感染
半年間の職務も終わりに近づいていた。これまで、今や慣れもあるにしろ、思えば当初から一貫してキツいこともなければ、危険なこともなかった。
私はクレーンの資格を有していたおかげで、端から重要な役割を負わされる身であったが、他の補助的な職務よりもむしろ安全だったように思われる。すでに、皆からは『主任』と呼ばれ、頼りにされているくらいだった。そのために成功報酬も、さらに上乗せされるというのは、先の未来において喜ばしいことでもあった。
私の職務は、ナノマシン製造ルームを、安全なコントロールルームから見下ろして、クレーンの操作をする、というだけのものだった。製造ラインのほとんどはコンピュータの自動制御であり、労働者たちはまさしく補助的な役割のみを負うのであった。ただしクレーン操作には、人間の勘も大きく作用していて、瞬時の判断は逆に変動のないコンピュータに任せることができなかったのだ。
とはいえ、慣れてしまえば、緊張すらしないくらいの、本当に簡単な操作である。
製造ラインの最終工程、巨大なタンクが運ばれてくる、その中には液状のナノマシンが大量に入っているらしく、しかしその中身をかいま見たことはただの一度もなかった。そのタンクへとクレーンを下ろし、フックを掛けて釣り上げ、運搬マシンに乗せる、ただそれだけの作業である。それ以外は自動で仕上がっているのだから、正直自分がナノマシン製造に携わっているという実感も覚えることはないくらいだった。
「主任!」
補助係のひとりが大声をあげる。これまでこういった異変はなかった。
「どうした?」
私はコントロールルームのマイクで返答する。
「異常があるみたいです。クレーンの挙動がオカしいんです!」
彼は補助係の中でもベテランでかつ信頼できる判断力を持っていた。
「そっちからではどうすることもできないのか」
面倒なことになった、そう思う。
「はい! 一度主任が休日の時同様の症状がありました。クレーンの知識がないと解消できないみたいで。前回もクレーン技術者が製造ラインに降りて、すぐに解決できました。解決方法はもうお聞きになっていますよね?」
あれか。私は一度も製造ラインに降りたことはなかった、あとひと月弱、何事もなく終えてくれれば、と願っていたが、そうはいかなかったようだ。
私は製造ラインに降りる。思いの外機械の騒音に満ちている、上から見下ろした情景とはまったくの別世界だ、と思う。
「主任、防護服はちゃんと密閉されていますか?」
「ああ……」
こういう事態をちゃんと予期しなければならなかった。上から作業を眺め下ろす状況に慣れきってしまったツケが来たんだ。正直、今さら防護服の着用方法を教えてくれ、とは言えなかった。それでも、研修の時の記憶をたぐり寄せ、きちんと着用できた筈だ。確か、九箇所、だったよな。
皆はまるで宇宙服のような防護服を来ている。ナノマシンの功罪は、人体への感染だった。あたかもDNAを有しているように、ナノマシンの知性はすでに、遥か創造者たる人類の知性を超えてしまっていた。ナノマシンは世界の都市や環境を一変させ見違えるほどに発展させてくれたが、その労働本能はそれだけにとどまらずに、様々な生命へと侵入し 寄生することで、新たな生命を創造する段階へと暴走するに至ってしまった。
それゆえに、より鋭敏な本能を発露している未発達なナノマシンは特に危険であって、製造ラインでは、ナノマシンへの接触を確実に回避するために、ウィルスに対するほど厳重な防護で身を守らなければならなかった。つまり、下手をするなら、命と引き換えに成功報酬は得られるのである。これが、この『島』の最大の秘密であり、破格の報酬の源であった。
危険を冒してまでも、人類はナノマシンの製造を中止することはなかったし、さらなる増産は止めどなく、それゆえ、我々のような労働者の需要はなくなることはなく逆に増えつづけていったのである。それほどにナノマシン産業による利益は莫大であったし、それ以上に、未だに支配可能であるとみなす、人類のナノマシンに対するおごりがあるに違いなかった。
報告によると異常など簡単なことであった。タンク一杯に溜められた液状のナノマシンの重量が、誤作動により過重量となってしまっただけである。クレーンの根元にある制御装置の値を確かめて、それに見合った値を入力してリセットすればいいだけのことだった。過重量とはいっても、安全基準は大いに余裕のある範囲の値でしかなかったから、単に単純計算をしてボタンを押せば解決、というなんでもない代物であった。
はっきり言って、コントロールルームから過重量の値を報告を聞き出して、危険を冒さずに入力の指示を与えることだってできたに違いない、しかし、普段から危険に隣接して労働を行う彼らに、このような異常事態においてそのような判断を下すことは気が引けてできなかった。
何事もなくリセットは完了した、安堵の表情で皆は散っていき持ち場へと戻る。私もほっとひと息、自分の持ち場のある頭上の安全領域へと戻ることにする。
緊張から解放されたのか、しばらく無音に感じていた室内の騒音が再び襲ってきた、同時に目の前を覆うガラス越しにもわかる機械へと射された油の匂い、これは、この製造ラインいっぱいに広がった独特の匂いらしい。苦しい、そういえば普段着ることもない大仰な防護服に密閉されているのだ、これまでの人生で感じたこともなかった閉所恐怖症が突然現れたような厭な、息苦しさが私を占領していく。網状の鉄の床をたどたどしく伝っていく、来る時には意識しなかったが、思いの外ぐらぐらと不安定な床で心もとない。
突然、網状の鉄の下部から蒸気が上がった。けたたましい鋭い音響と蒸気の勢いに不覚にものけぞってしまった。普段は補助作業員のそのような日常を、高みから笑い小馬鹿にしていたのに、自分がその身になってしまえば、結局人間の尊厳に高いも低いもなかった。滑稽なのはわかっていても、恐怖の感情にはひれ伏す以外手立てはないのだ。
さらにけたたましく、蒸気が私の目の前を襲う。
意識が遠くなり、これまで感じたことのないぐにゃぐにゃした視界が私の周囲を廻っている、私はまるで、高層ビルに張られた細くて頼りないロープを渡っているような心地になる、鉄の網はぐにゃりとさらに変形して、大きな揺れが私を暴力的に振りまわしている、一本の細いロープの足場以外は踏みはずしてしまえば転落してしまう、それ以外の視界がすりガラスのようにぼやけて消え去る、立ちつくす他はないというのに、大きな揺れが何度も私を転落させに襲いくる、もううかうかはしていられない、恐怖を振りほどくように、一歩、もう一歩、少しずつ、歩いて……
━━主任ー……━━
ああ……同僚が私を呼んでいる……とても遠くから呼ぶ声……しかし私はこの一歩一歩に集中しなければ、振り落とされて高い高いこの崖から暗い渓ぞこへと……鋭い蒸気がまた目の前を突き上げ上昇している、行かなければ……早く行かなければ私はこの蒸気に掴まれて渓ぞこへとまっしぐらに……
━━主任ー!━━
「主任! そこは違います、危ない!」
空間を切り裂くような音響、網状の鉄床から生まれるものとは別様の蒸気だ。意識を現実へと戻して、同僚の声が明瞭に届いた瞬間に私が見たもの、いつの間にか製造ラインの奥へと入り込んでしまい、作業員の踏みこんではいけない領域だと気づくが早いか私が見た情景はおぞましく、麗しく、光沢する白銀の世界で……
…………すた…………すた…………すた…………すた…………すた…………
目の前に広がるのは恐らく次々に製造されゆく液化したナノマシンの海であろうか……
白銀の蒸気、液。こんな奥深い場所にまで誤って踏みこんでしまったのだろうか、ふたたび目の前がぐにゃぐにゃと溶けていく、否、これは本当にナノマシンが溶けて……
…………すた…………すた…………すた…………すた…………すた…………………………
装置の上方から生まれる白銀の液がひと雫、ひと雫零れおちて、白銀の海には、美しい波紋が描かれ伝っていき。
「主任ー! そこは行ってはいけない場所ですからー!」
補助係の声が後方から響き背中へと届いた、しかし私はナノマシンの群れの濃縮された白銀の情景に魅入ってしまい、後ろを振り返ることすら億劫な気がして。
「主任ー、早くしてくださーい、もう危ないですからー!」
白銀の海を湛えた巨大な容器が突然巨大な軋轢を生み出し、私の防護服を圧力が揺らしていた、容器は返されていく、下方に据えられたタンクへとまるで滝のような美しい流線形を描いて……
…………すた…………すた…………すた…………すた…………すた…………スタ。
凄まじい風圧が生まれ出でた、白銀の蒸気が私の頭部へとまっしぐらに迫る、凶暴な獣のような塊となって、白銀の攻撃が、私を外界から隔てた透明な窓を突き破って。
「主任!」
視界は突然亀裂となった、瞬間、私は大きく息を吸い込んだ、白くなる、白銀に満たされた視界がすべてを覆いつくす、白銀の吸気、食道を伝って肺へと届く、血液に溶けこんだ白銀、血液はやがて私の脳細胞へと白銀を運んで……すべては白銀へと…………
…………すた…………すた…………すた…………すた…………すた…………………………
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