9-2 変容する世界2
「アキ⁉」
不穏なものをその口調に感じて、反射的に呼びかけた瞬間。
仁尾の視界は一瞬にして、眩い金色の閃光に焼き払われていた。
咄嗟に閉じた目蓋が網膜一面に、薄い皮膚越しの鮮烈な血の色をぶちまける。
しかし、本能的な防御も、結局は間に合うものではなかったのだろう。眼球を守るはずの赤い闇が、それでも強烈なハレーションとなって視神経を貫通し、仁尾の脳へと叩きつけられたからだ。
「ああ。悪ィ、悪ィ」
楽しそうな声が、軽い謝罪を脳内に響かせる。
「久しぶりだからよ。どうやら出力を誤っちまったらしいな」
言葉と共に視界を埋め尽くした赤光が、ややその輝度を下げる。それでも閉ざしたままの視界が闇に取って代わられないということは、未だ尋常でない光が世界に満ち溢れているという事実にほかならないだろう。
それでも、仁尾は慎重に、そっと目蓋を開いた。
反射的に目の前に翳していた掌───それすら、全く役に立たなかったということだ───を下ろす。
世界が、淡い金色の光で満たされていた。
夕陽が、大気を、あらゆる事物を、生命を、その色に染め上げるように。
夜の闇が、その深い胎内に世界の全てを呑み込むように。
砂塵に帰した回廊も、植栽ごと消え去って砂礫と化し渦巻く大地も、地響きと共にひび割れ砕けていくばかりの遠方の宮殿も、それを蹂躙し続ける炎すらもが、金色の光越しに仁尾の視界に映る。
それも、おそらくは今もその輝度は最初に彼の目を灼いたそのままの、直視することすら叶わぬ眩さのままであるはずだ。
今、仁尾が世界を視野に入れることが出来ているのは、光が弱められたからではなく、アキが彼の視神経にこそ手を加えたからだと、確信に限りなく近い予感が仁尾の眼差しを険しくさせていた。
「アキ?」
収まる気配のない苦痛によるものとは全く別の意味で、仁尾の眉間に深い皺が刻まれる。
荒い息遣いの下での低い端的な問いかけは、詰問のかたちを取りながらも───すでに咎める
「いいじゃねえか」
仁尾が事態の全容をすでに悟っていることなど、一心同体といっても過言ではない
「どうせテメエ、あのガキを陥れた連中の誰ひとりとして見逃すつもりはねえんだろう? テメエの中じゃ、皆殺しは確定してんだろうが?」
「………」
「テメエの事だ。撃ち漏らしは、そもそも有り得ねえだろうしよ。しかもお誂え向きに、ここは世間様とは隔離された絶海の孤島だ。遠慮もいらねえ。となりゃ、始末する方法にちょいとばかり俺が手を出したところで問題はねえだろう?」
「……何をする気だ?」
確かに一度ならず、何十年もの間モスキートを利用して自分達の───国のため、などというお為ごかしを、今さら仁尾は斟酌するつもりはない───欲望を連綿と満たし続けてきた人々。罪もない数多の子供達を、そのための犠牲としてきた連中だ。
容赦するつもりなど、もとより無い。
それに、モスキートというこの世界に反する存在に自ら望んで関わってきた者達を、そのままにしておくことは出来なかった。
しかし、彼らは己がカテゴリーを熟知している。何が許され、何が許されぬことなのか、本能的に了解しているのだ。
少なくとも、モスキートを利用してこの世界そのものを変質させるような真似だけは、意識的にであれ無意識的にであれ、忌避しようとする傾向が確かにあったのだ。
だが
意図せぬまま、世界そのものを壊す行為に、欲望の赴くまま知らぬうちに手を伸ばす可能性は、コルドゥーンのそれと比べるまでもなく、圧倒的に高かったのである。
モスキートは、世界の理の範疇外にある存在だ。
しかも、それは常に変化を指向する───。
モスキートの力を手に入れて、あらゆる欲望を満たそうと望む人間達が、その実、モスキートに利用されているのが現実だ。
それは、一歩間違えれば世界を根本から破壊する確率の高い、危険な綱渡りにほかならない。
そんな不安要素である───自らそれを望むような───存在を排除することに、躊躇いはなかった。
───自分自身を棚上げしている誹りを、己自身にどれほど突き付けることになろうとも。
「やってみたい事は、いくらでもあるぜ」
にんまり、と笑みを浮かべてでもいるかのような口調で、アキは言った。
「テメエとて、ひとりも逃すつもりがねえ以上、実質、利害は一致してんだろうが?
文句があんなら、一応聞いてやるぜ?」
激痛に喘ぎ続けて悲鳴をあげている心臓を、強く握った拳で押さえながら、仁尾は唇を引き歪めた。
「だから、邪魔をするなという事か……?」
視界一面を、金色の濁流が渦巻いている。
仁尾の制御下に治めた……仁尾の意志が介入し、その分穏やかに加減された燐の光などではない。
ここまで、彼らの行く手を遮ってきた建造物、あるいは彼らが通過した後の世界の秩序、その悉くが跡形もなく分解されてきた。それは、仁尾の内から僅かにアキが身を乗り出したからだ。
そこに、アキの積極的な意向はない。
それはあくまで、仁尾の行動の手助けの意図から外れたものではなかった。
ただアキは、仁尾という───自ら望んでその内に籠ったとはいえ───この世界に属する
この世界に相反するモスキートという在りようは、それだけで整然とバランスを保っていた
だが、これは。
眩い金色の光が、あらゆるものを灼き尽くす勢いで、見渡す限り渦巻いている。
仁尾の目から見れば、そうとしか表現出来ない現象は、しかし、もしも第三者としてこの場に居合わせる者がいたならば、全く違った様相として認識されるだろう。
つまり。
眩く強烈に輝度をあげていく金色の光が、仁尾というひとりの人間の内から噴き出し、四方へと津波のように押し寄せていくその様を、目撃することになるはずだった。
それは、仁尾というヒトガタの世界の亀裂から、この世界のものではない、この世界とは相容れない異質な力が、押し寄せ溢れ出している、と言い換えることの出来る現象だったのだ。
モスキートに踊らされる人間が、無自覚に踏み出す綱渡り。これが、そんな段階の事態どころではないことは明らかだ。
アキ───この世界に
そのうえで、アキがわざわざそれを仁尾に言明しているのは、相棒に対する彼なりの仁義なのか。
あるいは、現状に対する仁尾の反応を楽しもうという意図があるのか。
いずれにせよ。
足を止め、荒い息をつきながら、仁尾は一瞬目を閉じた。
「……文句などない、な」
再び開いた灰色の瞳は、あちらこちらで今も爆破行動───エレの傀儡による攻撃に、爆発炎上を続けている広大な宮殿を見据えていた。
「おまえの言う通りだ。元々、他者の目を近寄せない造りの要塞だ。好きにすればいい」
「へえ?」
「この島だけならな。おまえが思いっきりやったところで、何の問題もない。
……だが、ここでだけだ。アキ。
それ以上手を伸ばすというのなら……」
不可抗力とはいえ、アキと手を組むことを決めたのは、仁尾自身だ。それが、彼という存在がこの世界と
それは、二つの世界の接点となり、最もこの世で危険な歪みとなることの自覚を意味していた。
ほんの僅かな油断で、どれほどの惨劇を己が引き起こすことになるか……あの時に嫌というほど思い知らされているのだ。
ましてや己に何かあった場合、今度はエレがその役割を担わされる可能性があるというのなら。
───
「ほんっとに、テメエほど面白い馬鹿はいねえよなあ。ニイオ」
しかしその笑い声には、悪意や軽蔑といった負の感情は全く無かった。
もっとも、仁尾はアキにそんなものがあるとも思ってはいないが。
「テメエに、この世界に対して一体何の責任があるってんだ?
テメエひとりが全て引っ被って、貧乏くじを引く必然なんざ、ありゃしねえだろうがよ。全く、あんまりにも馬鹿過ぎちまって、いつまで経っても飽きが来やしねえ」
「………」
「ああ。わかった、わかった。まだ、テメエは捨てるにゃ勿体ねえわ。
ここで思う存分楽しませてもらえりゃ、俺はそれで構わねえぜ?」
「……そうか」
少なくとも、アキは自らの言葉を違えたりはしないだろう。
己が好奇心を優先し……その結果として仁尾の『自爆』に巻き込まれたとしても、実質、アキが被害を被ることは、恐らくない。
ただし、そうして仁尾を潰して共生を断ち切ったとしたら、それをエレに悟らせずにいられるとも、また思えなかった。
どんな方法で欺こうとしたところで───ある意味、そのアキを通じて仁尾と繋がっている少年だ。誰よりも仁尾を守ろうと心を砕いている少年が、彼を裏切った悪霊を受け入れることはないだろう。
それを、仁尾もアキも知っている。
一時の楽しみのために仁尾を切り捨ててしまえば、これから先の楽しみをまず間違いなく、完全に失うとわかっていて、狡猾な悪霊がその悪手を取ることはない。
モスキートと共生出来る人間がそう簡単に見つかるようなら、この四十七年に亘る膨大な犠牲者など、始めから存在するはずがないのだから。
「さあて。それじゃあ、好きにやらせてもらおうか。
この国の王の島だ。敬意を表して、縁のありそうな
楽しげな口調で嘯く、その言葉が終わった瞬間。
ざっ、と無数の砂塵が擦れ合う響きが身の回りから湧き上がった。
激しく渦巻く金色の世界に、一瞬にして足元から幾筋もの黒い濁流が混ざり合い、呑み込まれていく。
それが、嘗ての姿から微細に分解され、彼の足元でモスキートが滲み出させる力の余波にざわざわと蠢いていた物質の成れの果てであることは、仁尾にもわかっていた。
モスキートの力によって破砕され、この世界の基盤から逸脱してしまった───ここ在ってはならない程に変質してしまった砂礫。いずれ、この世界の理の
つまり……どれほど微細であっても
マーブル状に渦巻いた光と闇の帯が、一瞬にして溶解する。
すぐ傍らで、物凄い勢いで編まれていく……収束していく力の姿を、息を荒げながら仁尾は横目に見ることになった。
それは───あるいは、炎に似た、何かに見えた。
あらゆる存在は実体を持つことで、この世界に固定されている。それは、時に固体であり、時に液体であり、時に気体という三形態のいずれかを取ることによって、存在が限定されることを意味していた。
しかし、もちろんその範疇に含まれない
ただし、それは物質ではなく、あくまで現象、あるいはその結果としての存在だ。
つまりは光であったり、熱であったり、匂いであったり……そして炎が、それに該当するだろう。
激しく反応する酸化反応という現象であり、絶え間なく揺らめき常に変化し続けていながら、炎は、ある程度の
同じ現象である光や熱とは違い、揺らぎながらも彼我の境界が分かたれて見える、そこに在ることが判別出来る現象なのだ。
今、仁尾の傍らで形を成していく何かもまた、そこに在ることが認識出来た。おそらく、すでに普通の人々の目にさえ見ることが出来るだろう。
しかしそれでいながら、それはこの世界には固定されない、存在しているとは言い難い何かであることが明らかだったのだ。
それは───みるみるうちに虚空から現れた。
巨大な鋭い長い顔が、前屈みになりがちな仁尾の頭上すれすれを横切る。
鹿のように枝分かれした太い角の下で、牛のように長い耳が靡く。カッ、と身開かれた目は錬成された力の中でも最も強力な箇所なのか、眩いまでに強い光を放っていた。
鋭い牙の並ぶ巨大な口辺には長い髯をたくわえ、鬣のような剛い毛の下で幾重にも重なる鱗が甲冑のように音をたてる。長い蛇のような体躯はしなやかにうねり、四本の足には硬く鋭い爪が光っていた。
龍だ。
絵や銅像でしか見ることの出来ない、空想上の幻獣の……それも、強靭な顎から角の生えた頭部まで三メートルは高さがあろうかと思う程の巨大な顔が、仁尾の傍らを追い越していったのだ。
当然のことながら、その頭部に比例するような長い巨大な体躯がそれに続いたのである。
実体は、おそらく、無い。
モスキートの力と、嘗てはこの世界の一部であった物質の合成から成る、炎にも似た何かだ。
炎のように……この世界を蹂躙出来る、何かだ。
虚空から這い出してきた龍は、数百メートルある中庭の上空を、一瞬にして横断した。否、龍本体が、中庭などよりもよほど長いのだ。
仁尾がその尾を見送るよりも早く、龍は宮殿を回り込み、その長大な肢体で巻き込んでいた。
爆発し炎を噴きあげ続けている巨大な宮殿を巻き付くように囲い込んだ龍が、大きく口を開く。
咆哮が、緑の木々ごと大地を抉り飛ばした。
相棒に守られている仁尾の前で、土砂が吹き飛び、降り注ぐ。大地が砕け、吹き飛んだ岩石や土砂が叩きつけられる音が耳を聾する。
しかし、咆哮する龍の、その声は聞こえなかった。
その波長がおそらく、人間の聴覚では耐えられるようなものではないからだろう。それは金色の光の奔流と同じように、否、同じもので出来ているはずだからだ。
───だから、アキはそれをわざわざ遮断したのだ。仁尾の聴覚からだけではなく、おそらくは世界そのものから。
彼にとって、お愉しみはこれからなのだ。そんなもので、簡単にそれを終わらせるつもりがないのは、明白だった。
「さあて、始めようか!」
嬉々として、悪霊が惨劇の開幕を宣言した。
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