第3話


 「テンテン!」


 悲鳴にも似た声に、トトは一気に我に返った。足元をのぞき込むと、遥か下に張られた網の中に見慣れた赤毛がある。さっきまで、自分と同じ高さにあった色だ。

 慌てて身体を動かし、ブランコを踊り場に寄せた。梯子を降りていく間に、ユマとドル爺が網の中に入っていくのが見えた。ステージの上で、団長やほかの団員たちが心配そうに見上げている。

トトが地上に降りるのと、ドル爺に抱えられたテンテンが降ろされたのはほとんど同じだった。


 「テンテン!!」

 「トト!」


 駆け寄るトトの前にユマが立ちふさがる。トトの目線より小さなくせに、その目は迫力に満ちていた。ふだんから猛獣を従えている彼の眼は、姿かたちよりよほど大人びている。


 「落ち着けよ。お前がパニクるとテンテンもそうなる……いつも言われてるだろ」

 「だって、俺のせいで!」

 「ケガはしていないよ。お前のせいでもない。飛ぶときにちょっとためらった風に見えた。いつものことだ」


 冷酷とも思えるユマの口調に、トトは思わず胸倉をつかみそうになった。それを収めたのは、ドル爺に抱えられたテンテンだった。


 「トト、僕だいじょうぶだよ」

 「……テンテン。ごめんな……設営のあとじゃ疲れてたよな。ごめん」


 何度も謝るトトに、テンテンは力なくもやさしく笑った。


 「トトが素直だと調子が狂いそう」

 「なっ」


 どういう意味だ、と聞く前にドル爺が大声で笑いだした。


 「ハハハ、そんな軽口叩けるなら大丈夫だなぁ。今日はもうおやすみ。さぁさ、テンテンも」

 「……俺はユマだよ」

 「ユマ?あの子はもう寝ただろう」


 それを皮切りに、今日はもう解散となった。

 残っていた団員たちがテントを後にするなか、トトは動けずにいた。どっと身体が重くなる。


 空を飛んでいる間は、何も考えられない。そんな自分をよく知っているからこそ、トトは意識しなければテンテンを気にかけられなかった。

 練習の中で、こんな風にテンテンが落ちることは少なくない。時おり、テンテンは注意力を失ってしまう。コントロールできない何かが、テンテンの中に溢れてくるのだという。そして気が付けば落ちているのだと、いつぞやテンテンは打ち明けてくれた。それは時として非常に億劫だったけれど、テンテンが公演で失敗したことは一度もなかった。ショーの間だけは、わけのわからない戸惑いもためらいも身を潜めてくれる。それは、飛んでいる間だけはこの重さを感じない自分とよく似ていた。


 だからこそ団長はテンテンを空中ブランコから降ろさない。そしてトトも、降りてほしくないと思っている。空中ブランコは、トトとテンテンのふたりだからできる芸当なのだ。命綱があるとはいえ、地上十三メートルから落とされることは恐怖でしかない。テンテンのやわらかな心は、そのたびに少しずつ削られていくのだろう。それを知りながら、トトは空を飛ぶためにテンテンを利用している。そんなつもりはなくても、結果を見ればそういうことだった。


 「トト」


 顔を上げると、団長がいた。そこでようやく、トトは自分たち以外もうテントには誰もいないことに気付いた。


 「あ……ごめんなさい、俺……」

 「トト。お前が罪悪感を覚える必要はないんだよ。テンテンをブランコから降ろさないのは私なのだから」


 見透かされてしまった。重くて重くて、なんだか息がうまくできない。そんなトトを見ながら、団長は申し訳なさそうに続ける。


 「お前たちには酷なことをさせている。だがこのサーカスは私たちの家だ。家を守るためには、ひとりでも多くの客を満足させねばならない。でなければ、数多の娯楽の中からサーカスを選んでもらうことなど難しいからね」

 「……わかってます。俺たちも、同じ気持ちです」

 「ありがとう。さぁ早く眠ろう……明日から忙しくなる」


 団長の穏やかな声が心地よい。背を押され、テントを後にする。相変わらず眼下に見える街は眩しいほどで、時間を忘れそうになった。

 小さなテントをくぐれば、穏やかな寝息が聞こえてくる。疲れたのだろう、テンテンはすっかり寝入っていた。規則正しく揺れる赤毛に、心の中で何回目かの謝罪をして、トトも寝床に潜り込む。

 閉じたまぶたの裏側には、テント越しに色めく街明かりが揺れていた。



 「よってらっしゃい、見てらっしゃい!マグネイルサーカスだよ!」


 次の日、トトがテントを出た先で見たのは正装に身を包んだ人々の群れだった。

 高台の上に現れたサーカスの噂は、トトが思うよりずっと速く広がっていたらしい。ドル爺いわく、客引きとして団長や踊り子のアネリーが街に降りたと思ったら、今度は長い長い行列を引き連れて戻ってきたのだという。


 「なんでもこの街にサーカスが来るのは十年ぶりらしくてなぁ。ずいぶん楽しみにしていてくれたようだ」


 ピエロのメイクをしながらドル爺がケタケタ笑う。そのとなりで、トトは逸る気持ちを抑えられずにいた。数分に一回はテントから顔を出して、長蛇の列を眺めてしまう。何回かそれを繰り返したところで、とうとうユマに怒られた。


 「落ち着けよ、うぜーな!さっさと衣装着て舞台裏行け!」

 「ユマの言う通りだよ。遅刻しちゃってもいいの?」


 それはいやだ!と断言して、トトは急いで衣装に着替え始めた。ちらりとテンテンを見れば、ぶつぶつ文句を言っているユマを笑ってなだめている。その様子がいつも通りで、トトは内心ほっとしていた。

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