第2話
サーカスが巨大都市、マリーキャディウスに入ったのは日付が変わるころだった。
「役所から滞在の許可を貰ってきたが、都市部でテントを広げるのは無理だな。向こうに行商などが店を出す広場があるらしい。そこを借りよう」
団長はそう言って、役所からもらった地図を手に荷馬車を誘導する。そうして到着したのは、街を見下ろせる高台だった。トトは荷馬車から飛び降りて、眼下に広がる絶景に目を細めた。きらきらと光る無数の明かりが、夜だとは思えないほどにまぶしい。遠くから見ていたよりもずっと高いビル群は、まっすぐに空を目指している。高台の上からでも、その最上階を臨むことは難しかった。
「すっげー……」
街から街へ移動してきたが、こんなに巨大な街に来たのは初めてだった。ビルとビルの間を縫うように走る舗装路には、夜更けだというのに多くの人々がさざめき合っていた。
トトは思わず、テンテンを起こしてやろうかと思った。好奇心の塊のようなテンテンなら、この興奮しきった気持ちを共有できると思ったのだ。けれど、テンテンはすでに深く眠りに落ちていて、その体はドル爺に抱えられていた。
「トト、お前も寝なさい。今日はもう遅い。荷ほどきや設置は明日やることにしよう」
「団長、本当にここで俺たち公演できるの?ねぇ、お客さん来るかな!?」
居ても立っても居られなかった。縋りつくように尋ねるトトに、団長は穏やかにほほ笑む。
「もちろんだとも。観客のためにも、いつもの三倍は公演を行わなくてはならないね」
「そんなに……!」
歓喜の声を上げるトトの髪を、団長の手が撫でた。
「あぁ、だからもうおやすみ。お前とテンテンには、頑張ってもらわなければ」
街に滞在するときは、いつもテントを張る。公演用の大きなテントと、団員たちの休む小さなテントをいくつか。そのうちのひとつを、トトとテンテンはふたりで使っていた。小さいといっても、滞在中の居室に等しいそれは八畳ほどの広さがある。大人でもふたりくらいなら足を伸ばして眠れるだろう。
ドル爺に寝床まで運ばれたテンテンは、すやすやと眠り続けている。そのとなりにもうひとつ寝床をこしらえる後姿に、トトは声をかけた。
「ありがとう、ドル爺」
「なあに、これくらい容易いもんさ。テンテンも早く寝な」
「逆だよ、俺はトト」
「そうそう、トトはもうすっかり寝ちまっとるよ」
ピエロのドル爺は、トトとテンテンが物心つくころにはすでにボケていた。最近は特にひどく、もう誰が誰だか覚えられないようだった。彼が健在なのは、ステージの上でピエロを演じるときだけ。それが少し自分に似ていると、トトは思っていた。
それでも数年間ピエロの修行をしていたふたりは、ドル爺のことを好いていたし、ドル爺も何かと気にかけてくれているように見えた。団員のなかで最年少であるユマを差し置いて、ふたりの世話をしてくれるのはそのためだろう。
「ほれ、できたぞ」
そんなことを考えているうちに、ドル爺は寝床を完成させてくれていた。ぺしぺしと叩かれるせんべい布団から、少しほこりが舞う。天日干ししないとな、とトトは思った。
ありがとう、ともう一度お礼を言うと、ドル爺はけろりと笑ってテントを出て行った。
布団に横になり、頭上のランプを消すと、外の明るさに驚いた。テントの中にも、華やかなネオンの明かりがかすかに届いてしまうのだ。この距離でこんなに明るいなんて、街に降りたら目がつぶれるのではないだろうか。
再び頭をもたげる興奮や期待を、見ないふりして目を閉じる。公演中にミスをしないためにも、睡眠をないがしろにするわけにはいかない。そう思えば、数日にわたる荷馬車生活に疲れた体はあっさりと夢の中に落ちていった。
翌日から、団員たちはさっそく設営に取り掛かった。荷馬車に載せるために小さく圧縮させた巨大なテントを広げて、ステージや梯子、梁なんかをつなげていく。移動式サーカスの一番の欠点は、そのたびに舞台を作り、解体しなければならないことだとトトは思う。
それでも誰ひとりとして文句を言わないのは、この作業が日常のルーティンワークになっているからだろう。朝起きて顔を洗ってパンを焼く。そんな一連の流れの中に、舞台の設営も組み込まれていた。食事をすることに文句を言う人間がいないように、トトもまた、空を飛ぶためには必要なことだと理解していた。
丸二日をかけて、設営は終わった。万が一の事故がないように、団長がひとつひとつの設備を点検するため、設営にはいつも時間がかかる。その間、トトはテントの外に出て、丘の上から街を見ていた。逸る気持ちを抑えるすべなどわからなかったし、これ見よがしにそわそわしていると団長の邪魔になると思ったからだ。叱られる時間すら今のトトには惜しかった。
「トト、設営終わりだって。初演は……」
「何回!?」
叫ぶように尋ねたトトの勢いに、テントから出てきたばかりのテンテンが目を丸くする。けれどすぐに笑って、指を二本立てた。
「明日の昼と夜に一回ずつ。僕らは二回とも空中ブランコで出ろって」
「よし……よし!テンテン、リハーサルしよう!」
「もうすぐ消灯だよ?」
「構うもんか!設備点検も兼ねて、って言えば団長も許してくれるさ!」
でも、と渋るテンテンの手を引いて、トトはテントの中に駆け戻る。設営されたばかりのステージでは、数人の団員がさっそく公演の準備をしていた。
団長に許可をもらうと、天へ伸びる梯子に手をかけた。しっかりと固定された梯子は、少しくらい乱暴に扱ってもびくともしない。命綱代わりにステージの上に張られた網を横目に、ぐんぐん上っていけば、あっという間にてっぺんが見えてくる。
そこには一メートル四方の踊り場がある。目の前には鋼鉄製のロープに吊るされたバーが一本。ブランコというにはあまりに頼りないそれを、トトはいとおしげに撫でた。移動と設営を含めても、触らなかったのは一週間程度だ。それでも、もうずいぶんと会っていないように思えた。
向かいの踊り場に、赤毛がのっそりと現れた。少し懐かしそうに、テンテンも目の前のブランコを眺めている。トトは少し大きめに声を出した。
「飛べそうか?」
返事の代わりに、赤毛がこくりとうなずく。それを確認して、トトは足元のクッキー缶を開けた。それはまだピエロの修行をしていたころ、ある街でドル爺に買ってもらったクッキーの缶詰だ。その中に、トトは滑り止めの粉を入れていた。てのひらに収まるくらいの粉をつかんで、両手にこすりつける。パンパン、と手をたたくと、白い煙が舞った。
バーを掴み、何度か指を動かす。息を吸えば、舞った粉と、ほこりの匂い。目を閉じて、想像する。まばゆい照明、割れんばかりの大歓声……汗も息切れも忘れるほどの、昂揚感。
とん、と足を蹴り上げる。身体が軽い。頬をかすめる風が、重力から解放されたことを教えてくれる。
空を切るトトの横を、同じようにテンテンが通り過ぎる。少しタイミングが合わなかったみたいだ。
「テンテン、そのまま!」
振り切った振り子は、もとに戻ろうと逆行する。手を入れ替えて、身体ごとそちらを向いたトトは、片手を横に広げた。同じように進行方向へ身体を直したテンテンとは、向き合う格好になる。こちらへ向かうテンテンもまた、片手を広げた。
すれ違いざま、ふたりはお互いの身体をしっかりつかみ合った。動きが止まる。両端から伸びたブランコが、真ん中できれいにクロスしている。
「ごめん、僕ちょっと遅かったみたい」
「いや、俺が早かったんだよ。一回立て直そう」
テンテンがうなずくのとほとんど同時に、そろって手を放す。今度はぴったりのタイミングだ。ブランコがそれぞれもとの場所へ戻っていく。トトは片足を前に伸ばして踊り場に足を置くと、間髪入れずに逆の足で力強く踊り場を蹴りとばした。身体の向きと逆の方向へ、ブランコが猛スピードで振られていく。
勢いを殺さないよう気をつけて、トトはバーから手を放した。後ろ向きに放り出された身体が宙を舞う。何も聞こえない、何も感じない。時間が止まったのではと錯覚するような、そんな感覚。心臓の音だけが、世界のすべてのようだった。
数分にも、数時間にも感じられたが、実際は一瞬のことだったろう。目の前に現れたバーを、トトは両手でしっかりとつかんだ。途端に両腕にかかる重力が煩わしい。やはりショーとは違う。リハーサルでは、あそこまですべてを忘れることはできない。
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