第6話

片付けを終えテントに戻ったのは、もう日が変わろうかという時間だった。

本当はもう少し早く戻れたのにそれをしなかったのは、顔を合わせにくかったからだ。団長は何も言わなかったが、それが余計にトトにとっては辛かった。いっそ叱りつけてくれれば、感情の行き先もあっただろうに。

もう眠っていると思ったが、予想に反してテントの中には明かりが揺れていた。ふと見ると扉に触れる手が少し震えていて、小さく自嘲する。意を決して踏み込めば、二枚並んだせんべい布団の片方に、見慣れた赤毛が座っていた。


「おつかれ」

「……おつかれ」

「ごめんね、公演、間に合わなくて」


正直、予想していた言葉だった。テンテンもまた、トトを責めてはくれない。


「疲れが出たのかな。……団長には、しばらく休むように言われちゃった。ごめんね、トト」

「……お前は悪くないだろ」


そんな言葉を吐くのが精一杯だった。顔を上げないままでいると、テンテンが隣の布団をポスポス叩いた。


「寝ようよ。明日……は休みだから、どうせなら街にでも行こう。珍しいものがいっぱいあるよ」

「……」

「……僕ね、飛べなくなったかもしれないんだ」

「は?」


思わず伏せていた顔を上げる。そこでようやく、テンテンが泣いていることに気づいた。


「どうしよう、トト。飛べないんだ」

「なんで……なんで!? だって昼間は、ちゃんと……!」


声を荒げてしまうのを抑えきれない。それがテンテンを威圧してしまうことを知っていながら、トトはいつもそうだった。案の定、テンテンは少し震えていた。

そのとき、トトはやっとテンテンの顔をちゃんと見た。目元や鼻が少し赤い。倒れたときの真っ白な頬を思えば少しだけ安心して、同時に落ち着いていくのが自分でもわかった。


「……どういうことだよ、飛べないって。試したわけじゃないだろ」


俺みたいに、と言いかけた言葉をグッと飲み込んだ。飛びたい気持ちが先走り、テンテンを置き去りにして、自分だけで飛ぼうとして失敗した。改めて説明するにはあまりにも情けなかった。

テンテンは少し何かを考えるように目を伏せていたが、やがて小さく息を吐くと、ポツポツと語り始めた。


「公演の前に、いつも見る夢があるんだ」

「夢?」

「……辺り一面が火の海で、僕は、誰かを探して歩いている。逃げなくちゃと思うのに、いつも舞台にたどり着くんだ。誰か……男の人が立っていて……そう、網の中に、何かが沈んでいるんだ。僕は、誰かが空中ブランコから落ちたんじゃないかって思って……でも、そ、その人の背中には、な、ナイフが……!」

「テンテン!」


それは夢を語るような雰囲気ではなかった。声も身体も震わせて、まるで何かがテンテンに取り憑いてしまったようにトトには感じられた。その肩を掴み叫んだのは、それが少し恐ろしかったからだ。


「落ち着けよ、ただの夢じゃないか!」

「……ただの夢だよ。僕もずっとそう思っていた……でも、あの刑事さんの話が本当なら……これは、記憶なんじゃないかって思うんだ。僕自身も忘れた、僕の記憶……」


何を言っているのかトトにはよくわからない。それでも静かに、テンテンの続きを待った。


「トト、君は知らないと思うけど、確かに五年前に火事はあったんだよ」

「なっ」

「覚えてない? あの年、君は風邪をこじらせたんだ。肺炎になりかけていた。大きな病院のある街を探して……僕らは大きな街にやってきた。あの時は街の名前を気にする余裕もなかったけれど、多分、この街だったんだと思う」


まったく記憶にない。ただ、その話には聞き覚えがあった。元気が取り柄のトトが入院したということで、ドル爺がひどく心配してあれこれ世話を焼いてくれたらしいのだ。まさかこの街での出来事だとは思いもしなかったが。


「トトはすぐに入院させられたし、熱で意識も朦朧としていたから、治るまでドル爺が付き添って病院に缶詰にされていたよ。トトもドル爺もいなくて、ほとんどテントから出なかったから、こんなに大きい街だなんて僕も知らなかった」


ピエロがいないから公演もできなかったしね、とテンテンは付け足した。当時舞台に上がる人数は今よりずっと少なくて、空中ブランコもなかった。ピエロが花形種目だったのだ。


「……僕もよく覚えていないんだけど、ある夜テントが燃えたんだ。団長の私設テントだった。そして……その焼け跡から黒焦げの死体が出てきた」


思わず息を飲んだ。聞いた話だよ、とテンテンは付け加える。


「当然僕たちは見せてもらえなかった。見たいとも思わなかったけどね。警察の話だと、酔っ払って酒をぶちまけたところにタバコが引火したんだろうって。事故として処理されたみたい」

「いったい誰が死んだんだ……? サーカスのやつなんだよな?」

「ギャザリーだよ」

「……ギャザリー?」

「紫キャベツのギャザリー、覚えてない?」


それは随分懐かしい響きだった。紫色の癖っ毛が、後ろから見るとキャベツみたいだから、紫キャベツのギャザリー。ずっと昔、ふたりで付けたあだ名だった。


「あ……あぁ! 団長の弟! 確か……空中ブランコ乗りの」


そう口をついて、トトはハッとしたようにテンテンを見た。


「そうなんだよ。あの刑事さんに会うまで、疑いもしなかったけど……あれは……夢で見た、あの網の中に沈んだ人は……ギャザリーだったのかもしれない」

「待ってくれよ! ギャザリーが見つかったのは団長の私設テントだろ!? 舞台じゃない!」


思わずトトは声を荒げた。心臓のリズムが速くなっていくのを感じる。知らない誰かの知らない事故が、ギャザリーという輪郭を得て、現実味を帯びていく。


「舞台で殺してから、私設テントに移動したとしたら? それから火をつければ、殺した場所も時間もわからないじゃないか」

「……団長がやったっていうのか?」

「団長以外にも、当時サーカスにいた大人ならできたと思う。テントには鍵もないしね」


トトとは対照的に、テンテンは淡々と語った。そのひどく冷静な様子に、トトは知らず汗が湧き立つのを感じていた。そんなトトに気づいたのか、テンテンは少し目を見張って、けれど小さく笑った。


「……トト、僕はいつもあの夢を見て、汗だくで飛び起きるんだ。その度にね、舞台が怖くなるんだ。命を守るためのあの網が、人だった塊の沈んだあの網が、怖くてたまらない。そうして怯えながら空を飛んで、飛べた時は良いけど、実際に落ちるとゾッとする。今にも誰かが僕の背中にナイフを突き立てるんじゃないかって、そんな妄想をして、心をすり減らしていくんだよ。だから、少しだけ心が鈍感になってるのかもしれない。ひどいことを言ったね……ごめんね」


そう言って、テンテンは悲しそうに笑った。それは自分の心を守るための麻酔のようなもので、磨耗を防ぐための自己防衛でしかないだろうに。

何も言えないでいるトトに、テンテンは極めて明るい声で続けた。


「もうこの話はおしまいにしようね。疲れちゃったな。もう寝ようよ」

「テンテン」


飛べないのは絶対にいやだと思った。けれど一人で飛ぶにはあまりにも、そう、あまりにも空は遠い。テンテンを失ってしまったら、本当にもう二度と飛べなくなるのではないかと思った。

その気持ちが、トトにある決意を抱かせた。


「その夢が、ただの夢だってわかったら……怖いものはなくなるか?」

「え?」

「ギャザリーは本当にただの事故で、団長の私設テントで死んで。舞台には行ってなくて、網にも沈んでいない。それが証明できたら、もう何も怖くないか?」

「……」

「楽しい気持ちだけで、テンテンは空を飛べる?」

「……そうだね。きっと、飛べると思う」


絞り出したような言葉に、トトは強く頷いた。


「ただの夢だって、俺が証明してやるよ! だから、また飛ぼう! 一緒に!」

「トト……」

「俺、あの刑事に会ってくる。会って、五年前のことをちゃんと聞いてくる! だからテンテンは、しっかり休んでろよ。ドル爺以外の大人と二人になっちゃダメだぞ」

「待って、トト」


そうと決まれば居ても立っても居られない。飛び出して行こうとしたトトを、少し焦ったような声が引き止めた。


「もう一時だよ。こんな時間に出て行ったら、それこそ団長に怒られちゃう。今日はもう寝て、刑事さんに会うのは明日にしよう。ね?」

「……わかったよ。なぁテンテン、またその夢を見たら俺を起こしてくれよ。そしたら一緒に走りに行こう! ボロボロに疲れたら、夢なんて見る暇もないだろ?」

「……そうだね。ありがとう、トト」


おやすみ、と小さく呟いて、テンテンは横になった。同じように寝転んで、トトはテントに映る無数の明かりを見ていた。

初日の客入りは上々。こんなに大きな街だ、きっと客足が途切れることもないだろう。テンテンの夢がただの夢だということを証明して、もう一度あの舞台に上がる。空を飛ぶ。トトにとってはもう、それだけがすべてだったのだ。

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