第12話
観客のいないステージは、大きな円形の土台にすぎない。組み立て式の足場の上に、大きなビロードを被せ、その上に頑強な板を数枚乗せているだけの簡単な作りだ。その下は、収納スペースになっている。各自のテントに収まらない大道具、例えば公演のときにしか使わない玉乗り用のボールや、猛獣たちが飛ぶためのハードル、そういったものをしまっていた。また、マジックのタネもいくつか仕込まれている。
「よい、しょ」
足場を隠すように垂れ下がるビロードを押し上げて、トトはステージの下へ潜り込んだ。誘導灯さえない舞台下は本当に真っ暗だったが、ステージテントに入ってから強い光を浴びていないおかげか、数分もすればトトの瞳は簡単に暗闇の輪郭を捉えた。
もので溢れかえる収納スペースは、思った以上に狭かった。トトの身長でも膝立ちが限界だ。外側には普段公演で目にする大道具が乱雑に押し込まれている。中心に行くほどものの数は少なくなり、真ん中にはダンボールが数箱あるのみだった。あまり見覚えのないその箱たちは、おそらく街を移動しテントを張り直すたびにここにしまわれているのだろう。うっすらと埃を被っていた。トトは息を飲んだ。
テンテンの言うように団長が『協力者』ならば、『国宝』を隠せるようなところは私設テントか、ここしかないと思った。逆を言えば、私設テントにもここにもなければ、団長は『協力者』ではないということになる。めぼしいものはもう、この箱しかなかった。
トトはそっとダンボールに手を伸ばした。震えている。他人事のようにそんなことを思いながら、指先が箱の表面を撫でたときだった。
カツ。
それは普段なら気にも留めないような小さな音だった。けれど真っ暗闇の中、今まさにパンドラの箱に手を掛けようとしていたトトは、思わず縮み上がった。手を口に当て、息を殺す。何もやましいことなどしていないというのに、なぜかトトはそうしてビロードの中に隠れていた。明かりもつけず、それこそ盗人のようにヒソヒソと探し物をしている様を、見られたくなかったのかもしれない。
カツ、コツ、カツ、コツ。
一定の速度で音が鳴る。徐々に、大きくなっていく。そこでトトはようやく、それが足音だと気づいた。誰かが、ステージに向かってくるのだ。
ゴン。
至近距離で音が変わる。低い音が、同じリズムを繰り返す。次いで、カチカチと何かをいじる音。そしてまた足音。どうやら、ステージの端から壇上に上り、何かを操作してから舞台の中央へと歩いてくるようだ。舞台袖には照明装置がある。おそらくそれを捻って、明かりをつけたのだろう。しかしビロードに塞がれた舞台下は依然暗闇で、それを捲り上げてまで光の有無を確かめる気にはなれなかった。
足音の主は、十中八九サーカスの関係者だろう。今日は公演もない。観客が紛れ込むにはこのテントは暗すぎるし、入口からステージまでまっすぐ進んできたその足取りには迷いがなかった。何より照明装置の使い方など、一般人にはわからないだろう。けれどその静けさが、些細な音にも注意するような身のこなしが、いやにトトの心に引っかかった。何かを探すような、人目を阻んで、何かを成し遂げようとするような、そんな風に思えた。
そして足音はステージのど真ん中で止まった。ちょうど、トトの真上の位置だ。
トトは息を潜めたまま、敏感になった聴覚に集中していた。呼吸の音、心臓の音、頭の中に血が流れる音。あらゆるものが大音響で聞こえるのに、足音の止んだテントの中はひどく静かだった。
バレただろうか。冷や汗が流れる。背筋が妙に寒くて、無意識のうちに身体が震えていた。けれど頭上で立ち止まったまま、足音の主は何も言わない。辺り一面には痛いほどの静寂があるだけだった。
どのくらい経ったか、時計を持ち歩かないトトにはわからない。足音が再び鳴り始めた。来た道を戻るように、ステージの端へ向かっていく。距離が開いていくのを感じて、トトは知らず息を吐いた。
何者か、何が目的か、気にならないと言えば嘘になる。しかし、それよりもっと重要なことがあるのだ。すっかり闇に慣れた瞳で、トトは目の前に鎮座する箱を見上げた。足音の主がテントを出て行ったら、真っ先にこの箱を開けよう。『国宝』なら隠さなければならない。そう、トトは団長が本当に『協力者』なら、守らなければいけないと思ったのだ。それはサーカスを守ることになる。空中ブランコに乗り続ける自身を守ることになる。結局トトにとっては、それが一番大切だった。
トトには空中ブランコしかない。捨てられ、拾われ、物心つく前からサーカスをずっと見てきた。ドル爺の助手としてピエロをやるのも、たしかに楽しかったはずだ。けれど初めて空中ブランコに乗った日に、そんな記憶はすべて吹き飛んでしまった。あまりの衝撃に、ブランコから降りた後も心臓がうるさくて、その夜は満足に眠ることができなかった。人生を変える出会いというものがあるのなら、それに違いなかった。空中ブランコの上でだけは、自由でいられる。普段不自由を感じていたわけではないけど、空中ブランコに乗るたびにそう思った。不思議なもので、数をこなすほどにその思いは強くなった。空中ブランコの上の自分こそが自分だと思った。乗っていないときは、身体が重くなるようになった。息苦しさを覚えるようになった。本当に、不自由を感じるようになった。
そうして今、もしかしたら二度と空中ブランコに乗れなくなるのではないかと、そう考えたときに、トトに浮かんだ思いはたったひとつだった。今の平穏を、自由を守りたい。そのためにできることが、犯罪の証拠を隠滅することだとしたら、トトはそれをやり切ってやろうと思った。
ゴン、ゴン、ゴン……。
重い低音が、充分に距離が開いた場所から聞こえて、トトは強張った身体からようやく力を抜いた。緊張が一気に解ける。途端に箱の中身が気に掛かった。待ちきれない気持ちで、目の前のダンボールに手を伸ばす。そのとき、音が変わった。
カン、カン、カン、カン。
ぶわっと全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。それは、トトが一番聞いてきた音、一番聞きたいと願う音だった。けれどその音を奏でられるのは、自分と相棒しかいない。だからこそトトは、それまで息を潜めていたことも忘れて、その音に釘付けになった。
音は徐々に遠のいていく。やがて最後の一歩を踏み込む音がして、しばしの沈黙。いや、正確には缶のぶつかる音と、手を叩く音。地上十三メートルの微細な音ですら、トトにはたしかに聞こえた。ブランコを手繰り寄せる音。心臓が沸騰したように熱い。もしかして、もしかしたら。そして踊り場を蹴る音が、トトをビロードの闇の中から飛び出させた。
「テンテン……!」
推測した通り、照明がステージを照らしている。暗闇に慣れたトトには焼かれるように眩しくて、思わず目を閉じた。頭上で、ブランコの軋む音がする。トトは半ば強引に顔を上げた。ステージライトは舞台を照らしていて、上空に行くほど深く暗い。だから眩んだ視界でも、その姿をしっかりと見ることができた。
ちょうど、右のバーから手が離れたところだった。しなやかに反った身体が一回転する。左のバーを掴むと同時に、ぐるりと足を蹴り上げて、その反動ですぐさま逆方向へ飛んで行く。振り子のように行ったり来たり、二本のバーを手足のように動かして空を泳ぐその様は、あまりにも美しかった。大きくしならせた身体を勢いよく宙へ放り投げ、二回転の後、バーを掴む。その勢いのままバーの上へと立ち上がり、ポーズ。
見事な演目に、トトは知らず見惚れていた。ここが本番の公演中なら、割れんばかりの拍手と大喝采が送られたことだろう。
けれどそれは、想像した赤毛の少年ではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます