第5話 誘拐
死に直面した時、人は明晰になるという。そして時に、それまでの人生が走馬灯のごとくよみがえる。
だが、そんなのは嘘っぱちだと私は思っている。死に直面した時の選択肢は二つしかない。恐怖による思考の完全停止か、諦めの境地かだ。
そしていま、私は今までの人生の中で最も死に近い場所にいた。二人の男に銃を突きつけられているのだ。
「もう一度だけ聞く。お前はどこのスパイだ?」スーツの女は言った。
「ぼ、ぼくは……」わなわなと震えながら、やっとのことで声にならない声を振り絞る。頭は全く回らない。「国道を南に走っていただけで……」
「何をしに来た」猟銃の男が詰め寄りながら聞く。
「人を……」足もがくがく震える「人を、送ってきた帰りです」
「何のために」
「わかりませんし、知りません。ただ荷物を届けるのだ、と言っていました」
「荷物?」女は目を細めた。
しまった。恐怖に駆られてつい余計なことが口から出てしまった。
「それはどんな荷物だ?」
こうなれば言うより他はない。毒食らわば皿まで。話さなければ私の頭が吹き飛ばされかねない。
「細長い包みです、一メートルほどの。中身は見ていませんが、桐箱か何かと思います」
それを聞いた後、彼女は二人の男に目配せした。二人はすっと銃を下した。
私があっけにとられていると、彼女は口元に不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど、貴様か」彼女は言った。「みどりをこの村まで運んでくれたのは、貴様だったわけか」
みどり!
その名前が彼女の口から出た時には、こちらの心臓が口から飛び出そうであった。こいつらは何故浅葱みどりのことを知っているのか。荷物のことも。
納得のいく回答が一つだけある。
それは浅葱みどりの荷物の受け渡し相手が、今目の前にいる奴らであるということである。そうすると大変なことになる。人に銃を軽々と向けてくるような過激派のシンパを、私は乗せていたというのか。そしてあまつさえ、ともに夜を過ごしたとでもいうのか。
私が今度は別の意味で震え上がりそうになっているのを、彼女は知らずか、話を続ける。
「まずは銃を向けてしまった非礼を詫びたい。そしてみどりをここまで連れてきてくれた礼を言いたい」
彼女は私に謝罪し、そして感謝されているようだが、それでも私がおびえているのは変わらない。ただ、もうすぐここから解放されるのでは、といった淡い期待が現実味を帯びてきた気がした。
そして、本当に気がしただけだった。
それに続いた彼女の言葉は、私の希望を粉々に打ち砕いた。
「だが、いまこうしてこの土地に足を踏み入れている以上、そのまま返すわけにはいかない。我々と同行願おう」
そして、男二人に脇を固められた私は、パトカーの後部座席へと放り込まれた。絶望感に打ちひしがれる。これは完全に誘拐だ。しかしこの様子、パトカーに押し込められる姿を見よ。まるで犯罪者じゃないか、私のほうが。
警官は運転席に座った。猟銃を持ったツナギの男は助手席に座った。
車のドアが開き、スーツの女が乗り込んできた。
私はおずおずと聞いてみた。
「あの、僕の車は……」
「ああ。後で誰かにとりに行かせよう。今はいらないだろ」彼女はそう言い放った。同時に、パトカーは走り出した。近くの空き地でUターンすると、元来た道を戻るように、素掘りのトンネルの中へと入っていった。
私が連れてこられたのは、旧村役場、現在は町役場の支所となっている建物だった。建物は鉄筋コンクリート造りの三階建てで、比較的新しい。
私はこの誘拐犯にどこへ連れていかれるのかとどれほどおびえていただろうか、読者諸氏はおそらくそう想像されることだろう。しかしいったんこの状況に出会い、絶望を味わったなら、もはや俎板の鯉と同じであり、何をどうあがこうと私の生殺与奪の権は彼らに握られている、それを悟ることになる。そうすればもはやいかなる恐れも怯えも意味をなさなくなるのだ。感情とは身体の防衛機能であり、もはや防衛のすべを失った身体に対して、神は絶望や恐れではなく脳内麻薬による平穏と最期の快楽を与え給う。
だからいったん車が発進してからは、それほど恐怖を感じていなかった。代わりにおかしな気分の高揚を感じていた。隣に座った女性――スーツに身を包んだ若い女性――の整った顔立ちに見とれていた。年齢は改めてみれば二十五歳か、それ前後くらいか。黒髪は背中の中ほどまであるストレートで、フレームのない眼鏡をかけている。ジャケットとパンツタイプのスーツに身を包んでおり、キャリアウーマンを連想させた。
あまりにも銃を持った二人組とは合わない組み合わせ、そしてその姿からは想像できない言動が、私をある意味虜にしていたのかもしれない。一体どこへ連れていかれるのかと、逆に期待がそそられる気もした。
だから、役場の支所というとてもまっとうな場所についたと知った時、わたしはある意味では落胆し、ある意味では驚愕し、そして――生きる望みが再び出た私にとって、これが最も自然な感情であっただろう――安堵したのである。
役場につくと私は女ではなく、猟銃の男に連れられて中に入った。役場の周りにも、そして中に入ったそばのホールにも、赤いのぼりがいくつも掲げられていたが、その意味は分からなかった。
追い立てられるように、面談室と書かれた部屋に入れられると、外側から鍵をかけられた。部屋の中には机と、パイプ椅子と、ラジオが置かれていた。窓はあるがはめ殺しである。一見クーラーも見当たらず、ただ扇風機が置かれているだけだった。じめじめとして蒸し暑い。これは面談室ではなくむしろ独房ではないのか。
私はパイプ椅子に腰かけた。汗が額を流れる中、数分待った。誰も来なかった。いい加減どうしたらいいのかわからなかったが、そこでラジオの存在に気付いた。ええい、何かの暇つぶしにはなるだろうと、電源を付けた。
「……国道一九五号線は
連絡が取れない? それはおかしいと思って、運よく没収されなかったスマートフォンを見た。いざとなればこれで助けを呼ぼうと思っていた。携帯電話は、圏外だった。
なおも、ラジオのアナウンサーはつづけた。
「新しい情報が入りました。道路状況の確認に向かった地元の消防団によりますと、鷲敷から、
私は直感した。そのしめ縄は勘定縄かんじょうなわや道切りだ。村落や聖域と、外の世界との境目。そこに結界を張るしめ縄だ。
そしていま消防団員は引き返した、といったがおそらく正確には違うだろう。まっすぐ進んだが、いつの間にか引き返してきてしまっていたのだ。ちょうど私が経験したように。
途方もない空想だった。そんなことが、神話時代でもないこの現代において可能なのだろうかといった疑問は二の次だ。可能なのだ。確かに私が経験しているのだ。
そしてそれは誰かが作り出した結界に違いないのだ。中からの脱走者を許さず、外からは相手の侵入を阻む。誰かが、そして何か明確な目的をもって、この事件を起こしている。
その時外から鍵が開けられた。ドアが開く。
中に入ってきたのは、つい一時間ほど前まで一緒にいた顔――浅葱みどりであった。とても申し訳そうな顔をしている。今にも向こうが泣きそうだった。
「あの……」彼女は震えるような声で言った「ごめんなさい、あなたをこんなことに巻き込むつもりはありませんでした。南の道を封鎖するのは、昼前だと聞いていたので。まさか予定が繰り上がっていただなんて……」
私は椅子から立ち上がった。彼女のほうに歩み寄ると、両手で彼女の肩をつかんだ。彼女はびくりとした。
「なあ、教えてくれませんか」私は彼女に、絞り出すように、そしてお願いするように、尋ねた。「一体あの箱は何なんですか。なぜ霧を起こし結界を張って道路を封鎖するんですか。そしてどうして、僕は銃を突き付けられなければならなかったんですか」
「それは……」彼女は縮こまるように答える。
「私が答えよう」鋭い声が聞こえた。彼女の後ろには、先ほどのスーツの女が立っていた。「
「貴様、どうして霧が結界だと分かった?」薫女史は、私に質問を投げかけた。
「今ラジオの放送で、しめ縄が霧のあたりに張られていた、と言っていた。国道にそんなものは普通ない。それは何者かが、結界を張り、侵入者を防ぐためにするものだ」私はみどりの肩においていた手を放した。「そしてそれを張ったのは、外ならぬ貴女たちだ。だから、侵入者だと思って、私を捕まえようとした。違いますか?」
「そこまでわかっているのなら、ますます釈放はできんな」 薫女史は、ふふつ、と笑った。「釈放できないついでに、教えてやろう。そして、こちらにつくなら、全部教える。なにせ我々は人手が足りないからな」
「教えてください。あなた方に協力しましょう」捕らわれたままなのなら、流れに身を任せ、相手に合わせたほうが安全だと思った。そして好奇心が勝った。「一体なぜ、銃で武装して道を封鎖し、結界を張るのですか。あの荷物は何なのですか」
「まず後者の質問から答える。あの箱の中身は今は言うことができないが、剣山からわざわざ運んでこなければならなかったものだ。それが我々の計画に必要不可欠だからだ。そして前者の質問。これは我々が今から、東京の日本国政府と戦争を始めるからだ」
言っている言葉の意味が分からなかった。この女、錯乱しているのかと思った。いかにこの国が正規の軍隊を持っていないとはいえ、二十万の暴力装置の前にはこんな山村などあっという間に蹂躙されてしまうだろう。そしていったいなぜ、日本国政府に戦争を仕掛ける必要があるのか。昔の小説を思い出した。
「この村を日本から独立させるつもりなのですか。どこかの東北の寒村みたいに」
薫女史は、その言葉を鼻で笑った。
「我々は独立など望んではいない。我々はあくまで、日本国の臣民である」
「ではなぜ、政府と戦争を」
「革命だ」彼女はきっぱりと言った。「今ここ丹生谷から革命が起こる。我々は今、日本国を簒奪者どもの手から、本来の主のもとに取り戻すため、聖戦の狼煙を上げるのだ」
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