第7話 開闢

 丹生谷は剣山系に流れを発する那賀川が、渓谷のごろごろと切り立った巨岩の間を通り抜けるところから始まる。丹生谷とはその名の通り丹=水銀を産する土地の意味であり、古代にはこの地方の重要な産物であった。先代古事本紀によれば、かつては丹生谷は現在の阿南市などの地域と合わせ那賀郡=長郡として、阿波南部を治めた長国の支配を受けていた。那賀郡の成立じたいは律令制導入以前と考えられており、やがて律令国家が成立すると、長国は北部の粟国と合併し粟国の一部となった。元明天皇の御代、粟国は阿波国と改称される。

 それよりしばらく那賀川・丹生谷の名前は国史に姿を見せない。下流域はともかく、那賀川の上流域に記録に足るものはないと判断され、ただ多くの伝説が語り継がれているのみである。那賀郡太龍寺山で弘法大師空海は空の字を感得したが、その修行の最中に那賀川の上流・黒滝山の竜神を法力でもって封じ込めたという。全国的に阿波国那賀郡丹生谷が知られる記述はこれくらいであり、また弘法大師空海との数少ないが重要な接点であるという理解が一般的である。しかし考えてもらいたい。空海は高野山を開いたとき丹生明神から土地を譲り受けている。そして「西の高野」である太龍寺山の麓には、古代の辰砂(水銀朱)の採掘場があったのである。そして丹生明神を祀る丹生都比売神社にうつひめじんじゃには、オオゲツヒメも祀られている。オオゲツヒメは記紀神話において四国=伊予之二名島が産み落とされたときにつけられた阿波の国の神格である。徳島県神山町にある、オオゲツヒメを主神とする上一宮大粟神社かみいちのみやおおあわじんじゃの社伝はやや異なり、伊勢国丹生からこの地へと粟の耕作を広めにやってきたというのである。はたしてスサノオに切り殺された神がいかにして生き延びてこの地へと渡ったかは分からないが、ともかく阿波国と丹生という言葉は切っても切れない関係にある。これは果たして偶然であろうか? 後に神武帝の御東征ののちに、天太玉命あめのふとだまのみことの子孫、阿波忌部氏がこの国へ移り住んだ際に、天太玉命を阿波国の主神として祀り、現在でも可の髪を主神とする大麻比古神社おおあさひこじんじゃが阿波国一宮として鎮座しているが、どちらがより阿波国の主神としてふさわしいか、読者の皆様にはお分かりであろう。

 閑話休題。話を丹生谷の歴史に戻す。

 ともかく丹生谷は田舎であった。田舎だが、そこに人の営みはあった。渓流により穿たれたV字谷にへばりつくように家を建て、人々は暮らしていた。わざわざ移住してくる人もいるはずのない辺鄙な土地。古代より変わらぬ暮らしが、そこにはあったのかもしれない。

 だが時代は流れる。平安時代後半、律令制が有名無実化し、全国を荘園が覆ったころ、丹生谷地域は藤原氏である丹生氏の支配を受けた。紀伊国出身の丹生氏は熊野権現をこの地に勧請し、宇奈為神社に祀った。

そして十三世紀、この丹生谷へ、山を越えて移住してきた一派がいたのである。


「それが我々の先祖だ」久保さんは言った。「十数人にも満たぬ集団だった。だが生き延びた。現在に至るまで。堪え難きを耐え、忍び難きを忍んだ末に、ついに旗揚げに至ったのだ」

「山を越えた…」

「そうだ。我々の先祖はまず祖谷へと降り立った」祖谷とは徳島県西部の山間部、祖谷川の流域を指す。「そこを平定したのち、さらに我々は南下した。軍旗を先立て、宝剣を奉じて、山を越えた。宝剣は捲土重来の時まで、追手の手の届かぬよう山頂に奉納した。そして山を下った我々は、ここ丹生谷を新たな本拠地と定めたのだ。そして再興の時はきた。我らの軍旗が翻る時が来たのだ」そして役場の周りにはためく赤い幟を指さした。ただの赤地ではない。白抜きで、揚羽蝶の紋が描かれている。

 私にはその赤い幟に見覚えがあった。何であるか思い出したとき唖然とした。よもやおとぎ話でもあるまいに! いや、霧に飲まれた時から、すでに自分は伝説と相対しているのだ。

 ああ、どこからか琵琶の弦をはじくバチの音が聞こえてくる。

 赤地に揚羽蝶の幟、まさしくそれは平家の旗印に他ならなかったのだ。

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