第13話


「団長……?」


見間違えようがない。空中ブランコの上にいたのは、団長だった。周りには誰もいない。つまり、足音の主も団長だったということだ。

ブランコの上で、団長は息を整えていた。表情には、達成感が滲み出ている。けれどその視線がこちらを向いた瞬間、その色がぞっとするほど冷たくなった。ステージライトは舞台を照らしている。舞台の側に立ち尽くすトトを、見落とすはずがなかった。


「トト、そこにいなさい」


そう呼びかける声はいつもの調子で、先ほどの視線が嘘のように思えた。ブランコを踊り場に寄せ、カン、カン、と音を立てながら梯子を降りてくる。その音が近付いてくるたびに、トトの脳裏で何かが騒ぎ立てる。何かが引っかかる。

トトは後ずさった。できるだけ距離を取ろうと思った。自分でもわからない何かが警告を出している。やがてその足が地面にたどり着く。梯子から手を離し、団長は薄く笑った。


「見られてしまったか」

「……」

「忘れてくれ、本業のお前に見られるとは……恥ずかしいものだな。昔を思い出してやってみたんだが、如何せん現役時代のようには行かないものだ」

「……いつもこうして、練習してたの」

「まさか。十七年ぶりだよ。今夜は公演がなかったから、久しぶりにやってみただけさ」

「嘘だ」


考えるより先に口が動いた。団長が梯子から離れる。一定の距離を保つように、トトは後ずさりながら続けた。


「団長、いつも言うじゃないか。サーカスの芸は、毎日やることが大事だって。器具が使えなくても、公演がなくても、基礎は毎日やらなきゃダメだって。じゃないとすぐに錆びて、使い物にならなくなるって。……団長の空中ブランコ、すごかった。俺たちよりすごかった! 十七年ぶりなわけがない。あれは毎日練習している人間の動きだ」


人目を避けて夜な夜な練習をしていた。それだけのことだ。そう思いながらもどこか気がかりで、トトは距離を詰めることができずにいた。何かを見落としている気がする。

団長が舞台から降りたのを見て、逆にトトは舞台に上がる。ライトが眩しい。逆光で団長の表情は見えない。無人のはずのステージテントに、照らされた機材の影が落ちて、まるで群衆のように揺れていた。奇妙な高揚感が、トトの思考をぼやかしていく。


「……ところでトト、どうしてここに? 今日はしっかり休むように言ったはずだが」

「……探し物をしていたんだ」

「探し物?」

「『国宝』だよ」


団長は何も言わない。ステージテントの中は悲しいほどに静かで、トトが黙ってしまうと、もう自分の心臓の音しか聞こえなかった。それがなぜだか気まずくて、トトは言葉を続けた。


「街に降りたとき、刑事に会ったんだ。ギャザリーのこと……五年前の火事のことを調べていた。事故じゃない、事件だって。『国宝』を盗んだ泥棒がギャザリーで、ギャザリーは、殺されたんじゃないかって。俺、そんなわけないって思った。思いたかった。だけど、飛べなくなった。それはだめだ。飛べなくなるのだけは、だめだ。だって俺にはこれしかない、空中ブランコしかないんだ! だから、俺、刑事より先に『国宝』を見つけようと思って……見つけて、隠さなきゃって……」


なぜこんなにも胸が苦しいのだろう。息がうまくできない。伝えたい気持ちが先走って、口が、舌がうまく回らない。何を言っているのか、自分でもわからなくなってくる。ぽたり、何かが手を濡らした。それは自分の目から溢れていた。なぜ、泣いているのだろう。何が悲しいのだろう。悲しいことなど何もないのに、泣いていることを自覚するともっと悲しくなった。頭を掻きむしって、意味のない言葉を叫びたいような気持ちになった。けれど今は何よりも、耳を劈くような静寂が耐えられなくて、トトは言葉を絞り出す。


「『国宝』の場所もわかったんだ。あとは隠すだけなんだ。俺、協力するよ、団長。一緒にこのサーカスを守ろうよ。『国宝』さえ見つからなければ、サーカスを守れるんだ」

「……そうだな」


優しい声だった。団長はいつのまにか目の前にいた。涙で濡れた視界にステージライトが反射して、その表情はうまく見えない。舞台の上に二人、向き合って立っている。マジックショーのようだと、ぼんやり思った。


「残念だが、証拠は消さなければいけないね」


そう言って、団長は懐から何かを取り出した。銀色のそれは、照明の光を受けてぎらりと輝く。その光を目にした途端、トトの脳裏にはある景色が浮かんだ。想像でしかなかった光景が色付いていく。テンテンが聞かせてくれた、夢の話。舞台の上に張り巡らせた網の中に沈む男。その背に刺さっていたのは。

その瞬間までトトの頭はすっかり霞みがかって、思考を放棄していた。けれど身体は俊敏に、正確に動いた。トトが思うよりずっと早く、その場から飛び退いたのだ。団長が振り下ろした銀色が、宙を切る。逆手に握られたそれを見て、トトは思わず叫んだ。


「なんで……!」


振り下ろされたのはナイフだった。団長が愛用しているそれは、いつも美しい装飾のついた鞘に収められていた。けれど今、その鞘は団長の足元に落ちていて、抜き身の刃はギラギラと存在を主張するみたいに光っている。あのまま動かずにいたら、首をざっくりやられていただろう。そんな想像をして、肌が粟立つのを感じた。

突然の出来事に涙も乾いていた。距離を取り、真正面から見上げる団長は、不気味なほどに落ち着いている。それこそマジックショーの最中のように、手に持ったナイフを弄りながら笑っていた。


「感心したよ、トト。さすがの反応速度だ。一撃で仕留めたかったのだが、仕方ないか」

「なんで……団長、俺、誰にも言わないよ! 俺はサーカスを守りたいんだ!」

「私も同じだ。サーカスを守りたい。それだけなんだよ」

「だったら……!」

「お前は言ったね。空中ブランコしかないのだと。わかるよ。私にもこのサーカスしかないんだ」


だから、と団長は目を細めた。


「お前には消えてもらうことにしたよ」


そう言うと団長は大きく踏み込んで、殴りかかってきた。体重の乗った拳を寸でのところで避けるが、すぐにナイフの追撃が襲ってくる。それもギリギリで躱して、舞台の上を逃げ惑う。間合いは広く、一撃が重い。拳に少しでもぶつかれば吹っ飛ばされるだろうし、ナイフに擦れば機動力を殺される。形勢は圧倒的に不利だった。

躱すのが精一杯で、何度も足がもつれそうになる。それでも止まることがなかったのは、日頃の鍛錬のおかげだろうか。空中ブランコに乗るために、自分の体を支えるためにつけた筋肉や持久力は、こんなところでも役に立ってくれた。そんなことを他人事のように思いながら、トトは団長から逃げ続けた。背中に何かが触れる。梯子だ。舞台の中央にいたはずなのに、すっかり端っこに追い詰められていた。団長の一撃をすり抜けて、トトは梯子を掴んだ。逃げられる。団長は、決して追いつけないはずだ。そんな確信を持って、トトは梯子を上り始めた。みるみる距離が開いていく。あとは頂上で待っていればいい。そう思ったときだった。


カン。


聞き慣れた音。トトは思わず立ち止まり、足元から下を覗きこむ。自分を追いかけて梯子を上ってくる団長が見えて、トトはうろたえた。

そんなはずはない。

そう思いながら、慌てて梯子を上る。心臓の音がやけにうるさくて、もう金属の音は聞こえない。上へ上へと逃げて、トトはようやく一メートル四方の舞台にたどり着いた。少しでも梯子から離れようとバーに近づいて、トトはギョッとした。


「網が……!」


舞台の上を覆い尽くすように張り巡らされた網。空中ブランコの命綱の役割を果たしているその網が、綺麗さっぱりなくなっている。どうして、と小さく呟いたトトの後ろで、コン、とひときわ高い音が響いた。


「梯子の先は空中ブランコしかないからね。外させてもらったよ。飛んで逃げるならやってみると良い……今のお前に、それができるとは思わないがね」

「団長……」


狭い踊り場の端と端に二人は立っている。逃げ場は空しかない。そう思ったから団長は網を外し、トトの逃げ先を封じたのだろう。しかし、トトの頭の中は別のことでいっぱいになっていた。


「どうして……どうして、追って来れたの?」

「……何を言っている?」

「そうだ、ずっと……ずっと引っかかってたんだ。団長の空中ブランコを見たときから、ずっと……だって、団長は……団長は、高所恐怖症なのに!」

「……!」


団長は事故で空中ブランコから落下して以来、高所恐怖症になった。それはサーカス内の共通認識だった。サーカス関係者だけではない、ツクモですら知っていたことだ。だからトトはここに逃げ込んだのだ。地上十三メートルの舞台に、団長は上れないと知っていたから。

けれどそうじゃなかった。


「警察も、団長が高所恐怖症だって知っていた……診断書があるって、言ってた。偽造は、できないって」

「……」

「団長……いや……あんたは、誰なんだ?」

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