第10話

昨日と同じ景色だ、そんなことをぼんやりとした頭で考える。心臓の音がうるさい。身体にまとわりつく重力が息苦しい。けれどそれ以上に、遥か上空、真っ青な顔で自分を見下ろすテンテンの表情が痛々しく、トトは鉛を飲み込んだような気持ちになった。

団長が駆け寄ってくる。昨日とは違って、顔がよく見えた。網の中でピクリとも動かないトトを心配そうに覗き込む。


「大丈夫か、トト。何があった?」

「……滑り止めを、忘れた」


そう、いつも足場に置いているクッキーの空き缶。その中に入れている滑り止めの粉を手に叩くことは、トトにとっては当然のルーチンワークだった。例えるなら夜に眠り、朝に目を覚ますような、そんな普遍的な生活の一部。それを忘れた。多分、空中ブランコに乗るようになってから初めてのことだった。

団長は少し驚いたような顔をして、言葉を探すように視線を泳がせた。トトがそんなミスをするのは本当に、珍しいことだった。


「トト……!」


梯子を降りてステージによじ登ってきたテンテンは半泣きだった。未だに身を起こせずにいるトトにそのまま縋りつくものだから、ハンモックのように網が揺れた。

トトの背中を恐る恐る確認する様子に、夢のことを思い出させてしまったのだと気づいて、トトは小さく歯噛みした。結局テンテンは飛ばなかった。飛ぶよりも先に、トトが落ちてしまったから。早くテンテンに飛んでもらわないといけないのに、早くステージに上がりたいのに、そんな思いが沸々と湧き出してトトを急かした。


「もう一回……もう一回やろう」

「でも……」

「次は忘れない。うっかりしただけだよ。だから……」


何か言いたそうなテンテンの青い目を見ないふりして、トトは身体を起こした。不安定な網の中は、いつにも増して重力を感じさせる。差し出された団長の手を支えに、精一杯の力を込めて網から降りた。


「トト、もう」

「いやだ、お願いだよ団長……次は大丈夫だから」


制止の声を振り切り、トトは逃げるように梯子を掴んだ。団長の手が離れる。もう一度梯子を上り出せば、追いかけるようにテンテンも向かいの梯子を上りだすのが見えた。

踊り場に着くやいなや、トトは念入りに滑り止めを手に塗り込んだ。落ちるときに擦れた手のひらが痛かったが、大したことはない。揺れるバーに手を伸ばす。両手でしっかりと握り込めば、いつもと同じ温度が伝わってきた。勢いをつけて蹴り出すと、ふんわりと身体が空に舞う。足先の向こうに、テンテンが見えた。けれどすぐにまた、視界は反転する。天井から降り注ぐライトが眩しい。めまいのような感覚に襲われて、思わず目を瞑ってしまう。そして気がつけば、またトトの身体は網の中に落ちていた。


「……なんで」

「トト」


茫然と呟くその傍らに、団長は立っていた。さっきの場所から一歩も動いていない。まるで落ちてくるトトを待っていたようだった。


「トト、もう休みなさい。お前の身体が、飛ぶことを拒んでいるんだ」


殴られたような衝撃だった。うまく呼吸ができない。息継ぎのように、叫んだ。


「そんなわけない! だって俺は、俺は飛びたい! 飛びたいんだ……!」

「お前の心がそうだとして、身体も同じとは限らない。……休みなさい、トト。テンテンと一緒に」


先ほどとは違い、テンテンはゆっくりと梯子を降りてきた。その顔には戸惑いが揺れている。震える手が、トトの手を引いて網から下ろしてくれた。


「戻ろう、トト」


テンテンに手を引かれ、トトはのろのろと歩き出す。途中、何か言いたげなユマやスタッフたちとすれ違ったが、誰もが口を噤んでいた。それが憐れみや同情だと思うと悔しいはずなのに、トトは何も感じなかった。ぽっかりと穴が開いたように、胸のあたりが涼しかった。

サーカステントから出た先には、雲ひとつない青空が広がっていた。背の高いビル群が、太陽の光を反射してキラキラ光っている。その景色を横目に、二人は割り振られたテントの中に入った。


「……大丈夫? トト」


手を離し、テンテンは畳んだ布団の上に座った。立ち尽くしているトトを、心配そうな青色が見上げる。


「……僕が飛べないのは……夢で見た景色が怖くて、不安で、たぶんその気持ちが足枷になっているんだ」


黙りこくっているトトを見かねたように、テンテンが呟いた。


「本番が平気なのは、たぶん、たくさんの人がいるからなんだよ。衆人環境の中なら、落ちた僕にナイフを突き立てることはできないからね。仮にできたとしても、すぐに誰かが捕まえてくれる。……そうか、僕は犯人が自由になることが怖いんだ。そんな危険な人が、トトやみんなの近くにいることが怖い。僕はあの夢の犯人が今も自由に、どこかにいることが怖いんだ。だから飛ぶとき、無意識にそれを思って飛べなくなってしまう」

「……」

「……トトも、何かが引っかかってるんじゃないのかな」


薄々感づいていた。気づかないふりをしていた。飲み込んだつもりの疑惑の種が、着実にトトの中に育っていく。そしてそれが、とうとうトトから飛ぶことを奪おうとしていた。

何も言わないトトに、テンテンは大げさにため息をついた。


「トト、僕を刑事さんに会わせて」

「! それは……」

「だめ? それじゃあ、ちゃんと刑事さんから聞いた話を全部教えて。トトの知ったことを全部、ちゃんと話して」


すべてバレていた。ツクモの話を曲解したことも、それをテンテンに隠したことも。そうだ、テンテンはいつも周りを、木々や虫や人を、注意深く観察している。十年連れ添った相棒の隠しごとなど、お見通しに決まっているのだ。

無意識に息がこぼれた。罪悪感か、開放感か。いずれにせよ少しだけ息のしやすくなった胸を撫でて、トトはツクモから聞いたすべてを、今度こそすべてをテンテンに話し始めた。


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