出発 二
やはり波止場はフェリーを待つ人々で群れている。不幸にもあの『島』を目指さねばならなくなったこれらの群れのいちいちは同じ境涯であることは間違いなかった。
しかし、今回の私の目的は、彼らとはまったく異なっていた。
「あんた? 見ない顔だな。ここは始めてかいな」
小太りの係員。本当は二度目だし、すれ違ったあの時の帰りも含めればもう三度目になるんだぜ、オッサン。
「こんな時流だろ? おかげで栄えちまってイケねえや、元々あんな『島』にゃ誰も近づかねえのが常識だったってのに、フェリー2台稼働させても足りねえくれえだからな。今日は相方が休日だから運が悪いぜ、もうさっきから行ったり来たりでへとへとだぜ。これじゃあ昔を思い出しちまうぜ、俺が若けえ時も不況だったからな、あの『島』はあれ以来の忙しさってわけよ」
私はただ彼を眺めてうなずきもしなかった、あの時とまったく同じ内容、喋り方に違いない、こうやって彼は、任務を終えるその日まで延々と変わらぬ日常を続けていくのだろう。目の焦点が合わず、相変わらず私に話しかけているのか定かではなく思えてしまう。
「そいじゃあ頑張って来るんだぜ、嫌なうわさも立ってるけどよう、いったん慣れちまったら、案外他の肉体労働よりも楽だったって話しさ」
そう言って決まり事のように私の腰をバンバン、と叩いた。彼に切符を渡すと他の客のほうへと走り大声で話しかけ始めた。
鉄の軋むような音がこだましてこちらへと伝った、それからフェリーは波止場へ収まっていく、大勢の乗客が降りる。空になったフェリーへと波止場側の群れが導かれ吸いこまれていく、私も運命に流れるように習った。
あの日の事故のあと、しばらく休んだのちに残りは休みなく任期を全うし、そして不幸中の幸い、成功報酬は振り込まれることとなった。
常人、否、私のこれまでの人生における労働に比べるなら、十年かかるような破格の報酬で、それは今後の妻たちとの共同生活を順風満帆に過ごすための軍資金としてみれば十分すぎる額であった。それからは、妻と子供たちとの穏やかな生活が始まっていく。
あの『島』の記憶から遠ざかり一年が経とうという頃だった、新居のポストに投函された小包の発送先を見た途端、それまでのささやかな幸せは転覆し、やがてまっすぐに転落へと向かった。
『島』には病院があった、それは、『ナノマシン感染』に関する専門院であった。小包にはいくつかの書類があり、感染の恐れあり、と書かれていた。
妻には内緒にしていた事実、しかし本当に感染しているものとは思わずにそれまで暮らし続けた。家族との生活への安堵が、不思議にも事故や感染への恐怖の記憶を忘れさせたのだった。結局妻には事故の事実ばかりか、感染の可能性という最悪な情報まで知られてしまい、すぐに関係は破綻してしまった。貯金はきれいに折半した、悲しいことになったが、妻はなぜだか不安そうな表情ではなくむしろ希望に満ちたように別れていった。生活の足しには十分な額だ、これから家族が養っていけるのなら、もう未練はない。
工場に隣接する病院は古くて大きかった。一般的な大きな病院と同じく樹木や植物の植えられた庭に囲まれているが、しかしどこかしら陰惨な印象を受けてしまう。枯れ木や枯れた植物が所々混じっていてそれらが放置されてあるというのもあるだろうが、それ以上にこの『島』が担ってきた巨大な負の歴史や背景が深い陰影のように被さり写されてあるからなのかもしれない。
工場の裏門と呼べる搬入口とつながっていて、庭の並木道のひとつがあたかも渡り廊下のようなカタチだった。玄関は案外厳重であり、わざわざ小包にあった入館証を見せなければならなかった、感染症の恐怖と警戒を物語っているなと思う。
ロビーは気が抜けるほど普通の病院と変わりないものだった。受付を済ませ呼び出し放送を待つ。ソファのベンチに腰掛ける。ただ、感染の恐れのある患者たちが並んでいるベンチには知らずしらず長めの間隔が取られ、私も無意識のうちに距離を置く。他の患者たちには一見して症状が見て取れるほどの異変は見られなかった。数名の患者には口元の弛緩が見られている。男性の労働者だけかと思いこんでいたが、意外にも女性や老齢者も混じっている。感染の拡大のせいだ、工場においての事故、私のような直接的原因ではなく、まさしくウィルス感染のような生体を媒介する段階にまで達しているのだ。私は感染の可能性をもつ私と一年ほど暮らした家族のことを考えて後ろめたくネガティブな気持ちに囚われてしまった。
据えられたTVからは専門院らしいといえばらしいのであるが、『ナノマシン感染』関連のニュースが流れている。今は世界ニュースの衛星放送であろうか。この国ではまだ被害の報告が少ないという、しかし世界規模で鑑みるならば、もはやパンデミックと言っても過言ではないレベルである。世界ニュースではショッキングな映像が、しかし淡々とした同時通訳のナレーションで伝えられている。
当初は他の動物への感染から始まった被害も、今では人類にまで達してしまった。人体に寄生したナノマシンは、体組織を麻痺させ機能停止にさせたり、肉体を別の機能へと作りかえてしまって奇形を生んでいく。重症になれば、無残にも完全に人間であった頃の面影を破壊してしまうのであった。モニタにはまるで現代アートのようなフォルムをしたシュールな人体が映し出されていく。あたかもデザイナー家具のような、あるいは抽象彫刻作品のような。
世界中の国はわが国のように医療に大幅な予算の割かれた国ばかりではない。発展途上国こそ重症患者がそのまま放置されている可能性も多く、それは死の象徴であるかのように、地域自体が封鎖されて人々の姿は立ち消えてしまっている。死んでしまった村に残されたシュールな人体アート作品を遠景から撮影しているその報道自体が皮肉にもスキャンダラスな匂いをもたらしてしまっている。放置されたかつての人体は、しかし調査によるとそれで死により終わりを迎えることができるばかりではないらしい。むしろその大半は、寄生したナノマシンによる遺伝子操作によって、今では『植物化』と命名されている現象が起こるのであって、動物性の剥奪と代替に、地中の無機物を分解することで食物を摂取するとは別様の生命形態によりさらなる生き地獄の器として生き続けていくのだという。寄生したナノマシンは、無論元人体の生体エネルギーを取り込み生きているのだから。そしてその半植物となった言わばモンスターからは、新たな種を生み出す温床とされて実際これまでにはなかった新種の生命体が産み出されているのであった。もはや人類の管理下どころか、人類があえて踏み込まなかったゲノムの領域、つまり神々の領域へとナノマシンたちは突入しているのであった。
途上国に産み落とされた半ばモンスターのような、半ば創造主のような人類の成れの果てに咲いた新たな一輪のお化け花から、感染を恐れて中途半端な場所へと移動したその村人たちの行方は、しかし感染規模を遮断するほどの隔離はなされずに、むしろ次なる感染への橋渡しとなっているようで、それがパンデミックの一因とみなされているようである。
かつての同胞であったその感染の宿主を、焼却してしまうべきか、ついには殺人か否かという倫理的な、さらに踏みこむとするならば哲学的な論及の段階へ認識は突入しているのだという究極的な超日常がもはや世界的な時流であった。
私は苛烈な映像と討論から目を離し、ややオフビートな感覚さえもたらしている隣り合った患者たちを眺めることで、この目と緊迫感を休めることにした。
「瀬下さん、お入りください」
私の名が呼ばれる、あの非現実的な世界の様相のせいで自分のみまうことになった悲劇は薄れ忘れてさえいたのであったが、突然の現実的な響きに、世界ニュースとはまた違う緊張感が内面に疼くのを感じ、少しだけ厭な心地を抱えているのが苦であった。
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