第8話

「ルーカスが飛べなくなったことにより、マグネイルサーカスは空中ブランコを廃業。ギャザリーは表舞台から姿を消した。それが十七年前。十二年前、当時の団長……二人の父親が死に、その役をルーカスが引き継いだことは記録に残っているが、ギャザリーがその間何をしていたのかはわかっていない」


ツクモはコーヒーを一口飲むと、トトをまっすぐ見つめた。


「覚えていることはないか」

「……ギャザリーは出稼ぎに行っている、って俺たちは聞いてた。ほとんどサーカスにはいなかったから、あんまり喋ったことないんだ。突然やって来て、二、三日テントで過ごして、気づいたらまたいなくなる、ってのがほとんどかな。公演の準備をたまに手伝ってくれたことはあった気がする」


トトは素直に覚えていることを述べた。

サーカスは多くの人間が関わってできている。出稼ぎでやって来たり、その土地の人が手伝いに来てくれたりと、大人の出入りは常にあった。人が一人増えても減っても、あまり実感はないのが正直なところだった。

ツクモは相変わらず眉間に深くシワを寄せながら、カップに口をつけている。トトはそこでようやく傍らの湯呑みを引き寄せた。よほど熱いお湯で入れたのか、手のひらに伝わってくる温度は思いの外温かく、ちょうど良い。砂糖とミルクをスプーンでかき混ぜていると、ツクモが小さく呟いた。


「……その出稼ぎが、盗みだった可能性がある」

「ギャザリーが犯人だっていうの?」

「やつの名義で借りた部屋は見当たらなかった。つまりアジトはマグネイルサーカスで間違いない。盗品を引き渡すために、サーカスに帰っていたと見るべきだろう」

「引き渡す……金に変えた、ってこと?」


その問いにツクモは答えなかった。代わりに机の上の海から拾い出した書類を数枚並べる。何とはなしにそれを見て、トトは思わずグッと呻いて顔を背けた。強烈な吐き気を誤魔化すように、まだ温かいコーヒーを流し込む。喉の奥に苦味が広がるが、それどころではない。


「これは当時の現場写真だ。見ての通り死体は黒焦げ、身元のわかるものはなし。かろうじて歯の治療痕からギャザリー・マグネイルと判断した」

「……」

「第一発見者は兄であるルーカス・マグネイル。私設テントが燃えているのを見つけて、無謀にも乗り込んだ。おかげさまで顔が焼け爛れて、この通り……」

「いい、見せなくていいから! おえ……」


夢に見そう、と思いながらトトはうなだれた。ふとテンテンの夢の話を思い出し、机上は見ないように気をつけながら顔を上げる。ツクモはいつのまにか立ち上がって、別のグラスに水を入れているところだった。


「ねぇ、ギャザリーは……えーと……燃えて死んだの?」

「……そこが問題だ」


グラスをトトの前に置いて、ツクモは再び椅子に腰掛けた。ありがたくそれを口にすれば、喉にまとわりつく苦味が引いていく。トトはホッと息をついた。


「当時、警察は焼死だと判断した。あからさまな外傷がなかったことと、死体の側に酒とタバコが見つかったのが大きかった。事故、もしくは警察に踏み込まれることを恐れた自殺。それが警察の判断だ」

「……でも、あんたはそう思わなかったんだよね? だからこうして調べてる。どうして?」

「……血だ」

「血?」

「ステージに身元不明の血がついていた」


ゾッとした。テンテンから聞いた夢の光景が鮮やかに蘇っていく。そんなトトには気づかずに、ツクモは冷然と続けた。


「ごく少量で問題にはされなかったが、どうにも気になった。事件の関係者の血液を調べたが、そのどれとも一致しなかった。……ギャザリー以外は」

「ギャザリー……?」

「血液型がわからなかったんだ。珍しくもない話だが。他にもわからない奴が何人かいたが、生きていれば調べるだけで事足りる。対してギャザリーの骸はこの通り、血の一滴も残っていなかった」

「……一日だけ手伝いで出入りした誰かが、何か引っ掛けて怪我しただけかもしれないじゃん。そんなことで……」


そう言って笑い飛ばそうとした。しかしツクモの目があまりにも深刻で、トトは二の句が継げなくなる。声も表情も無感情なのに、金色の目だけが声高に何かを叫んでいた。


「そうかもしれない。だが、俺にはそうは思えない。それだけだ」


瞳の雄弁さとは裏腹に短く告げて、ツクモはコーヒーを飲み干した。マグカップを置くや否や、立ち上がって窓辺へと向かう。その背を追いかけて、また机上の資料が視界をよぎり、とっさに目を瞑った。おどろおどろしい色を映す紙を手探りで裏返して、その真っ白な後ろ姿にホッとする。

違うか、と、小さく聞こえて、トトは顔をあげた。


「そうでなければ良いと思っている」


ツクモが見ている窓の先には、昼の光を受けて輝く高層ビルの群れが、切り取られた絵のようにひっそりと佇んでいる。それが小さな部屋の閉塞感を無性に加速させているように思えた。


「そうでなければ……って」

「ギャザリーの死が事故でなければ」


たどたどしく言葉をなぞるトトとは反対に、ツクモは悠然と言い直した。


「ギャザリーが死んだことで……盗品の行方は、わからなくなってしまった。だが……ギャザリーが誰かに殺されたのだとしたら、犯人は別にいることになる。その犯人なら、盗品の在り処がわかるはずだ」

「……なんで、ギャザリーが殺されなくちゃいけないの」

「口封じだろうな」


背中に冷えた汗が流れるのを感じた。


「警察が踏み込む寸前に容疑者が死ぬなんて、そんな都合の良い事故があってたまるか。それなら自殺の方がまだ頷ける。だが……死ぬだけなら、生きたまま火をつける必要なんてないだろう。この世にはいくらでも楽に死ぬ方法がある。……誰かが事故に見せかけてギャザリーを殺したと、俺はそう思っている」

「……それは」


トトは否定しようと思った。けれど、ツクモの推理はなぜだか妙に腑に落ちた。サーカスにはそれこそいろいろなものがある。マジックに使うナイフ、水槽、ロープ、猛獣。そう、死のうと思えば凶器はいくらでもあるのだ。それなのに、それらを選ばなかった理由は。

黙りこくったトトに、ツクモがようやく振り向いた。


「お前は何を知っている? お前のゴミは黄金になったか」


トトは一瞬迷った。テンテンの夢、網の中に埋もれた誰かを見下ろす男。それを伝えるべきか、否か。伝えれば、ツクモはテンテンに話を聞きたがるだろう。それはいけない。ツクモは事件性を感じている。テンテンの夢は、事故の可能性を否定している。二人の見解は一致しているのだ。話をさせてはまずいと思った。

返事を待つ目の前の男に、トトは努めて穏やかに答えた。


「……残念だけど、本当にゴミだったみたいだ。さっきも言ったけど、俺はギャザリーのことほとんど知らないし、事故の現場にも居合わせていない。いや、居合わせたやつにも聞いたけど、そいつだって死体が見つかったことしか知らなかった。あんたが知らないことなんて、俺は何も知らない」


自分に言い聞かせるように、トトは呟いた。


「ギャザリーは事故だったんだよ」


そうして逃げるように、トトは小部屋を後にした。警察署は広く、小部屋はその一番端にあったから、出入り口に戻るだけでも時間がかかる。けれど、ツクモは追いかけてこなかった。

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