第58話

「もう、戻らない……」


 アリスは、彼女なりに日々を節約し、守り続けた僅かな貯えと着替えをバッグに詰め込み、家を出た。


 が、行く宛てなどない……親戚もアリス家を敬遠していた。寒い夜を幽体の様に彷徨い歩き、気づくと父の勤めるスーパーの前にいたという。


 導かれる様に店内に入り、食品売場のとある棚の前で足が止まる。周りには誰もいない……手が食品に伸び、それをバッグに入れた。


「罪の意識なんて、なかったよ……」


 ごく自然に店を出た……。


「これからどうしよう……って歩き出した時、ギュッて腕を掴まれたんだ。捕まったと、終わったと思ったよ……」


「でも違った……礼子さんだった……」


「社長が……」


「うん。でも、怒るでもなくさ、アリスが万引きした食品をそっと棚に戻して店を出て、アリスに言ったの……」




「行く所がなかったら、私の家に来なさい……そして、アイドルになりなさい……って」


「あまりに突然だったけど、温もりがあったよ。礼子さんの眼差しには……その夜から礼子さんの家に住み、学校へ通った。礼子さんを怪しい人物なんて疑いもしなかった」


「でもさ、家を出たのに、親から何の連絡もアリスにも学校にもない……って事は、パパとママはアリスを……」


「あんな人達でも、アリスの親だからさ、ある時気になって、礼子さんに内緒でこっそり家に帰ったんだ……けど、帰らなければ良かったよ……」


 万希子さんとは「成分」の異なる涙が、アリスの頬を伝う。


「家に入った瞬間、いきなりの悪臭攻撃でさ、リビングなんか夥しい数の酒の瓶や適当に詰め込まれた大量のゴミ袋と、血を拭いたティッシュの山……脱ぎ散らかした服やらが散乱して足の踏み場もなかった。カーテンは閉め切って暗く、じめじめした気持ち悪い空間だった」


「うぐぅ……って呻く声が聞こえてゴミ袋の山を見たら、その中にママが紛れてて、顔を腫らして腕や足に内出血の跡。焦点の合わない腐った眼でアリスを見て、アンタ誰?って言うんだよ……自分の娘なのにさ……そして見つけちゃったよ……腕にドス黒い痕を。何だかわかるよね……暴力と酒とクスリにやられてアリスを完全に忘れたんだね」


「ヘッって笑いやがってさ、酒瓶を赤ちゃんと勘違いして後生大事に抱いて……狂ってる。そう思った」


 諦めと、怒りが込められた声……。


「ここにアリスの居場所はもうないと悟ったよ。ママがこんな風だから、パパもやられてるんだなぁって……近所の冷たい視線も痛いしさ、さよならも言わず家を出て、お気に入りだった河川敷で、体育座りになって夕日が反射する川の流れを泣きながら眺めてた……」

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