第2日 8月4日

第4話 朝霧

 割れるような頭の痛みと喉の渇きで目が覚めた。胃もムカムカする。自分がどこにいるのかわからなかった。枕もとを探るとペットボトルの水が落ちてある。それを引き寄せると一気に半分ほど飲む。横になったまま飲んだので少しこぼれて枕もとを濡らす。頭がやっと覚めてきた。昨晩飲みすぎたのだ。

 ゆっくりと体を起こした。足元に、空になった一升瓶が転がっているのが見えた。見回すと、私の寝ていた布団の隣に、もう一つ布団が敷かれている。掛布団はすでにきれいにたたまれている。そこで思い出した。昨晩私は剣山で出会った女性とここまでやってきたのだ。

 そしてその女性は、旅館の浴衣姿で、窓際の広縁に置かれた椅子に腰かけていた。

「ああ、おはようございます」彼女、浅葱みどりさんは言った。

「おはようございます」わたしは枯れた声で答えた。そして立ち上がると窓の方へ向かった「二日酔いがひどい」

「相当飲みましたからね」彼女は相当、にアクセントを置いて言うと、窓の外に視線をやった。私も、彼女と小さなテーブル越しに向かい合った椅子に、腰を下ろした。やっと開いてきた目で、窓の外を見た。

 あたりは明るく、雨は上がり、日が差している。だがはっきりと空は見えない。窓のすぐ下を流れる渓流と、その川向にそびえる山々。それを山の木々から立ち上る霧が覆い隠していた。霧は揺れながら立ち上り、空へと消えていく。消えるそばから、川から山から湯気の如く朝霧は立ち上る。

「今日は天気は良いですが、霧が多そうですね」彼女は言った。

 雨上がりの谷あいである。霧に覆われた山道の運転のことを思ったが、目の前の情景に見とれていた私はそれもどうでもよかった。渓谷より湧き上がる朝霧、泊まらねば味わえまいと思い目をこらす……おっと、また頭痛が襲ってきた。

 目を閉じた私は両手の親指でこめかみを押した。そして彼女に尋ねた。

「浅葱さん、昨日はどれくらい飲みましたか?」

彼女は私の方を向いて、口元に笑みを浮かべた。「そうですね…わたしのことを『みどりちゃん(はぁと)』と呼ぶ程度に」

 ちょっと待て、それはどういう意味だろうか。昨晩何があったのだろうか。何買ったに違いない。そしてなぜ彼女はいま微笑んでいるのだ。

「言ったままの意味です。覚えていないんですか?」

「残念ながら……」

「それは残念」彼女はため息をついて首を振った「肇さん、ほかに何を話したか覚えていますか」

 肇さん、とよばれてびくっとなった。いや、昨晩もそう呼ばれていた気もしたが、若い女性から名前で呼ばれることは慣れない。

「いえ、ほとんど何も……出身地がこの村とか、そういった話ぐらいまでは覚えているんですが。あと日本酒飲み始めたくらいまで」

 はあ、そうですか、と彼女はつぶやいた。いかにも残念そうな顔だった。

 そこまで言われると、いったい何を話したのか気になる。彼女に尋ねてみたが、「とくになにもないですよ」と返されただけだった。

「ときに、肇さん」彼女はすっくと立ちあがった「霧はたぶん午前中は続くと思いますが、雨も上がっています。仲居さんに聞いた話では、南に抜ける道は大丈夫のようです。昨日、こんなところまで付き合わせてしまい、こんなことをいうのはもしかしたら失礼かもしれませんが、早めに出られた方がよいかと」

「早めに、ですか」私はキョトンとして返した。

「ええ、できるだけ早めに、です」

 理由は聞かなかった。

昨日からずっとそうだ。彼女の言動にはすべて疑問詞がつく。意味があって行っている、言っているに違いないが、それがなんであるのかわざわざ聞くのは無粋に思われた。私を見つめる彼女の目が、冗談ではなく本気で物事を語っていることを伝えている。それで十分に思われた。

「そうですか、それはどうも」

 わたしはそうとだけ簡単に言うと、椅子から立ち上がった。まだ頭が痛かったので、まず頭痛薬を飲んだ。そして荷物の片づけを始める。

 あわただしく片づけをしている私を見て、また彼女は笑った。

「肇さん」

「なんですか」私は着替えを詰め込みながら答えた。彼女は言った。

「朝食を食べるくらいの時間の余裕はありますよ」


 旅館の朝食を食べてから、私は宿を後にした。彼女をその荷物を届ける場所まで乗せていこうかと提案したが、迎えが来るのでと固辞された。

 私は霧の中、一人で車を走らせた。

 昨日の分かれ道を今度は二車線の国道の方へと曲がった。霞沸き立つ渓谷を左手にしてのドライブである。いくつかの村落を過ぎるころには霧は晴れていた。そのまま道を南進する。国道一九五号との交差点には、たしかに「一九五号線、阿南あなん方面、高知方面、ともに通行止めあり」との文字が書かれていた。わたしは浅葱みどりさんの助言にしたがって、自分のきた道――つまり国道一九三号――を南下した。

 これもまた昨日と違わぬ酷道であった。一九五号線と別れた後、朱塗りのトラス橋を渡り、素掘りのトンネルを抜けると一車線となる。そのまま道は山の中へ吸い込まれる。峠を越えるのである。

 また霧が出てきた。今度の霧は先ほどよりも濃かった。視界は二〇メートルといったところだろうか。ハンドル操作を少しでも誤れば転落してしまうような道である。道端に上から落ちてきたのか大きな岩が落ちてきており、山側に立てられた落石注意の標識は岩が直撃したのか折れ曲がってひしゃげていた。よくこの道、通行止めにならなかったな。

 私はライトをつけて車を三〇キロほどで走らせる。幸いに対向車は来ない。曲がりくねった坂道を登っていく。

 さて、しばらく道なりに車を走らせていると、下り坂となったことに気づいた。峠を越えたのだろうか、そう思いながら霧の中を進んでいく。

 そのときカーナビの調子が悪いことに気づいた。いったん車を停める。車を示す三角のしるしは、てんで道路と違うところを指していた。この地図通りなら私はいま道もない山の中にいることになるらしい。スマートフォンも起動してみた。圏外であり、GPSの電波も受信できないと表示されていた。

 これは困った。カーナビだけの問題ではないかもしれない。スマホも使えないとなると、これは私の持っている端末だけの問題ではない気がする。

 まあ、しかしなんとかなるだろう。道は一本しかないわけだし、まっすぐ行けば海沿いに出られることも知っている。海沿いの国道にさえ出られれば、道はわかる。わたしは、楽観的にもそう思って車を発進させた。

 しばらく車を走らせる。霧はなおも深いままだ。突如、霧の奥から、道路に転がった岩が飛び出してきて、私はハンドルをきってそれをよけた。そしてひしゃげている道路標識を見た。既視感デジャ・ヴに襲われる。

 あれ、先ほど通ったところでは?

 いや、そんなはずはない。道は一本だけだし、どこかで右左折を繰り返したこともない。きっと気のせいだろう、そう言い聞かせながら道を下っていく。

 やがて霧が晴れた。見たことのある、素掘りのトンネルが姿を現した。カーナビも、表示が復旧していた。私は先ほど通った道を、また戻ってきていた。

 このようなことがあるだろうか。Uターンも、右左折もしていないのに、ただ道なりにまっすぐ進んでいただけなのに、もとの道を引き返す方向に来るとは!

 わたしはまずは地図を見直そうと思って、トンネル手前の路肩に車を停めた。

 再びスマホに手を伸ばしていると、トンネルの中から明かりが漏れてきた。対向車がやってきたのだ。

 それは白いセダンに見えた。つぎに屋根の上にサイレンがついているのがわかった。パトカーだ。

 パトカーは、私の車の横を通り過ぎると、数十メートル後方で停車した。

 ちょうどよかった。私は思った。道路の通行止めの情報を教えてもらおう。そうすれば、どうすれば丹生谷から阿南や徳島に出られるかわかるはずだ。

 私は車を降りた。パトカーの方に歩いていく。すると二人の人影が、パトカーから降りてきた。片方は警官のようだ。

「すいません、道をおしえ……」私は言い終わらないうちに絶句した。そして動けなくなった。みるみる血の気が引いてくるのがわかった。今私の顔は、霧よりも白いだろう。

 警官は銃を構えていた。リボルバー式、おそらくニューナンブM60だったように思う。もう一人の人影――こちらは作業着を着ていた――は猟銃を構えていた。

 私は、両手を上にあげた。自分が何をしたのか、そんなことを考える余裕はなかった。ただ、そうするほかできなかった。なにかを釈明すべきかと思ったが、口は酸欠の金魚のようにぱくぱくするだけで言葉にならない。

 するとパトカーの後部座席が開いた。今度は女性が下りてきた。髪は長い黒で、背丈は私よりも少し高いかもしれない。眼鏡をかけており、スーツに身を包んでいた。年齢は少なくとも私よりは年上だが、若いことには変わりない。

 そして彼女は私の方に詰めてくる。銃を持った二人の男も詰め寄る。猟銃が鼻先に突き付けられ、わたしは失神しそうになるのをこらえていた。彼女は私の前で立ち止まると、私をその二つの瞳でじっと睨んだ。

「貴様はどこから来た? どこのスパイだ?」彼女は凛とした声でそう言った。

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