第3話 温泉
温泉宿は名前を「しがきの温泉」といった。地図によればすぐそばにしがきの丸という山があり、それから取られたものだろう。駐車場は広く、車はまばらに停まっていた。旅館の建物自体は川に面して建つコンクリート造り二階建ての比較的新しい建物である。規模からして、部屋数も少なそうである。外見だけなら、道の駅のようにも見える。駐車場が広いのは、日帰りで温泉に入る人が多いからなのだろうか。
雨が強いので、私は車をできるだけ玄関に近いところに停めた。浅葱さんは白衣と菅笠を身に着けると、車を降りて、玄関の方へと走っていった。傘を取り出そうと思ったが、それよりも駆けだす方が早いと思ったのだろう。
数分後、彼女は従業員を連れてもどってきた。二人とも、申し訳なさそうな顔をしていた。
「本当に申し訳ないのですが、空き部屋はないみたいです」彼女は言った。
「それは残念」私は言った。若干予想していたことであった。なら、このまま道を西に進んで、二時間ほどかけて海沿いに出るしかない「なら、僕はこれでおいとましましょうか。阿南あたりで宿をとりますよ」
「それがですね……」彼女はとても言いにくそうに言った「この土砂降りの大雨で、那賀川の下流に向かう道の一部が、通行止めになっているようなんです」
「土砂崩れの危険性のため、一九五号線の一部が通行止めです」従業員さんが言った。一九五号線は、徳島県南部の阿南市と高知市を、丹生谷地域の山の中を突っ切って結んだ山道である。そしてそれがここから海沿いの都市部へ出る最短路であった。
はてさて、これは本格的に困った。泊まるところはない。阿南へも抜けれない。となると、いま来た険路を引き返して徳島市内に向かうかであるが、これもぞっとしない。かつての土砂崩れによる通行止めは、いま通った道の方が、一九五号線よりはるかに多いのだ。
私が考えあぐねていると、彼女はやや恥ずかしそうに切り出した。
「でも、ひとつ幸いなことがあるんです」
「幸いなこと?」
「私の泊まる部屋、本当なら二人部屋なんですね。もし水澤さんがよろしいのであれば、相部屋でお泊りになるのはどうですか?」
ナイスアイディア、ともちろんいくわけがない。
つい数時間前に出会ったばかりの女性と二人で同じ部屋に泊まる。なるほどとても魅力的かもしれない。しかし理性的に考えてみよう。何も起こらない、と考える方が不自然ではないだろうか?
幸いにして私は理性的な生き物である。脳内の天使は「他人の厚意は受けるべき」と語り、悪魔は「チャンス!」と嘯くが、決定するのは私個人の理性である。理性の祭典は、天使も悪魔も火にくべる。不動明王が背負う焔の如く、理性が迷いを打ち砕く。後ろ髪をひかれる思いで煩悩を切り捨てる。
「いや、それはさすがに悪いですよ」わたしはできるだけ平静さを装って答えた「今きた道を引き返せば、徳島市内に向かえます」
「あの道も先ほど通行止めになりました」彼女は言った「峠のトンネルのあたりです」
前言撤回。やはり理性に分が悪い。いや、危ない道を通るよりも、こちらの方がかえって理性的かもしれない。
「嫌でしたら、もちろん、無理に相部屋に、とは言いませんけれど」
「嫌だなんてとんでもない!」私は返した。やや声が上ずっていた「その、それなら、よろしければ、ご一緒してもいいですか?」
「それならよかったです」彼女は微笑んだ。「すいませんが、よろしくお願いします」
こうして出会ったばかりの女性と「一夜を過ごす」ことになった私であった。
部屋は二階にあり、内装は普通の旅館であった。まずは部屋に荷物を運び入れた。彼女の例の荷物も、部屋に運び入れた。受け渡しはしないのかと聞いたが、連絡したところ、雨が強いので明日朝受け取りにやってくるとのことであった。
荷物をいったん整理すると、登山でかいた汗が不快になってきた。浅葱さんも同意見であり、食事前に温泉に入ることにした。
温泉は内湯と露天風呂があった。混浴はなかった。露天風呂は雨のため閉鎖されているので、内湯だけしか入れなかった。源泉と薬草風呂がある。ほかには誰も風呂に入っておらず、私の独り占め状態であった。かけ流しの源泉につかりながら、果たして今晩は何が起こるのか、そして彼女の目的は、彼女の荷物はなんであるのか、考えを廻らした。もちろん答えは出ず、おそらくあろうことがない期待だけを膨らます結果に終わった。
風呂から上がると、旅館の浴衣に着替えた。男湯の暖簾をくぐって外に出ると、先に上がった浅葱さんが待っていた。彼女も浴衣に着替えていた。乾ききっていない黒い髪が色っぽい。
食事は一階にある食堂で食べた。ビールで乾杯をした。疲れと緊張からか、水分とアルコールが身体にすばやく吸収されていくのがわかった。ここの名物というボタン鍋をつつきながら、車内の話の続きをした。
「ここのご主人が捕ってこられたものだそうですよ。この猪肉は」肉とスープを口に含む「懐かしいです、この感じ。祖父も昔は猪を狩っていたので」
「おじいさんが猟友会かなにかにおられたんですか」
「そうです。もっとも、遍路を始めてからは殺生をしなくなりましたが」
「懐かしいといいましたけれど、浅葱さん、生まれはどちらなんですか?」
「この村です」彼女は言った。
私はお椀を置いて、尋ねた。
「なら、どうして実家に泊まらずに」
「もうずっと前に引っ越したんですよ、県外に。それ以来村には戻ってはいません」
彼女は十歳のころ東京へ引っ越したらしい。それ以来遍路で何度も徳島を訪れたが、故郷には寄らなかった。阿南市から見て丹生谷の入り口にほど近い二十一番太龍寺の山頂から故郷を仰ぎ見、それに頭を深々と下げて、また遍路道を南下したという。
戻らない理由、いや戻れなかった理由、そして今彼女が戻ってきた理由。遍路を回り続けた理由。そしてあの細長い木箱との関係。もしかしたらすべてつながっているのではないだろうか。
私がその疑問を彼女にぶつけてよいものなのかどうか、迷っていると、今度は彼女の方が聞いてきた。
「ところで、水澤さんのご出身はどちらですか?」
「奈良県です」私は答えた「いまは大阪の大学に通っていますが」
そして、休みになるとこうやって車で一人旅に出ていることを付け加えた。
「一人旅ですか。いいですね。私も一人で遍路を回っていますので」
一人が楽です、と答えた。そして一人で行った旅先の話をした。立山や白山の巡礼登山道、伊勢神宮や熊野三山の旅、旧中山道にそって高速を走らせ、諏訪の神事を見物した話。
「巡拝が多いですね」彼女は言った。確かにそのとおりだった。
「まあ一人で行くと心細いこともありますよ、たしかに。特に熊野や、それから四国を回った時の足摺岬は。海岸に沿って下道を延々と走る。飛んで行けたら早いのに、と思たりもするわけです」
「
「なるほど、ときに西国も巡られたんですよね。一番へはどうやって行きました?」
「伊勢路です。神宮に詣でた後、そのまま海岸線に沿って」
「それもしんどくないですか」
「四国を巡って鍛えられたあとですし、それに加護があると信じればこそ」
なるほどね。広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず、というわけか。
さて、読者諸氏は話がそれはじめていると思われるかもしれないが、見落としてはならないのはここで二人がすでに酒をある程度飲んでいたということである。疲れもあってか、酔いが回るのは相当早かったように思う。酔っぱらいの会話とはえてして脱線を繰り返すものであるから、私と彼女の話はこのあともずっとこんな感じであったのである。その仔細をこの紙面で再現するのは私にとっても読者にとっても苦痛に過ぎると思われるので、ここは割愛する。
閑話休題。ともかく私と彼女はボタン鍋を食べ終わるころには相当に出来上がっていたのである。まだ時間はそんなに遅くはなく、ぎりぎりで土産物屋の売店が開いていた。そこで地酒の一升瓶とアメゴの塩焼きを発見した私たちは嬉々としてそれを購入した。部屋に帰るともちろん飲むわけである。
「まあまあまあ」彼女は私のコップにあふれんばかりに(この地域の方言では、まけまけいっぱい、というらしい。後で彼女から聞いた)酒を注いだ。私も彼女のコップに注ぐ「浅葱さんの分もどうぞ」
「浅葱さんじゃなくてみどりでいいですよぅ」彼女は酔いが回ってきているのか、やや舌足らずに言った。
「じゃあみどりさん、乾杯!」私は杯をかかげた。彼女もそれに倣った。
私は二口ほど飲んだ。辛口だが飲みやすいと思った。
コップを置くと、彼女はまた私のコップに「まけまけいっぱい」に注いできた。すでに半分ほどに減った自分のコップにも注ぐ。
「……みどりさん?」
「肇さん、カンパイ、とはどう書きますか?」
「え」いきなりの予想外の質問にキョトンとした「乾くに、杯、ですけど」
「そう、乾杯とは、杯を乾かすこと。水が残っていてはいけません。それではもう一度、乾杯!」
ちょっと待て、これは予想外にやばいぞ、そう思った瞬間、彼女は酒をあおっていた。つられて、私もそうせざるを得なかった。彼女が少し早めに飲み終わった。すると彼女は自分が使っていた杯を私に差し出してきた。
「返杯です!」
私はそのコップを受け取った。すかさず彼女は酒を注いできた。
彼女が何をしようとしているのか知っていた。恐らく遍路途中に、高知で覚えてしまったのだろう。そして私はこの酒を即座に飲み干さなくてはならない。間接キスになるのだろうか、などと考える余裕もなく、わたしはそれを飲み干し、コップを彼女につき返した。「返杯!」
そのあとはその繰り返しだった。いったい何度そのやり取りをしたのか、まったく記憶がない。万に一つ、何やよからぬこと、理性の敗北があったのかどうか、それすら全く分からない。酒の滴は心に降り注ぎ大河となってなにもかも洗い流す。すべては酒と、丹生谷の渓流と、そして雨の夜の闇の中に消えていったのである。
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