第5話
「ったく、なんなんだよあのやろー……」
「……」
「大丈夫かテンテン……テンテン!?」
トトが叫んだのと、真っ白い顔をしたテンテンが地面に倒れこんだのは、ほぼ同時のことだった。駆け寄って抱き起こした身体は恐ろしいほど熱く、死人のような顔色との落差に、トトは心臓が冷えていくのを感じた。
テンテンが死んでしまう。
そうしたらもう、空を飛ぶことは二度と叶わない。
ゾッとした。空中ブランコは、二人でなければ飛べないのだ。身体にまとわりつく重力が、せせら笑うように重みを増す。耐えられなかった。
「テンテン! テンテン……起きろ! 起きろったら!」
「トト!? 何をしているんだ!?」
声を聞きつけてテントから飛び出してきた団長やユマに取り押さえられる。端から見ても、テンテンの様子は一目瞭然だった。団長はユマに何やら指示を出して、そのユマの指示でドル爺がテンテンを担ぎ上げた。
「待って! テンテン……テンテン!」
「落ち着きなさい、トト。テンテンは病院に行かせます。幸いこの街の病院は優秀な医師が多い。……負担をかけすぎたね。しばらく空中ブランコは休みにしよう」
「そんな……いやだ! 俺は……俺は飛べるのに! 団長、俺、飛べるよ!」
「だめだ。テンテンがあの調子では、とても舞台には上げられない」
団長の言うことはもっともだった。体力と気力が回復するまで、テンテンを舞台に上げることは許されないだろう。それは団長が一番嫌う、事故を招くことになるのだから。
けれど、トトも引き下がるわけにはいかなかった。あの解放感を知りながら重力に支配された地上で過ごすなんて、そんなのは拷問でしかない。テンテンの安寧と引き換えに、今度はトトのほうが押し潰されてしまうことだろう。
「じゃあ……じゃあ、俺一人で飛ぶよ! それならいいだろ!?」
「……無茶を言うんじゃない。一人で飛ぶ練習などしたことないだろう?」
「二人も一人も一緒さ! 捕まる先がテンテンかバーかってだけの違いだもの……団長、俺飛んでみせるから! だからテンテンがいなくても、空中ブランコをやらせてよ! 俺から空中ブランコを奪わないでよ……!」
トトは必死に食らいついた。身体も心もひどく重たい。すがりつく団長の腕は、投げ出された大海原でようやく見つけた一本の丸太のように思えた。離したら沈んでしまうと、そんなことを本気で思った。
団長は少し何かを考えてから、来なさい、と言った。立ち並ぶテントのうち、一番大きなステージテントに入っていく背中を追えば、夜の公演に向けてすでにライトアップされた舞台がそこにあった。
「飛んでみなさい。それができたら、公演で空中ブランコをやってもいい」
「本当……!? ありがとう、団長!」
トトは素直に喜んだ。今夜もまた飛べる。それだけで身体も心も軽くなるような気がした。
梯子に手をかけて、一歩ずつ登っていく。団長は何も言わない。あっという間に地上十三メートル、見慣れた世界にたどり着いた。狭い踊り場で、クッキーの空き缶を開ける。白い粉を手に叩いて、目の前のバーを握った。
いつも向かい側に現れる赤毛はいない。そのせいだろうか、いつもより対面の踊り場が遠く感じられた。
息を吐き、吸う。足を振り上げて、踊り場を蹴る。身体がスウッと伸びて、一本の紐のように長くなる。紐の先に結んだ重りがそうなるように、綺麗な軌道を描いてトトは前へ進んだ。
目的地のバーが近づいてくる。いつものように、迎え入れる手はない。それでもトトはいつも通り飛んだ。音も光も遠くなって、ただ自分の指先の感覚がすべてのように感じた。だからトトはすぐに、指先が何にも触れなかったことにも気づいてしまったのだった。
ドッと重力が降って来た。痛みすら感じるようなそれに、思わず閉じていた目を開く。網の中に沈む身体は重く、だるい。けれどそれ以上に心臓の音が、身体中を流れる血液の音がうるさくて、トトは指先さえ動かすことができなかった。
遥か上空で、ブランコが揺れている。それを見てトトはようやく、自分が落ちたことに気がついた。
「同じではなかったろう」
気づくと網のすぐ側に団長がいた。ステージライトがあまりにも眩しくて、表情は読めない。
「人を相手に飛ぶのと、バーを相手に飛ぶのはまるで違うことだ。一昼夜の練習でどうにかなるものではないよ」
トトは何も言えなかった。ただただ網の中で、捕らえられた魚のようにもがくこともなく、茫然と団長を見上げていた。やがて団長は背を向けて、公演の準備に取りかかってしまったが、それでもトトはしばらく動けないままでいた。
結局テンテンが戻ってきたのは公演の一時間前だった。直接寝床に連れて行かれたテンテンは、ステージテントには顔を出さなかった。点滴を打ってもらったら思いの外楽になったらしい、と、ピエロの衣装を着ながらドル爺が教えてくれた。
夜の公演は時間通りに始まった。団長のマジック、ユマの猛獣ショー、ドル爺の玉乗りジャグリング。次々と行われていく演目を、トトは舞台袖で静かに眺めていた。ドル爺の助手のピエロとして舞台に立つこともできたが、到底そんな気分にはなれなかった。
ステージライトと歓声を浴びながら仲間たちが成功させていくショーの中に、自分がいないことを悲しいとは思わない。けれど時たま揺れる無人のブランコが、どうしようもなく虚しく見えてしまった。落ちた直後の鼓動の音が、今も耳から離れない。
まったくひどい失態だった。
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