第7話
翌朝、鳥の声に目を覚ました。足元に広がるのは大都会なのに、テントが牛耳るこの丘は森に囲まれていて、動物や虫の声がよく通る。
となりのせんべい布団が空になっていて、先にテンテンが起きたことを知る。着替えて外に出ると、ドル爺とテンテンが並んで何かを一生懸命見上げていた。
「おはよ」
「あ、トト、おはよう! あのね、すごいんだよ、ここホオジロがいるんだ」
昨夜の様子が嘘のように、テンテンは朗らかに笑った。首をかしげるトトの前で、ドル爺がゆっくりとした動作で木の上を指差す。視線で追えば、なるほど、確かにその先に鳥の巣がちょこんと乗っていた。
「大きな街で人もいっぱいいるのに、原生林がこんなに近くにあるなんて……すごいなぁ」
感動した風に鳥の巣を見上げるテンテンの様子に、トトは内心ほっとしていた。そこには真っ白な顔をして横たわっていた名残も、冷酷とも言える推理を淡々と展開する面影もなかった。
聞き慣れた音楽がうっすらと聞こえて、トトは振り返った。踊り子を先頭に、丘と街を繋ぐように人の列がやってくる。昼の公演まであと一時間、今日も満席御礼らしい。
「ドル爺、テンテンを頼むよ。俺ちょっと街の方に出てくるから」
「おや珍しい。一緒に行かないのかい」
「昨日の今日だしね。公演頑張って」
テンテンに目配せをして、トトは人の群れとは逆方向へ走り出した。向かうは昨日あの刑事に出会った、細い裏通りだ。
石段を跳ねるように降りていく。昨日は暗くて気づかなかったが、こちらはどうやら大通りのちょうど裏側に面しているようで、明るい時分だというのに人の姿もなくひっそりとしていた。立ち並ぶ背の高い建物たちは揃って背中を向けており、明かりとりにもならない小さな窓が飾りのようにいくつか並んでいる。そのいずれもが固く閉ざされていて、建物と丘が作った谷にあたるこの場所にはなにもないことを象徴しているようだった。
昨日二人が駆け抜けたような狭い通り道はいくつもあった。まるでカーテンの隙間から暗い室内に光が差し込むように、建物同士のわずかな隙間から大通りの賑やかな声が聞こえてくる。高い場所を通る太陽が地面に反射して、キラキラと光っているのが見えた。その目映い光景に惹かれながらも、いくつかの路地を覗き込み、暗がりに目をこらす。やがてトトはそのうちのひとつに、黒い塊を見つけた。
薄暗い路地裏をそっと進み、黒い塊の正体を確認しようと近づいていく。すると、金色がぎょろりとこちらを向いた。
「……なにも知らないんじゃなかったのか」
「事情が変わった。詳しく教えてくれ! 五年前の火事のこと」
ツクモは訝しそうにトトを睨めつける。しかしトトは怯まなかった。
「お前の知らない情報を俺は知っているかもしれない。だけど全体像がわからなくちゃ、それがどういう意味を持っているのかもわからない。重要かそうじゃないのかもわからないんだ。俺にとってはゴミみたいなものが、お前にとっては黄金かもしれない。いいのか? このままじゃ俺は、黄金をゴミ箱に捨てちゃうんだぞ」
虚勢にもほどがある、と内心思った。トトが知っているのはテンテンから聞いた五年前の火事の話と、夢の話だけだ。しかもその夢を嘘だと証明するためにトトはここにいる。それは目の前の男の目的とは、おそらく逆のものだろう。
しかし存分あっさりと、ツクモは頷いた。
「……いいだろう。ついて来い」
「待って、どこに行くの? ここでいいだろ」
「資料があったほうが話が楽だ。椅子もコーヒーもないしな」
そう言うと椅子がわりに座っていたゴミ箱からゆらりと身を起こし、ツクモは大通りに向かって歩き出した。トトは慌ててその背を追う。長身の男はノロノロと歩いていくが、歩幅が広いぶん動きに見合わず足取りは速い。
暗い路地から大通りに出るとまるで別世界のように明るい光に包まれ、思わず足が止まった。昨夜と同じように行き交う人々は、暗がりから出てきた二人を気にかけることもなく流れ続けている。慣れた様子でその人波を進んでいくツクモの後ろを、躓きかけながらもトトは必死に追いかけた。
「ここだ」
大通りを越えて五分ほど歩いたところで、ツクモは足を止めた。ようやく追いついたトトは肩で息をしながら、目の前の建物を見上げる。それは妙に立派な建造物で、この街のものにしては珍しく、縦より横に広い造りをしていた。装飾の施されたアーチには警察を意味する文字が刻まれている。
「警察署? ずいぶん立派だね」
「でかい街はだいたいこんなもんだ。来い」
アーチを潜り、人の行き交うエントランスを抜けて、煤けた階段を二階ぶん上る。ツクモの案内で通された部屋は、建物の広さに比べるとあまりにも狭い小部屋だった。壁一面を覆う背の高い本棚、古びた長机と安物のパイプ椅子、窓辺の机には書類の束が乱雑に置かれていて、端っこには小さなシンク、そしてその横にポツンと薬缶が鎮座していた。
薬缶を火にかけて、散らかった机の上をツクモがごちゃごちゃにかき混ぜはじめる。書類を探しているのか、無駄に散らかしたいだけなのか。そんなことを考えながら、トトは手持ち無沙汰に突っ立っていた。
やがて机の上にひとつ山ができた頃、数枚の書類を持ってツクモが振り向いた。しかめっ面でトトに、座れ、とだけ言うと、今度は本棚の方へ移動する。ひとつ大きなファイルを取り出して、先ほど集めた資料と一緒に長机に置く。また窓際に向かう長身をみながら、トトはようやくパイプ椅子に腰掛けた。硬い背もたれと座面に身を預け、目の前に広がる紙束をぼんやり眺めていると、ふんわりとコーヒーの香りがした。同時に湯呑みがすぐそばに置かれる。ご丁寧に砂糖とミルクもついていた。
「十五年ほど前から、この辺りでは盗難事件が殺到していた」
「何の話? 俺が知りたいのは……」
「いいから聞け」
そう言ってツクモはトトの向かいに座る。黒いマグカップからは、トトに渡されたものと同じ香りがした。
「盗まれたのは『国宝』。全部で七件だ。十年ほどの間に、七つも盗まれた。手口はいずれも同じ。窓を割って侵入し、空を飛んで逃げるというものだ」
脈絡のない話にトトは困惑した。
「……何だそれ、おとぎ話じゃあるまいし」
「そうだ、お前は知っているだろう? 人は空を飛べる……サーカスの空中ブランコなら」
思わず息を呑む。空想の物語が、途端にリアリティを増していく。
「あんたまさか」
「俺は盗難事件の犯人はサーカスのやつだと思った。そして調べた。すると、だ」
ツクモは分厚いファイルを広げた。号外記事のスクラップのようだ。そこには今よりもずっと若い、マグネイルサーカスの面々がいた。
「盗難が起こった地域と日付、これがマグネイルサーカスの公演記録とほぼ一致した」
「なっ」
「俺は空中ブランコ乗りが怪しいと踏んだ。そして五年前、再びこの街にマグネイルサーカスが来た時、ようやく上を説得して奴に話を聞けることになった」
上、とは警察組織の上層部という意味だろう。つまり警察が堂々とマグネイルサーカスを疑ったということだ。苦々しそうにツクモがコーヒーをあおる。
「だが、あの火事で容疑者は死んでしまった」
「……ギャザリー……」
「そう、ギャザリー・マグネイル。当時はすでに引退していたが、マグネイルサーカスで空中ブランコを飛べる可能性があるのはあの男だけだった。団長……ルーカス・マグネイルは高所恐怖症を患っていたしな。虚言の可能性もあったが、医者の診断書付きじゃあ仕方ない」
トトは目の前のファイルに手を伸ばした。空中ブランコ乗りの天才兄弟、巡行。そんな見出しが数枚続いたあと、天才兄弟墜つ、なんていう物騒な見出しが目に入った。
「……団長に聞いたことがある。公演の最中にブランコと命綱を繋ぐ金具が外れたんだって。それに気を取られて、真っ逆さまに落ちて……ステージに叩きつけられたって」
死ななかったのが奇跡だった、と団長は話して聞かせた。
トトとテンテンに空中ブランコをやってほしいと願ったその口で、過去の事故のことを教えたのは、何より二人を思ってのことかもしれない。
団長はその事故で高所恐怖症になっていた。数年ぶりに組んだ空中ブランコの梯子を懐かしそうに見上げながら、一度も登ろうとはしなかった。無理もない、と幼いトトも思った。だからこそ団長は誰よりも事故を憎み、公演前の舞台の確認を怠らない。命綱も、舞台上に網を張り巡らす方式に変えた。怪我をしないように、安心して飛べるように。団長の行動にはいつもそんな思いが透けて見えた。
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