4-3 疑惑3
じりじりと、壁に身を擦り付けるように、後ろへと下がっていく。
薄く開いたままだった寝室の扉を、そっと擦り抜け、静かに扉を閉める。
そして、淡い常夜灯の光の下で、半ば呆然とジェイは立ち尽くした。
モスキートに食わせる?
融合に成功?
まるで部屋の中にその答えを探すかのように、落ち着きなく視線が泳ぐ。見慣れない室内を駆けまわるそれは、やがてよく見知った影を捉えて、ゆっくりと動きを止めた。
短く切った金髪に縁取られた白い肌にはそばかすが浮かび、やや吊り上がった茶色の瞳は弟の無垢なそれよりも、強情そうな光を
どこか頑なな、『可愛げのない』子供が、こちらをまっすぐに見つめていた。
もちろんジェイ自身には、見慣れた容姿だ。
だがニーオとエレにとっては、通りすがりの人間に限りなく近い───所詮は他人でしかない子供が、鏡の向こうからこちらへと視線を投げていたのである。
そうだ。他人なのだ。
どんなにいい人でも。どんなに優しい人でも。
その親切が偽りのないものだったとしても───所詮は、他人なのだ。
本当に大切な人がいるのならば尚更、その優先すべき順位から弾かれるのは当たり前のことだった。
エレにとってニーオが、自分達よりも大切なのは当たり前のことなのだ。彼よりも自分達を優先する謂れなど、エレにはない。
リビングに、ニーオとエレ以外の人の気配はなかった。それに、あの声は間違いなく───まるで人が違ったようなものでも───ニーオのものだった。
───やっぱり、彼らは味方などではなかったんだ。
ジェイが彼らを信じきれなかったのは、彼らが他人だからなのかもしれない。
他人の犠牲の上に繁栄を築いたトゥームセラの暗黙の了解を、そうと意識することなく感じながら育ってきたからこその認識が、己の内で前提となっていることに気付かぬまま、ジェイはぎゅっと瞼を閉じた。
自分達の不利益と、赤の他人の不利益を天秤にかければ、自ずと結果は出る。
早鐘を打ち続ける心臓の上に、固く握った拳を押しつける。
他人は、他人だ。
サミーと……自分を救うのは、他の誰でもない。自分だけなのだ。
目を開ける。
ベッドの上で健やかな寝息を立てているサミーを見下ろし、まるで引き寄せられるように、ジェイはその傍らにふらふらと歩み寄った。
そっと、弟の枕元に腰を下ろす。
───ニーオは、何と言っていた?
数時間前に明るいリビングで告げられた言葉を、必死になって思い出す。
呪いの媒体となるモスキートを、彼は災厄や悪魔、あるいはウィルスに例えていた。
それから。
「王子が見つけたモスキートがどんな物であるのかは、まだわからないが」
そうだ。あの時、ニーオはそうも言っていた。
「希少な宝石や美術品、あるいは聖遺物。そういった、人が手に取らずにはいられない力を持つ美しい物を好んで、モスキートの多くはその内に潜む。その間、休眠状態に近いモスキートの気配……波動は、コルドゥーンにも一切感じ取れないそうだ。直接接触する者が現れた時だけ、モスキートは目覚めて、その力を及ぼす」
「呪いのダイヤとか、呪いの絵とか?」
そういう類の物の噂は聞いたことがないけれど、とジェイが言うと、ニーオはその端正な顔に苦笑を浮かべた。
「そこまであからさまな物ではないだろうからな」
「……悪魔は願いと引き換えに魂を奪うって、よく聞くけど……」
「少なくともモスキートは、魂なんてものに興味はないと思うよ。そんなものがあればの話だけどね」
エレが肩を竦める。ニーオが頷いた。
「問題は、モスキートにそうした計算があるのか、それとも結果的にそうなっただけなのかは知らんが、希少な宝石や美術品、聖遺物……そうした物は、そこらにそうある物じゃない。ある意味、金や権力を持つ階級の人間だけが手にすることが出来るような物だ。そしてそういった者達なら、憑代であるそれを隠し持ちながら、自分ではない誰かに次々に
所有者と
「自分には害を及ぼすことのない……犠牲者さえ確保すれば、どんな望みも無尽蔵に叶えてくれる、奇跡を起こす秘宝だ。今までの経験から考えても、ここでも
「今まで、子供が連れていかれた所……?」
ジェイは眉を顰める。
国が子供を連れ去る。そういった噂は数限りなく聞いてきたが、もちろんその中に、何処に連れていかれるかという具体的な場所を示唆する言葉が出てきたことはない。
「単に人目につかない場所なら、郊外に目立たない建物を建てればいい。けど、何よりも貴重な財宝、人の命さえ簡単に引き換えにしても構わないほどの、奇跡を起こす秘宝だからさ。手元に置きはしなくても、出来る限り近い所に隠しておきたがったよ、今までの奴らは。何かあった時すぐに駆けつけられない所に置くのは、不安なんだろうな」
どこか棘を纏った口調でエレが言い、ますますジェイは眉を顰めた。
「もとよりトゥームセラは、小さな国だ。郊外といったところで、商業と観光に特化したこの国は、隅々まで観光都市としての開発が進んでいる。ならば返って、わざわざ遠くに『祭壇』を建てる必要はないだろう。人目を避ける方法など、いくらでもあるのだからな」
「それじゃ……今まで行方不明になった子供達が連れてこられたのって、この
「おそらくな。もちろん、その中でも国の管理下にあり、特定の人間以外の出入りを完全に遮断出来る場所でなければならない。王宮や官邸といった公の場ではなく、な」
「公の場じゃないのに、国に管理されている……?」
「そうだ。例えば、刑務所。例えば、造幣局。例えば……王族の私的な邸である離宮」
ジェイは目を見開いた。
「……セイングラディード島」
東に大型貨物船の入出港を担う巨大な埠頭を持ち、中央部は一大リゾート地を抱えるベイサイドとして整地された、ミルスート湾。
その西の突端から約七百メートルの橋梁によって本土と繋がっている東西約四キロ、南北約一、五キロの小さな島───セイングラディード島は、島そのものが王家の所有地である。
植民地時代、国王を含む王族が押し込められていたこの島は、煌びやかな宮殿にその敷地の半分が割かれている。
外周に巡らされた高い城壁は、外部からの侵入を阻む防壁であると同時に、内部からの脱出を遮る障壁でもある。
橋梁から島へと入る唯一の出入口にはゲートがあり、海上から島への接近は百メートルを超えることが許されない。それ以上の接近は王家に対するテロ行為と見做され、警告なしの射撃を受けることが、今でも広く喧伝されている。
確かに、どうして思いつかなかったのか不思議なほど、そこは収容施設として、十分にその機能を有している。
煌びやかな、煉獄。
ジェイは、ぞっと身を震わせた。
ニーオが頷く。
「モスキートを部外者に奪取されず、なおかつ子供を人知れず捧げられる、という条件を満たせる環境だ。そもそもの所有者が王族であるならば、これ以上最適な場所もないだろう」
「それじゃあ……」
「ああ。我々は、セイングラディード島への侵入経路を調べ、突入する。君とサミーは、すまないが我々の『仕事』が終わるまで、ここに隠れていて欲しい」
───それから。
それから?
ジェイは、顔を歪めた。
自分に知らされたのは、そこまでだ。転寝を始めたサミーにかこつけて、彼らはそれ以上の説明をしてはくれなかった。
ジェイが……サクリファイスが、どんな方法で媒体として使われるのか。───『モスキートに食わせる』と、さっき男は言っていた。
モスキートに食わせたジェイを『組織』に引き渡せば、ニーオの監視も緩むのではないか、とも。
『組織』とは、コルドゥーンのそれなのか。ニーオが監視されているとは、どういう意味なのか。
四十七年前の罪滅ぼしだと、ニーオは言った。けれど、コルドゥーンから連絡を受けて現地に飛び、モスキートを取り戻すことが『仕事』なのだと言った彼らは、そもそもどういう立場なのか。
コルドゥーンの闘争に巻き込まれたというニーオ。
サクリファイスだったというエレ。
ジェイとサミーへ向けた眼差しの優しさは、確かに本物だったけれど───それでも、彼らは、今の自分達のことを話そうとはしなかった。
『モスキートに食わせる』
『ニーオがモスキートを食う』
『モスキートの欠片を摂取』───。
彼らは、何かを隠している。不都合なことはジェイには黙ったまま、その行動の意思を握り潰し、抑制している。
ニーオとエレは───味方なんかじゃない。
唇を噛み、ジェイは顔をあげた。
彼らは、味方なんかじゃない。
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