5-1 追撃1

 じり、じり、と息を殺し音をさせないように、ジェイは廊下で足を滑らせる。そのスピードは、まさに亀のように遅々としたものだった。

 何よりも、眠っている異邦人達の目を覚まさせないことが肝要なのだ。

 夜明け前のすっかり闇に呑まれた廊下に、障害物が全くないことが、ジェイにとっての僥倖だった。


 腕の中で、サミーの小さな寝息が聞こえる。

 扉が開かれたままの彼らの寝室からも、よく似た穏やかな気配を感じるのは、気のせいではない、と思いたい。

 静かに眠っているであろう彼らを包むその空気を波立たせないよう、注意の上に注意を重ねて、じりじりとジェイは廊下を進んでいく。

 ちょうど昨日の今頃も、全く同じように物音を殺し、寝室にいる母を起こさないように家を抜け出したが、感じるプレッシャーは比べものにならなかった。


「明日、彼がサミーを迎えに来るから」

 と、母が───今なら、わざわざあの男もまた追手であると、彼女が暗に示してくれたのだと、ジェイにもわかっている───言っていた義父は、この数日、家に帰っては来なかった。

 ニーオが言っていた、観測されたという『サクリファイスの死亡』に、あの男も何らかの役割を果たしていたのだろう。

 だから家を出る際にジェイが気を付けたのは、二階で眠る母を起こさずに抜け出すことだけで済んだのだ。


 だが今度は、すぐ傍の、扉を開け放したままの部屋で眠っているニーオやエレを出し抜かなければならないのだ。

 微かな物音でさえ、彼らがどんな反応を示すか予測がつかないだけに、ジェイは慎重に動かずにはいられなかった。


 彼らが目を覚ましたら───あのふたりが、自分達が逃げ出そうとしていると気が付いたら、どうなるだろう。

 説得しようとするだろうか。

 あるいは───、自分達を拘束しようとするだろうか。


 縮みあがりそうな心臓に、息苦しくなって、密かにジェイは深く息を吸い込む。

 じり、と足を床の上に滑らせる。

 ようやく玄関に辿り着くと、ゆっくり、ゆっくりと鍵を回す。金属同士がぶつかり合って立てる音が、小さく、間延びしながら空気を揺らす。


 そして、そっとジェイは鉄の扉を押し開けた。

 するり、と身を滑らせる。

 ゆっくり、ゆっくりと扉を押し戻す。

 小さな金属音が手元に響いて、ようやくジェイは息を吐いた。


 そして、身を翻す。

 夜明け前の静かな、未だ熱気を孕まない穏やかな空気に晒された階段を、眠るサミーを抱えたままジェイは一気に駆け降りた。

 建物の外へと飛び出す。


 振り返ると、空調に頼っていることを如実に表すように、アパートメントのどの部屋も窓を開けているところはない。最上階の、彼らが眠っているであろう部屋の窓も暗く闇に沈んだまま、動く者の気配はなかった。

 それだけ確かめると、ジェイは踵を返した。今は、一刻も早くこの場所から遠ざかりたかったのだ。


 あのアパートメントに来るために利用した地下鉄への方向は、覚えている。

 しかしジェイは、一番近い駅に向かうつもりはなかった。

 始発には、まだずいぶんと時間がある。それまでの時間を、あのアパートメントに近い場所で待つ気にはなれなかったのだ。

 時間まで、出来る限り遠い駅へと、ジェイは歩くつもりだった。

 それから先は……。


 温かいサミーのぬくもりを抱きしめながら、ジェイは奥歯を噛みしめた。

 何とかして、トゥームセラを出なければならない。

 結局、ジェイに考え付くことが出来たのは、それだけだった。


 そもそも、とにかく国境を越えること。それだけを思いつめて、ジェイは家を飛び出したのだ。

 トゥームセラ国外へ逃げ延びれば、何の変哲もない子供ふたりだ。異国の人々の中に紛れ込むことも出来るだろう。

 力の及び難い国外の、どことも知れぬ場所からサミーを探し出して連れ戻す手間や時間を取るよりも、新たな『セオドア王子』を国はまず用意するのではないか、と利己的な願望を抱いて、ジェイは母の保護を振り切ったのだ。


 いつまでだろうと、どこまでだろうと、逃げ延びてやる、と。


 けれど。

 ニーオやエレが語った話が本当だとしたら───突拍子もないそれが、おそらくは事実だろうと、心のどこかでジェイは確信してしまっていたが───それは意味のないことになるだろう。たとえ国境を越えても追手が諦めることはない。


 もとより国境を越えたからといって、何の伝手もない子供ふたりだ。逃げ切れるものではないと……本当はわかっている。

 それでも、だからといって逃げずにいられるものではなかった。

 あのままでは、サミーが生贄にされると、弟が殺されてしまうと───その時はそう思っていたのだ───矢も楯もたまらず、万に一つの可能性に賭けて逃げ出さずにはいられなかったのだ。


 今も───同じだ。

 おそらく、あのふたりと共にいるのが、ジェイとサミーが逃げ延びる最も確実な選択だったのだろう。

 それでも一度芽吹いてしまった不信の兆しは、どうしてもジェイに、その選択が過ちであると喚きたてるのだ。信じきれないその道を選ぶ勇気は、ジェイにはない。

 かと言って、右も左もわからぬまま闇雲に歩く今の自分に圧し掛かる不安もまた、振り払えるものではなかった。

 心の奥底に押し込めたその不安が、じわじわと滲み出てくるのを、必死にジェイは気付かないふりをする。


 あらゆる所で、小さく弾ける波紋のように幾重にも波となった微かなモーター音が、夜の大気を静かにさざめかせている。トゥームセラでは人々の生活を象徴するエアコンの、その唸りの外に、今、自分達はいる。

 道を、敷地を、街という人々の暮らしの外郭を照らす灯りだけを頼りに、夜の大気を掻き分けて行く自分達には、もはや身を守る何物もないのだと、今さらな認識が忍び寄ってきて、ジェイは身を震わせずにはいられなかった。


 己の臆病さが、もしかしたら自分と弟とを危険に晒す道ばかりを選ばせてしまうのだろうか───。


 考えたくなくとも、自身を責めるように浮かびあがってくる想念を、首を振って振り払う。


 街灯の光だけが闇を払う住宅街を、サミーを抱いたジェイは、まるで追われるように足早に歩き続けた。

 高層住宅と中低層住宅とが区画ごとに整然と、けれど互いに隣り合うように入り混じってひとつの町の形を形作っている地区は、人の気配が無いためか、どこまでもどこまでも続いているかのような奇妙な錯覚を起こさせる。

 深夜にひっそりと佇む無機質で巨大な影は、その内に寝静まった人々を呑み込んで、沈黙に限りなく近い唸りを響かせている。

 スニーカーがアスファルトを踏む音だけが、明確なリズムを刻んで耳朶を震わせていた。


 ふと、その静寂に、むずかるサミーの声が小さく混ざり込む。

「んう……?」

 抱き上げられて歩く振動に、目が覚めたのだろう。

 ぼんやりと開いた瞳が、二、三度瞬く。不思議そうに見上げてくるそれを、どこか疚しいような気持ちでジェイは見返した。


 ぱちり、とサミーの丸い瞳が身開かれた。

 きょとん、とした後、ふいに自分達が屋外にいることに気付いたらしく、きょろきょろと首を巡らす。


 そして。


 サミーが、大きく目を見開いたのである。

「───め! ジェー!」

 突然、幼な子はジェイを揺さぶるように───小さくて軽いサミー自身こそが大きく揺れたが───腕を揺らした。

 必死に叫ぶ弟を、ジェイは愕然と見下ろした。

「めっ、め! ジェ!」

 身を捩って、サミーは後ろを指差した。

「イーオ! エエ! めっ!」

 戻れ、と。小さな弟は必死に訴えている。

 滅多に大きな声を張り上げないサミーが、もどかし気に腕の中で暴れるのに、ジェイは立ち竦んだ。


 心の奥底に押し込めた不安が、一気に噴き上がる。

 衝動のままに飛び出してしまったが、ニーオ達の話からすると、追手の目的は自分だけなのだ。サミーだけは彼らの元に置いていった方が、少なくともこの子だけでも助かるのではないか───。


「ジェ! めっ!」

 脳裏を過ったそんな思いを察したわけではないだろうに、サミーが必死に首を振って、ジェイに抱きつく。


 突然、その小さな体が、ひくり、と強張った。

 それを腕に感じ取ったジェイもまた、一拍遅れて、はっと顔をあげる。


 街灯の白い光が、車道の向こうに聳え立つ高層住宅の下部を照らし出している。 その陰からゆっくりと、けれど押し寄せるように次々と人影が姿を現していた。

 咄嗟に巡らせた視線が、車道の向こうに、こちらへと走ってくる複数の黒塗りのセダンを捉える。

 静寂を、幾つものブレーキ音が切り裂いた。


 十字路に踏み込んでいたふたりの子供を取り囲むように、前方、そして左右の車線を、たちまち黒い車体が塞いでいく。

 その後で男達の包囲の壁が、着々と出来上がっていく。


 見なくても

 金色の徽章をその胸に掲げた男達だ。国の、『セオドア王子の呪い』を、継承している男達だ。


 竦みあがったジェイの耳朶に、最も聞きたくなかった声が夜風を裂いて放たれた。


「───さあ。ジェシカ」


 無言のままセダン越しにこちらを見据える男達の中から、ひとりの瘦身の男が踏み出してくる。

 目立つ容貌ではない。特異なところはない。けれど───どこか奇妙に冷たい気配を纏う男だった。

 長年の、父の友人だった。少なくとも、母はそう認識していたはずだ。


 二年前。

 交通事故で父が亡くなった直後から、友人として彼の代わりに貴方がたの手助けをしたいのだ、とあらゆる援助の手を差し伸べてくれた男だった。

 生まれたばかりの乳児を抱えて、全く自由の利かない母と。中学生になったばかりの、公的な手続きどころか、生活のために何をすればいいのかさえ皆目わからなかったジェイにとって、その救いの手はまさに天からの助けのようですらあったのだ。


 感謝していた。

 信頼していた。

 そして───気付いた時には、いつの間にか自分達一家は、男にのである。


 あの頃、気付くべきだったのだ。

 決して疎遠ではなかった親族が、父の死後、ぱたりとまるで息を潜めるように、自分達との親交を断ったことに。


 今なら、わかる。

 おそらく権力を笠に着て、男は彼らに手を回していたのだ。


 ……あるいは父の死にさえも、関与しているのかもしれない。

『セオドア王子の呪い』の犠牲者候補を、ジェイを、その手の内に収めるために。


 水面下で工作を続けながら、平然と自分達三人と生活を共にしていた男。

 一度、家庭内にその地位を築いた途端、冷淡な程に素っ気なく───早朝、家を出たら、深夜遅くまで家に帰ることはまずなかった───まるで義務だからと言わんばかりの態度で自分達に接していた男。

 虐待こそしなかったものの、感情のない眼差しを母と弟に向けていた男。

 ───ジェイの身に傷がつくことや、異性との関わりに関してだけに、奇妙にこだわりを見せた男。


 昨日まで義父と呼んでいた男が、無表情に宣告の言葉を口にした。

「帰るんだ」


 冷たい声に身を強張らせたジェイの耳に、周囲から、幾つもの小さな金属音が届いた。

 黒い車体の壁の向こうから、物も言わず、ぬっと十数人の男が踏み出してくる。

 その手には撃鉄を上げた拳銃が握られていた。


 その銃口が一斉に、こちらへと上げられる。


「───!」

 息を呑んだジェイは、しかし次の瞬間、予想外の展開にさらに瞠目することになった。


 目を見開いた義父が、驚いたように男達を振り返ったのだ。

 セダンの後で壁を築いている男達がざわり、と騒めき、浮足立つように慌てて得物を抜くのが見えた。


 味方であるはずの義父や後衛に控える男達の動揺など気にも止めず、銃を構えた男達は、無表情にジェイに銃口を向けながら歩を進めてくる。


「止めろ! 何を考えている! それは大事なだぞ!!」

 狼狽えたように、己も懐から拳銃を取り出した義父が、ジェイに歩み寄る男達に叫ぶ。

「止まれ!」


 銃声が、夜の大気を切り裂いた。


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