怪奇・幻想文学を読む

────

とりあえず書いてみる

1. はじめに

 「幻想小説」「怪奇小説」と類される作品を理解するにあたり、その「構造」に着目して全体性を捉えるという作業は不可欠であるとぼくは考える。よほど読み慣れている人間でない限り、これらのジャンルにカテゴライズされる作品の第一印象は基本的に「よく分からないモノ」であることがほとんどだろう。しかしそのような作品にも必ず語り手があり、登場人物があり、舞台があり、時間の経過があり、物語があり、結末がある。つまりはこれらの諸要素によって形成された作品全体としての「構造」が確かに存在する。この前提を無視していては「日常に垣間見える虚構の恐怖!」とか「極度なまでに観念化された〇〇の心象世界!」みたいなありきたりで他の作品でも代替可能な見方でしか語ることができず、結局「よく分からないモノ」は「よく分からないモノ」として終始してしまう。そこで必要となるのが、幻想・怪奇小説に対する「曖昧で非現実的で掴みどころのないモノ」という偏見を棄て、現代文の授業で評論文を読むときのように、語り手の立場や論(ここでは物語)の展開に注意し作品の「構造」を全体性のうちに捉えることだ。幻想・怪奇小説に描かれる非現実的な怪奇現象、恐怖体験、現実と虚構の混在、観念化され文脈を失った思考回路といった「よく分からないモノ」に対し、理性と論理とテクスト主義をもって挑む。筆者がこのような立場にあることをここに明記しておきたい。

川端康成の短編小説「片腕」では、語り手である「私」と娘の「片腕」との触れ合いが幻想的に描かれる。物語は「私」が娘から彼女の「片腕」を借りる場面から始まる。「私」はそれを自宅に持ち帰り、娘の「片腕」と一晩をともに過ごす。「私」は「片腕」に優しく語りかけ、愛でるように撫で、「片腕」は孤独な「私」を慰めるかのように応じる。そうして「片腕」に酔いしれた「私」は、自分でも気づかないままに娘の「片腕」と自分の片腕を付け替え、心地よい一体感とともに安らかな眠りに就く。しかし翌朝目を覚ました「私」は、衝動的に娘の「片腕」を肩から捥ぎ取り投げ捨ててしまう。慌てて「片腕」を抱き上げ悲しみに暮れる「私」の様子を最後に、物語は静かに幕を下ろす。

 一見するとどこまでも観念的かつ抽象的で捕らえようのない幻想小説のようにも読み受けられるが、そこには語り手である「私」の奇想から広がるスピリチュアリズムの世界、対して写実的であくまでも即物性にもとづいたリアリズムの世界、そしてそれら2つの世界の間に介在する「私」という《空間》が確かに描かれていると気づいた。ここで《》付きの「空間」という語を用いたのは、それが単なる場所の広がりを意味するものではなく、物語の随所において複雑に変容する特殊なものであるからだ。この微妙なニュアンスの違いを意識していただきたい。本論では、「私」を取り巻くこの特殊な《空間》的構造を手掛かりにすることで、「片腕」に描かれる悲劇的結末がどのように生じるのか、そしてどのような意味をもつのか、作品の構造的な観点から解釈を与えていきたいと思う。



2.「私」の置かれた《空間》―スピリチュアリズムの世界―

 まず初めに、「私」が娘の「片腕」を借り受ける場面を見てみる。


「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝に置いた。

「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。


「片腕」を取り外して貸し与える、というのは現実には実現不可能な行為である。これについて作中の登場人物が疑問を抱くというようなことはなく、さも当然のことであるかのように受け入れられ、終始一貫した設定としてあり続ける。ここでは大前提として「非現実性」がこの作品全体を支配していることを押さえておきたい。

 さらにこの非現実的な物語設定は、語り手である「私」の非常に観念化された思考や言動と、「私」の周囲に起こる怪奇現象によって、徐々にスピリチュアリズムの様相を呈してゆく。例えば、娘から借りた「片腕」を持ち帰る道すがら、「私」はある一台の車が通るのを眺めながら、次のように思考する。


朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。


「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」

なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。(中略)こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。


こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光に乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。


ここで「私」は、車を運転する若い女を訳もなく娘の「片腕」と結びつけて考えてしまう。それどころか、その若い女を娘の「片腕」を追いかける天使か妖精の類ではないか、とまで空想を膨らます。「私」の中では観念的思考が論理に勝り、本来ならば何の関わりもないはずの車の女が、「片腕」にとって何か意味をもつもののように感じてしまう。


私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようななにものかが私の先まわりをして、帰りを待ちかまえているのか。


「片腕」を抱えて自宅に帰りついた「私」は蛍火の飛び回るような幻覚を目にする。そしてやはりその光景をも非論理的に「片腕」と関連づけてしまう。作中に描かれる「私」は思考において、さらには自身を取り巻く外界の現象においても、観念に満ちたスピリチュアリズムの支配する《空間》に置かれているのだ。



3.「私」の置かれた《空間》―リアリズムの世界―

 しかしその一方で、「私」のいるスピリチュアリズムの世界には、確固とした即物性にもとづいたリアリズムの世界が時おり垣間見える。それは主として「私」の語る娘または彼女の「片腕」の描写の部分に表れている。


娘は私の好きなところから自分の腕を外してくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀である。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光の球形のように、清純で優雅な円みである。(中略)胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。


娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。


娘の腕の円み、そして「私」の右腕を握る指の様子が細部にまでわたって緻密に描写される。作中において娘と「片腕」はこのように、時に「私」のどこまでも写実的な観察によって描かれる。それはスピリチュアリズムの観念性や神秘性を排した、即物性に満ちたリアリズム的思考の表れではないだろうか。

 一見するとスピリチュアリズムに覆われた《空間》だが、娘や「片腕」に対する「私」の観察に着目することで、そこに確かにリアリズムの片鱗を見ることができる。つまりこの作品に描かれる《空間》はスピリチュアリズムの世界とリアリズムの世界が入り混じった場所であり、「私」という存在はその二つの世界の間に揺れる《空間》に置かれているのだ。さらに言えば語り手である「私」自身も、その思考や観察の様子から、この二つの性質を兼ね備えた人間であることが分かる。



4.二つの世界に揺れる「私」―リアリズムからの脱却―

 これまでの考察から、「私」という語り手はスピリチュアリズムとリアリズムの二つの世界が混在した《空間》に存在することが分かった。続いては、そのような特殊な立ち位置にある「私」と「片腕」の触れ合いに着眼点を移していく。そこではこの二つの世界の間に揺れる「私」が何処へ向かおうとしているのかが明らかにされる。


私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮かんだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。


「片腕」と戯れる「私」は、その指の爪の美しさの奥に人間を超越した女性性を見る。さらには、指の爪を貝殻や花びらのようだと形容しようともしている。すなわち、指の爪という「物体」を想像のうちに別のもの、概念的なものに置き換えようと試みているのだ。この異化行為は写実主義の否定、かつ娘の「片腕」という「物体」のもつ即物性の否定であり、つまりはリアリズムからの脱却行為である。「私」は自分自身の置かれた《空間》からリアリズムを排除し、スピリチュアリズムの世界にのみ目を向けようと試みる。しかしここでは、結果的に娘の手の指の爪はそれそのものとしてしか認識できなかった。「片腕」のもつ即物性によって、「私」は未だリアリズムの世界から抜け出せずにいる。



5.二つの世界に揺れる「私」―「片腕」との同化―

 「私」は「片腕」の向こう側にある極度に観念化されたスピリチュアリズムの世界を目指す。ここにおいて「片腕」は「私」とスピリチュアリズムの世界を繋ぐ媒介としての役割をもつ。対話や触れ合いを通じて次第に「片腕」に心酔していく「私」は、ついに「片腕」との同化を実行に移そうとする。


娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。

手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕をつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。


「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。

そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。


脈搏と鼓動の一致によって「片腕」との同調を感じた「私」は、無意識のうちに自分の右腕と娘の「片腕」を付け替える。媒介としての「片腕」を自分の身体に身に付けるということは、精神だけでなく肉体的にもスピリチュアリズムの世界へ入り込むことを意味する。こうして心身ともにリアリズムの世界から脱却した「私」の思考はますます観念化し、目に映る景色も幻想の色に包まれてゆく。


「なにが見えるの。」

「もう見えない。」

「なにがお見えになったの?」

「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」


「片腕」と同化し心身ともに完全にスピリチュアリズムの世界に包まれたことによって、「私」の目的は達成された。もはや「私」のいる《空間》には現実性など存在せず、観念化された事象だけが彼を取り巻いている。


私は眠った。

たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。


自らと同化した「片腕」と対話するうちに、「私」はうっとりととろけるような眠りにつく。「片腕」の向こうに追い求めていたスピリチュアリズムの世界での眠りは、今までになく甘く心地の良いものだったという。

リアリズムとスピリチュアリズムの混在した《空間》に揺れていた「私」は繰り返しの異化行為によって即物性と写実主義の世界から脱却し、娘の「片腕」を媒介として観念性と神秘性に満ちた純にスピリチュアリズムな世界に行き着いたのだ。



6.眠りから覚めた「私」―リアリズムへの回帰―

 求めていたスピリチュアリズムの世界に到達し心地よい眠りに就いた「私」であったが、物語の最後の場面でその幸福は突然に終わりを告げる。


「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。


眠りから覚めた「私」の目には自分の右腕が「不気味なもの」として映る。幸福のうちに眠っていた「私」がなぜそのように感じるに至ったかは明記されていないが、その原因はやはり自分の右腕そのものにあるだろう。「私」は自分の右腕と娘の「片腕」を付け替えることによってリアリズムから脱することができたが、その際に自分の右腕はリアリズムの世界に置き去りにしたままなのだ。そのため、スピリチュアリズムの幸福に浸っていた「私」にとって、不意によみがえった右腕の存在は非情なまでの即物性をもった「不気味なもの」に見えてしまう。ここで「私」は、一転してリアリズムに満ちた世界に突き落とされてしまうのである。娘の「片腕」を咄嗟に肩からもぎ取ったのは、リアリズムの世界に引き戻された「私」の身体と繋がっていては、「片腕」に見ていた観念性や神秘性が失われるのではないかと恐れたからだと考えられよう。


「娘の腕は……?」私は顔をあげた。

娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明かりにほの白い。

「ああ。」

私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先とのあいだから、女の露が出るなら……。


しかし咄嗟の対応も虚しく、リアリズムの世界に回帰してしまった「私」の目には娘の「片腕」さえももはや生命力を失った不気味な「物体」としか映らない。「極度に観念化され、抽象化されたエロティシズムが、その果てに獲得した、なまなましいばかりの即物性が、ここにはある。」 のだ。「私」はただの「物体」になり下がった娘の「片腕」を抱きかかえながら、悲しみに暮れる。ここで物語は幕を閉じる。



7.おわりに

 「片腕」に描かれる物語は一貫して幻想的で、その結末も不明瞭で意味をもった解釈を与えることが困難なようにも思われる。だが本論では「私」の思考や行動に注意しながら彼の置かれた特殊な《空間》に着目してみた。すると「私」のいる《空間》が、「スピリチュアリズムとリアリズムの混在する世界」→「スピリチュアリズムの支配する世界」→「リアリズムに満たされた世界」というように移り変わることが明らかになった。「片腕」に描かれる悲劇的結末は、このように推移する《空間》的構造のうちにある「私」のスピリチュアリズムへの願望と、決して脱却しえないリアリズムによるその破壊と挫折を意味していると言える。

 幻想・怪奇小説といったジャンルに対し、その非現実的な世界観そのものや感性に重きを置いた読書体験を大切にしている読者にとっては、ぼくが本論で試みたような読み方は反感の対象となるかもしれない。「よく分からないモノ」は「よく分からないモノ」だからこそ面白いのだと言う方も中にはいるだろう。だがこれらのジャンルの作品に対して多く見られるのが「作者の不安定な精神状態のうちに書かれたモノ」「あやふやな世界観で意味や一貫性やテーマなどないモノ」といった表面的な偏見である。そういったイメージが拭い切れないのは事実であるが、本論でも見てきたように、そこには必ず緻密な論理に基づいて描かれた「構造」と明確なテーマが存在する。幻想・怪奇というヴェールの内側に「構造」やテーマを発見すること、それこそこれらのジャンルを読み解く上での最大の楽しみではないだろうか。


参考文献

川端康成『眠れる美女』、東京:新潮社、1967年、118-149頁。

曾根博義編『文藝時評体系―昭和篇Ⅲ第五巻―』、東京:ゆまに書房、2009年、683頁。

曾根博義編『文藝時評体系―昭和篇Ⅲ第六巻―』、東京:ゆまに書房、2009年、93-97頁。

春原千秋『精神医学からみた現代作家』、東京:毎日新聞社、1979年。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪奇・幻想文学を読む ──── @bnbn_magus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る