最終話 CALL YOUR NAME

「私も最初は健次君がどんなバンドのサポートしてるのかって全然わからなくって、ですね。もし偶然バイト先のクリニックで会わなかったら、いまでもかなり苦労してたと思います。もしかしたら、諦めちゃってたかもしれませんし!」

「おぉ! そうだよね!」


 熱っぽく語ると、康一郎さんも空いてる方の手を固く握って強く頷いた。


「でもですね、康一郎さん。そんな偶然の出会いでどうにかこう距離を縮めることに成功したわけですけど」

「うんうん」

「でも私としては、出来ればこのままでいてほしいなぁとも思うわけです」

「うんう……えぇ? 何で?」


 康一郎さんは眼鏡の奥の瞳を一度大きく見開いた後でぐぐっと細めた。眉を寄せ、顔を近付けてくる。さすがにある程度のところで健次君が止めたけど。


「有名になってたくさんの人に健次君のすごさを知ってもらいたいっていうものあるんですけど、どっかでやっぱり『私だけの健次君』でもいてほしかったりもするんです。って、まぁ、いまでも健次君の良さを知ってる人は絶対たくさんいるでしょうし、サポートしてる人がめちゃくちゃ有名になって、健次君も人前に出るようになるかもですけど」

「『私だけの健次君』ねぇ……。『私だけの健次君』……成る程」

 

 その言葉を繰り返し、康一郎さんは自分の肩の上に乗せられている健次君の腕を引き剥がしてその顔を覗き込んだ。――うんと悪い顔で。

 

「愛されてるなぁ、

「うるせぇ、馬鹿兄キ」


 傍から見れば身体の大きさ的に健次君の方がお兄さんのようだったけれども、そんな表情で詰められ、背中を丸める様を見ればやはりその年になっても兄弟の力関係というのは存在しているらしい。さっきまで真っ赤な顔をしていたのは康一郎さんの方だったのに、いまでは健次君の方が茹でダコみたいになっている。やっぱり康一郎さんはそんなに酔ってはいなかったのだ。


「――ちょい、咲」


 そんな兄弟のやり取りを微笑ましく思っていると、後ろからつんつんと肩を突かれた。振り向いてみれば――いや、見なくても声でわかるけど――山口である。


「どしたの、山口」

「そういやアンタにまだ言ってなかったんだけどさぁ」

「何?」

「それ」

「それ? どれ?」


 きれいに整えられたオーバル型のその爪が私の唇辺りを指した。


「もしかして何か付いてる? 口紅とかグロスとかきれいに塗ってもらったもんだから、何か食べてもごしごし拭えなくてさぁ。こういう時ってどうするのが正解なの? ねぇ山口?」


 そんなことを言いながらナプキンでちょいちょいと唇の端を突いてみる。さすがにもう落ちかかってるんだろうけど、それでも普段のようにぐいぐいと拭うのは気が引けるのだった。


「いや、そういうんじゃなくて。っあー、何か恥ずかし」

「えぇ? 恥ずかしいのそっち? 珍しくない? 山口が恥ずかしいことになるなんて」

「だから、それよ」

「だから、何が?」


 そう聞き返すと、山口は何だか悔しそうに一度下唇を噛んだ。艶のある真っ赤なグロスがきれいに塗られたその唇に、彼女の白い歯がめり込む。あぁ、歯にグロスが付いちゃう! って、まぁ手遅れだけど。


「だから! あたしもじゃなくなるから」

「――へぇ?」


 怒ったようにやや強めの声でそう言うと、山口――じゃなくなる人はぷいと視線を逸らした。


「え? えぇと、それって――」

「あたしも、結婚すんの。名字、変わんの」


 ぶっきらぼうにそう言う。口を尖らせて、何やら不服そうな声で。


「ちなみに、何て?」

「あのね、別に狙ったとかじゃないから」

「――はい?」

「たまたまだから、マジで」

「いやだから山ぐ――早紀?」


 彼女にしては回りくどい。いつもならもっとスパッと結論から話してくれるのに。


「おさだ」

「――ん? 何ですと?」


 あれ、いまどこかで聞いたことのある……。


「だから! あたしも『おさださき』なの! ただ、漢字は違うから! 納める! 納税する方の『納田』だから!」

「ほぇ~、すっごい偶然」

「ていうかね! アンタ最初『長田』じゃなかったでしょうよ。何だっけ、奈良だか奈良田だか――」

「あぁ、奈良橋さん?」

「それよ! だからまさか後から被って来るとは思わないじゃん? ていうか、あたしもまさか結婚までするとは思わなかったけど!」

「そんな怒らなくてもぉ」


 脱力して気の抜けた声を出すと、山口改め『納田早紀』はため息なのか何なのかわからないような大きな息を吐いた。


「偶然もここまで来ると運命感じるわ、あたし」

「うひひ、私も」

「これからは基本的に名前呼びになるな、あたし達」

「そうだね、早紀」

「これからもよろしく、咲」


 そう言って、私達は笑った。


 5月の空は、一切の淀みもなく澄み渡っている。

 私の心も同様に、だ。

 


 ちなみにこの数年後、健次君と湖上さんは最高のヴォーカリストと最高のギタリストで構成されたある異色ユニットの専属サポートメンバーに抜擢され、その名を案外広く知らしめてしまうことになるのだが、それはまたである。


 

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