言うように、これはもはや、国家規模の平和的問題ですらあるのだ、私は大きなマシンに、世界が今抱えている危機を写して見てしまった。

 マシンのブザー音が響いた、カプセル状の内部へと、私は流されていった。

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