ホオジロのサーカス

赤屋いつき

第1話


 必要なのは度胸ではない。タイミングと、心から信じることだ。


 右足を踏み出して、力を抜く。しなやかに、猫みたいに、運動エネルギーに身を任せる。そうすれば身体は薄っぺらい紙のようになって、ぐんっと伸びる。伸びきったところで、バーから手を離す。ポイントは落ちるのではなく、飛ぼうとすること。川に向かって遠く投げられる石のように、前へ前へ。伸びきった脚を掴む手があることを当然のように信じれば、恐怖や不安は微塵も浮かばない。

 スローモーションのように景色が映る。十三メートル下に並ぶ色とりどりの顔。正装に身を包んだ人々が、間抜けな顔でこちらを見ている。その視線を、神経を、全身に受け止めながら、指先までピンと伸ばすことも忘れない。

 右足首を、よく知る左手が捕まえた。次いで左足首。両足を吊られて、宙ぶらりんになる。途端、ぺたんこになった身体の中に、観客のため息が巻き起こる。安堵の空気が満ちる前に、今度は真逆に空を行く。

 あっ、と誰かが叫んだ。放り出された身体に、再び視線が注がれる。観客に向けていた身体をねじって、空を仰ぐ。照明の眩しさに一瞬世界が白くなる。そのまま一回転。気づけばバーはすぐ目の前だ。手のひらをしっかり広げて、指の先は少し緩めて。銀色に揺れるバーを両手で捕まえれば、歓声が湧きあがる。


 緊張と弛緩。それがすべてのエンターテイメントの基本だ。永遠に走り続けるジェットコースターはいずれ疲れ果ててしまうだろうし、動かないメリーゴーランドではすぐに飽きてしまうだろう。ほどほどのスリルと、ほどほどの安心。その繰り返しで、サーカスは成り立っている。

 背高テントの中で、ふたりの少年が飛び交っている。あるときはバーを掴み、あるときはお互いの腕や脚を掴んで、放り投げたり、自ら飛んでいったり。そんなこどもらしいやりとりが、地上十三メートルの空中で何度も行われる。そのたびに観客たちは一喜一憂、まるで獲物を見つめる猫のように、視線を逸らせないでいる。そんな様子を黒髪の少年……トトは、何度目かの空中浮遊の最中に見下ろしていた。

 歓声の渦の中で泳ぐ世界はさかさまだ。すっかり見慣れた景色に、トトは観客からは見えない位置で赤毛の少年に合図を送る。最後の仕上げだ。ふたりは同時に、相手のバーに飛びついた。空中で交差する少年の身体に、ひときわ大きな歓声が上がる。そして掴んだバーに足をかけ、ふたりの少年がシンメトリーのポーズをとると、その日一番の歓声と拍手が湧き上がった。


 これにて本日の空中ブランコの演目はおしまい。安心感からか、汗がどっと流れ出すのを感じた。肩で息をつきながら、それでもトトは笑顔を崩さない。拍手の雨が止むまでは、一本のバーでできた舞台だけがトトの居場所だったのだ。




 生まれた場所も親の顔も知らなかったが、それを不便に思うことはひとつもなかった。サーカスという非日常の世界に生きて、街から街へ転々と移り住む暮らしの中では、そんなものを考えて憂鬱に浸る時間は与えられない。今日食うための日銭を稼がなければ無一文で放り捨てられる。そのための技を磨くことがすべてであり、個人である前に芸人であれと教えられた。つまり、捨てられたところを運良くこのマグネイルサーカスに拾ってもらったことも、トトにとっては昔話でしかなかった。

 トトは自身の性分が直情的だと思っている。それは世間一般のものに比べればずいぶんとおとなしく、控えめであったけれど、テンテンという同い年の少年があまりにも穏やかだったのでそう思うようになった。テンテンはトトと同じく、拾われた赤子だった。時も場所も非常に近かったので、双子か何かではないかと団員たちは訝しんだが、ふたりの正反対な気質がその疑惑を霧散させた。それほどにトトとテンテンはすべてが異なっていたが、お互いしか遊び相手がいなかったせいだろうか、ふたりは兄弟同然に仲が良かった。


 そんなふたりが空中ブランコ乗りになったのは、三年前のことだ。

 それまでマグネイルサーカスにブランコ乗りはいなかった。メンバーの入れ替わりも激しく、派手な演目を行える技量を持つ者も少ない。観客を呼び込むことに困窮した団長の苦肉の策が、空中ブランコだった。

 サーカスの花形。人間が永遠に憧れる、空を飛ぶ者。当時ピエロの見習いをしていたトトとテンテンが抜擢されたのは、その運動神経が常人と呼べる範囲を逸していたからだろう。わずか七歳のこどもに与えるには重い役割だったかもしれない。しかしトトとテンテンは見事にやり遂げてみせた。最初は二メートルだったふたつのブランコの幅を広げるたびに、観客が増えていった。今ではステージいっぱいにまでブランコは遠ざかり、うわさがうわさを呼んで、マグネイルサーカスの空中ブランコは大人気の演目となっていた。


 ガタゴトと荷馬車が進む。その後ろ、大道具が山のように積まれた端っこに、トトとテンテンは座っていた。舗装されていない山道を走る荷馬車は、時おり不穏な音をたてて揺れるが、ふたりには慣れっこだ。


 「次はどんな街だろうね、トト」

 「客の多いところがいいなぁ。ここしばらく田舎町ばっかりだったろ?」

 「そうかな。お客さん、いつも満員だったけど」

 「客が満員なのはいつものことじゃん。でもさ、やっぱり小さな町だと公演数が少なくなっちゃうだろ。俺はもっといっぱい飛びたいのに」


 荷馬車から降ろした足が揺れるのを見ながら、トトは不満げにつぶやいた。

 マグネイルサーカスは移動型のサーカスだ。一定期間とどまって公演を行い、それが終わればほかの街へ移動する。ひとつの場所で行うサーカスとの違いは、常に新規の客を得られることだろう。多くの人間に見てもらうことができる一方、飽きられることもない。ただ、街の規模によって公演数が左右されるのは、トトにとってはデメリットだった。


 重力を含んだ身体は鉛に似ている、とトトは思う。

 ステージの上、正確にはその十三メートル上でこそ、トトは自由でいられる。まとわりつく重りを外して、身ひとつで空を飛ぶあの瞬間にこそ、トトの心は自由になれるのだ。


 あっ、と声がした。振り向くと、テンテンが空を見上げている。同じように顔を上げると、晴天に黒い鳥が羽ばたいていくのが見えた。


 「見て、カッコウだよ。トト」


 まるで宝物を見つけたように、キラキラした瞳でテンテンが鳥を指さしている。


 「鳥なんて珍しくもないだろ。こんな田舎なんだから」


 テンテンは鳥や花、星の名前をよく知っていた。見たことのないものを見るとすぐに、部屋の図鑑を調べたり、ピエロのドル爺に訊いたりするのだ。そうして知ったことを、ごくあたりまえのようにトトに教えてくれる。けれど、トトがそれらを覚えることはなかった。

 トトにとっては、鳥や花や星はそこにあるものだった。美しいと思うことはあっても、捕まえようとか、生態を知ろうなんて考えには至らない。姿と名前を覚えるほどの勤勉な好奇心が、トトにはなかった。

 けれど、テンテンにとってはそんなトトの態度も性分も、あまり関係ないようだった。


 「鳥には帰巣本能っていうのがあってね、どこに行っても自分の家にちゃんと帰ってこれるんだって。すごいねぇ。あのカッコウも巣へ帰る途中なのかな」

 「どうでもいいよ。そんなことよりさ、次の街、そろそろ見えてくるんじゃないの?ああもう、山道って長いから嫌いだ」


 ぶら下げていた足を引き上げ、トトは大道具の隙間から前方を覗き見た。ふたりの乗る荷馬車は最後尾で、同じように大量の荷物を積んだ馬車が前方に四台連なっている。その間から、山並みの先にちらちらと何かが見えた。


 「あ……ビルだ!すごく高いビルが見える!」

 「えっ本当?……本当だ!あんな高いビル、見たことない……どうしよう、もしかして大きい街なのかな?」


 不安げな表情を浮かべるテンテンの肩を抱き、トトは上機嫌で笑う。


 「やった!あれだけ高いビルがあるんだ。人もいっぱいいるよな!いっぱい飛べるぞ、テンテン!」

 「痛いよ、トト……僕、いやだなぁ。一回飛ぶだけでも、心臓が飛び出そうなのに」

 「心配するなよ、今まで大丈夫だったんだから。俺たちなら、これからだって大丈夫だ!」


 トトの頭の中はもう、空中ブランコのことばかりだった。大きな街では、観客も増える。多くの観客を詰め込むために、公演の数も比例するのはいつものことだ。それはつまり、トトがブランコの上にいる時間も増えるということだった。

 そこから二日をかけて、荷馬車はゆっくりと山道を進んだ。いつまでも続く変わり映えのない景色に辟易しながらも、少しずつ近づく巨大なビルの群れにトトの心は躍っていた。

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