◆◆◆ お願い

「――はい?」


 俺の隣で品よくアイスティーを飲んでいる紳士――彼はもうそうとしか形容出来ないような人だ――は表情を崩さずに首を傾げた。もう一度言おうか、とでも言いたげな表情である。


「いや、君さえ良ければだが」

「いや、もう俺としては願ったり叶ったりっていうか」

「そこまで気を遣わなくても良いんだ。所詮私は素人だから」

「いや~、そこまで『素人』でもなかったですよ」


 まぁ、プロか、と言われればさすがに、ですけど、とつい口を滑らせると、その紳士――直矢さんは少しだけ頬を緩ませた。声を上げて笑うことはほぼ皆無に等しいらしい彼の『小笑い』といったところだろうか。


「君は本当に正直だね」

「いや、すんません。でも、かなり上手かったですよ。ねぇ、マスター?」


 そう振ると、グラスを磨き上げていたマスターはその手を止めて「私もいつもそう申し上げてるんですけどねぇ」と困ったような顔で笑った。


 緊張の『』ってやつを済ませた後で連れられたこのバーで、俺は彼のサックスを聞いた。俺だってもちろんプロのサックスは聞いたことがある。CDの中だけではなく、生で。クラシックのコンサートではなく、ライブやレコーディングで、だが。

 だからそのプロの奏者と比べりゃもちろん荒い部分はあるものの、それでもはっきりと「上手い」と言ってしまうほどの腕だった。


「昔からスポーツがからきしでね。まぁ、見ればわかるだろうが。それでも中高と何かしら部活動というものに所属しなければならなかったんだ」


 照れ隠しのようにそんなことをぽつりと言った。


 どうやら彼は中学から高校まで吹奏楽部に所属し、アルトサックスを担当していたらしい。その後大学に入学し、部活やらサークルというものが強制ではなくなったことで、一時は楽器から離れていたのだという。


「実にあっさりと、一切の未練もなく止めてしまったんだ。まぁ、貧乏学生だったからね、自分の楽器なんて買えるような余裕もなかったし、あったとしてもそれよりは本を買っただろうしね。高いんだ、学術書というのは」


 それからはまるで興味を失ってしまったかのように、楽器店の前で足を止めることもなくなった。それは、結婚し、子どもが産まれ、生活がある程度安定してからも変わらなかった。

 そんな時にふらりとこの店に立ち寄ったのだという。


「色々行き詰まっていてね、気分転換のつもりだった。いままでに行ったことがないようなところに行けば新鮮な気持ちで新しい発想が湧いてくるような気がして。それで」


 彼は夜遊びというものに無縁の人間だった。仕事帰りにちょっと一杯ひっかけてくるだとか、ということは付き合いでもしなかった。それがなかなか出世しなかった理由の一つかもしれないと、彼なりのジョークを飛ばし、また少しだけ笑った。


「心地よかった。いつも静かに音楽が流れていてね。酒なんか飲まなくても、ほろりと酔えるような。そしたら視界の隅に入ったんだな、あそこにあるサックスが」


 さすがにもう運指も忘れてしまってるのではないか。

 そんなことを思いながら見つめていると、マスターはそのサックスを壁から外して持って来た。そして慣れた手付きでマウスピースにリードを付けると、客に対して「ちょっとすみません」と言ってから吹き始めた。


「『Take Five』だったよ。とはいっても――」

「ははは。酷いものでしたけどね」


 下手の横好きを自称するマスターもまた品よく笑った。

 彼は意識的にか無意識的にか道化を演じることで、演奏のハードルを下げに下げたのである。彼はリードを取り外してマウスピースの先を丁寧に拭うと、ケースの中から新しいリードをもう1枚取り出して再度装着し、それを直矢さんに渡した。彼はなぜか辞退することが出来ず、十数年ぶりにマウスピースを咥えたのである。


「いや、音が出たのが奇跡だった」


 そう謙遜すると、マスターは「それでも私より遥かにサックスの音でした」と補足した。


 それから定期的に通ってはサックスを吹くのが彼の楽しみになったのである。



「勉強なんかでも、強制されて嫌々やるより大人になってから自主的に始めた方が楽しいって言いますしね」

「うむ、恐らくそういうことなんだろう」


 学生の頃に戻ったような、という感じではなかったらしい。

 学生の頃の延長というよりは、一から学び直す、という気持ちでまた楽器をまた始めたものの、そのことは子ども達には内緒にしているのだという。


「それは、恥ずかしいとか、そういうことですか」

「そう……なのかな。わざわざ言う必要もないだろう、と思ってたんだが。君に言われると案外そうなのかもしれない」


 ふむ、と顎をさすりながら呟く。随分と冷静な人だ。


「まぁでも確かにわざわざ報告することでもないと思いますよ。たまに家に帰ると、リビングにレースやらパッチワークやらが飾ってあったりして、これは何だって首傾げてると母親が言うわけですよ『あれ? 言ってなかった?』って。こっちの知らないところで次々と新しい趣味が出来てるんです」

「ほう。チャレンジ精神に富んだ素晴らしい方じゃないか」

「そんな風に言ってくれるの親父さんだけですから。ウチの家族は『今度はどれくらい持つか』なんて賭けてるくらいですよ」


 ちなみに一番人気が一週間です、というと直矢さんは一度驚いたような顔をしてからまた少し笑った。案外よく笑う人のようだ。まぁ、笑うというよりは微笑むって程度だが。

 

 直矢さんはそこでふと何かを思い付いたようにぴたりと止まった。そしてしばらくの間眉をしかめて考え込んだ後、その難しい表情のまま俺に向かって言ったのだ。


「――君達の式で一曲吹かせてもらえないか。出来れば、君と一緒に」と。


 で、話は冒頭に戻るわけよ。


 ――な? そりゃ聞き返すだろう?


 聞こえなかったから聞き返したんじゃない。驚いただけだ。そりゃあもう純粋に。


 まぁサプライズでそんなことをやるのも悪くねぇななんて思って、俺はその申し出を受けた。せっかくだし、と湖上にも声をかけるともちろん二つ返事よ。


「アキもやりてぇってよ」


 と、ギターまでつけてくれたのは嬉しい誤算だったが。アイツ、ジャズも出来んのかよ。くそ、これだから天才は。


 ただ、問題はあれだな。

 式をどうするかとか、その段階では何も決まってなかったってことだな。

 まぁ、やらねぇとは言ってなかったし、披露する場はどこかであるだろう。


 そんな流れで、俺と親父さん、たまに湖上&晶を交えての秘密練習が始まった。


 咲の20歳の誕生日、3月29日に籍を入れることにし、5月の連休に、家族と親しい友人だけのささやかな食事会をしようと決まった。

 場所はどうしようか、と彼女がいくつか候補を上げた時、俺は迷わず『BAR Take Five』を推した。

 別にここにこだわる理由はない。機材がそろっているところならどこだって良かった。

 けれどもきっと、ここが一番親父さんが伸び伸び出来る場所だろう。


「バーなら『SNOW SCENE』でも良くない? 銀千代マスターもいるし」


 彼女は不思議そうに首を傾げながら言った。彼女にしては馴染みのないバーである。その上、料理が美味いとか、そういうアピールポイントもないわけだ。第一、いくら少人数っていっても、あそこなら15人もいれば確実に料理は外注に頼ることになるだろう。


「いや、せっかくだし、銀千代さんにだって仕事を忘れてもらいてぇだろ」


 苦し紛れにそんなことを言ってみると、彼女は成る程、と言わんばかりの晴れやかな顔になった。


「そうだよね! 健次君優しい!」


 いや、優しいとかじゃないんだけどな。この単純さがたまらなく可愛い。と言ったら咲はきっと照れながら怒るだろうが。

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