第4話
幕が上がったら、そこはもう別世界でなければならない。日常の営みは影を潜め、獄彩色の非日常だけで観客の視界は満たされるべきだ。その裏で十数人の大人が這いずり回っていることも、出番を控えた演者の様子も、観客が知る必要はない。
猛獣ショーが始まると同時に、トトとテンテンは梯子を上り出した。ライトは低い位置でステージだけを照らしているから、遥か上空の二人の視界はほとんど真っ暗だ。梯子の内側に小さく塗られた蛍光塗料だけを目印に、慎重に歩を進める。闇夜に紛れたネズミのように、二人はそろそろと梯子を上がっていった。一メートル四方の踊り場につけば、できる限り物音を立てないようにしながら空き缶に手をかける。滑り止めの粉を手に叩いたところで、わっと歓声が沸き起こった。目玉の火の輪くぐりが成功したらしい。
ユマの一声で動物たちがポーズをとる。拍手と歓声に一礼して、天使のような笑みを浮かべたまま、舞台袖にユマが悠々歩いていく。そしてその姿が完全に客席から隠れてしまうと、いつもと同じ仏頂面で照明に合図を出すのが見えた。暗転、しかしすぐに眩しいほどのステージライトが、今度は上から降り注ぐ。そこで観客たちは初めて空を仰ぎ見る。その瞬間、トトは踊り場を蹴り飛ばしていた。
飛んでいる間は、まさに無我夢中だった。トトが我に返ったのは、あまりにも大きな拍手と歓声に包まれてからだった。初回公演は大成功のうちに幕を下ろした。永遠に続くのではないかと思えるほど、拍手はいつまでもいつまでも止まなかった。
片付けをしてステージテントから外に出ると、すでに空はオレンジ色になっていた。裏方のスタッフたちは休む間もなく夜の公演の準備を始めている。演者にとっては貴重な休憩時間だが、トトはまだ先ほどの公演の興奮を持て余していた。圧倒されるほどの拍手と歓声が耳の奥に残っているようで、目を閉じると空中ブランコから眺めた景色が鮮やかに蘇った。
もっと、もっと飛んでいたい。何十回でも、何百回でも。ステージを思い出せば、不思議と身体が軽くなるような心持ちがした。
「トト? どうかしたの」
一足先に自分たちのテントに戻っていたテンテンが顔を出す。いつまでも戻ってこないトトを心配してのことだろう。その赤毛を見ているうちに、トトは持て余した興奮をそのまま巨大なビル群に向けることを思い立った。
「テンテン、街に行ってみないか?」
「街へ? でも、夜の公演に備えて少し休まないと」
「暗くなる前に戻って来れば大丈夫だよ! こんなにでかい街なんだ、きっと一度じゃ見て回れない。少しずつ見ておかないと、公演が終わってからじゃ間に合わないよ。今のうちにこっそり見ておいて、今度ドル爺を案内してやろうぜ。きっと驚くぞ」
テンテンは迷いあぐねていたが、やがてコクリとその赤毛を揺らして頷いた。持ち前の好奇心はトトよりずっと旺盛なのだから、当然と言えば当然だ。
テントから這い出てきた腕を引いて、トトは駆け出した。公演前、長蛇の列を引き連れて踊り子の現れた方角へ、記憶の中の長い列をなぞるように二人は走っていった。
丘の上から見る街並みはひとつのジオラマのようで、煌びやかではあるが人の気配を感じさせなかった。しかし降り立った街並みは、思いのほか生活感に溢れていた。人々は忙しそうに、自分の行きたい方向へと歩いていく。てっぺんの見えない巨大なビルが群れを成して、空を隠している。柔らかな夕日の色はすっかり届かず、街は少し暗くなり始めていた。
「すごいな、人がいっぱいだ」
「本当に……」
トトのつぶやきに、呆然とテンテンが頷く。こんなにも多くの人が同じ場所にいながら、その誰もが視線も言葉も交わさずに歩いていく様は、二人には異様な光景に見えた。二人は言葉もなく、しばし目の前の風景をぼんやりと眺めていた。それは絵画や映画のような、まるで別世界を覗き見ているような感覚だった。
どのくらいそうしていたのか。ふと、どこかで鐘の音が聞こえた。それが合図だったように、等間隔に設置された街灯に、家々の窓に、明かりが灯る。その明かりをあらゆるものが反射して、宝石箱をひっくり返したように眩しく辺りを染め上げた。人の行き交う大通りは特にそれが顕著で、雑踏はまるで黄金でできたステージのように思えた。
「すごい……こんなに明るい場所が、ステージ以外にもあるんだな」
思わずトトは感嘆の声をあげた。対照的にテンテンは煩わしそうに目を細め、耳に軽く手を当てている。
「なんだかすごいね……眩しくて、うるさくて……トト、戻ろう。あまりぼーっとしていると、邪魔になっちゃいそうだ」
「あぁ。たしかに人が増えてきたな……こっちから戻ろう」
帰路につく時間帯なのだろうか、人の波は途切れることがない。トトは後ろ髪を引かれながら、テンテンは逃げるように、近くの路地へと引っ込んだ。
そこは狭い裏道で、先ほどまでの景色からは一変して薄暗く、人の気配もなかった。ただ一本道のその先には、丘にそびえるステージテントがちらりと見えており、近道には違いないことがわかった。
「待って」
進もうとしたトトを、テンテンが小さく制する。足を止めそちらを振り向こうとした瞬間、ステージテントが見えなくなった。壁の一部がせり出て、視界を塞いだのだ。
「お前ら、マグネイルサーカスの関係者だな」
そこでトトは自分の目が暗闇に慣れていないことに気づいた。眩しさから目を逸らしていたテンテンが先に気づいたのは、ある意味当然だったのだ。
ぼんやりと焦点が合ってくると、壁の一部だと思っていたものが人間だとわかる。男だった。ボサボサの髪に年代物のコート、履き潰した革靴。そのどれもが真っ黒だ。ただひとつ、目だけがギョロリと金色に光って、それが不思議な凄みを放っていた。
「マグネイルサーカスの関係者だろう」
男がもう一度尋ねてきた。その声からも表情からも、感情は読み取れない。
「だったらなに? サインでも欲しいの?」
トトは強気に答えた。幸い相手は一人のようだ。治安の悪い街で公演をしたときも似たような状況になったことがある。いざとなれば逃げ出すくらいの身体能力も経験値もあるつもりだ。
しかし男は距離を詰めるでもなく、予想外のことを尋ねてきた。
「五年前の火事について聞きたいんだが」
「火事?」
「人が死んだ火事だ。覚えてないのか?」
その言葉にトトはぎょっとした。火事にさえ心当たりがないのに、人が死んだなんて。
しかしここで戸惑ってはいけないと思った。少しでも隙を見せてしまったら、そこをめがけてナイフが飛んでくるかもしれない。トトは動揺を飲み込んで、あくまで強気な態度で答えた。
「悪いけど、俺たちはそんなの知らないよ。だいたい五年前なんてまだ五歳だ。覚えてるわけないね」
「人が死んだんだぞ。思い出せ、何かがあったはずだ。どんな些細なことでもいい」
「しつこいな! そもそもあんた何者? なんでそんなこと聞くの」
「俺はツクモ。刑事をしている。五年前の火事で死んだ男のことを聞きたい。事故じゃない可能性があるんだ」
「だから! そんな奴知らないって! なぁテンテン」
執拗な詰問に、トトは助けを求めるように後ろを向いた。あぁそうだ、と二つ返事で頷いてくれると思ったからだ。 けれどテンテンは、青白い顔で怯えたように歯を鳴らし、トトの服の裾を掴んだまま震えていた。
「テンテン……?」
「どうやらそっちのガキは何か知っているみたいだな。一緒に来てもらおうか」
ツクモと名乗った刑事は一歩踏み出して、無遠慮にテンテンに手を伸ばしてきた。それを叩き落として、トトはテンテンの手を掴むと、一目散に走り出した。長身の刑事の足元をすり抜け、一本道の出口を目指す。
「トト……!」
「いいから走れ!」
意外にも刑事は追ってこなかった。それでも二人は走ることをやめようとはしなかった。一本道を通り抜けると、すぐ目の前に丘を登る石段がある。テントがひしめく丘まで戻ってきたときには、二人ともひと舞台済ませたような汗をかいていた。
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