4-2 疑惑2

 ジェイは溜息を吐いた。

 何もかもが寝静まっているような夜更けに、ぽっかりと目を覚ました時というのは、取り留めもない思考の欠片が浮かんでは沈んでいくものではあるが。今夜のそれは、すぐ傍らに控えている異邦人達のことばかりだった。

 まるで不審の種を探そうとするかのように彼らの言動を思い返してしまうのは……根底に、未だ不安がくすぶっているせいなのかもしれない。

 居心地のいい部屋に在りながら、彼らの気遣いを受け入れながら───けれど本当は。


「……トイレにでも行ってこよう」

 小さくひとりごちる。

 それが言い訳であると、もちろんジェイは自覚していた。


 サミーを起こさないように、そっと起き上がり、静かに鍵を開ける。そろそろと扉を押し開けて、ジェイは首を伸ばした。

 ジェイ達の寝室とトイレ以外、扉の閉ざされている部屋はない。暗い廊下に面した洗面所も、おそらくは男や少年が寝室としているだろう部屋も、闇に沈んでいる。


 しかしひとつだけ、四角く切り取られた光が廊下を照らし出している部屋があった。

 リビングだ。

 こんな時間に、彼らは、あるいは彼らのうちの片方は、まだ起きているのだ。


 ゆっくりと、足音を忍ばせて、ジェイはそちらへと歩を進めた。

 壁に張り付くように、リビングからの物音が聞こえるぎりぎりまで近付いていく。


「どうせ酔えるわけでもないのに、なんで酒なんか呑むのさ? それも『仕事』中に」

 不服そうなエレの声が聞こえて、ぴたり、とジェイは足を止めた。

 息を殺して澄ませた耳に、笑う声が答えを返すのが聞こえる。

「いや? そりゃ確かに、俺自身には何の影響もあるわきゃあないが、この体の生理反応はそれなりに面白いぜ?」


 ジェイは目を瞬かせた。声はニーオのものだ。しかし、なんだろう。その口調……雰囲気が、全く別人のもののような気がする。

「体温の上昇。血流の増加。平衡感覚の軽い迷走。脳の神経細胞のちょっとした麻痺と、抑制の緩み。見てるだけの頃は、酒の何が楽しいのか全くわからなかったが、こうしてすると何度やってみても飽きねえもんだよなあ。元々コイツのアルコール分解能力は高いから、後を引くこともねえし」

「だからって、なんで今……」

「『仕事』中なんだから、自制しろって? 良いじぇねえか。どうせお前らは、いつだって『仕事』中みたいなもんなんだからよ。一応、クスリは遠慮してやってるんだしよ? ガキ共はお寝んね中だし、ニイオの奴だって寝ちまってるんだ。はかけちゃいないぜ?」


 これ見よがしになのだろう。大きな溜息を吐く気配がした。

 もっとも、男の声はそんな遠まわしな抗議など気にも留めていないように、言葉を紡ぐ。

「コイツが使いものにならなくなってもまずいから、愉しんだ後は酒だろうがクスリだろうが、さっさと分解除去してやってんだろうが? ニイオの奴にだって、ノーリスクで気持ちいい思いをさせてやってんだぜ? それなのに野郎、毎回毎回露骨に嫌な顔しやがってよ」

「……当たり前だろ」

 疲れたようなエレの声が言う。

「体を勝手に使われて、その記憶だけ残されて、誰が喜ぶんだよ」

「俺としちゃ、気を遣ってるつもりなんだがなあ。せっかく愉しい思いをするんだから、そいつを宿主あいぼうにも体感させてやろうってえ親切心ぐらいあるんだぜ?」

「それ、半分嫌がらせだよ」

 小さな、澄んだ音がした。おそらく、氷がグラスにぶつかった音だ。

「つまんねえ奴らだなあ。せっかく、快楽の手段に限度なんかねえ人間の体を持ってるくせに。宝の持ち腐れだぜ? 物堅いってえか、融通が利かねえってえか」


 馬鹿にするような物言いは、けれど、その言葉ほど毒を含んでいるようには聞こえない。むしろ、どこか苦笑するような響きを帯びて、ジェイの耳に届いていた。


「酒を呑みゃあ坊主に目の仇にされるわ、クスリをやりゃあ、ニイオの野郎に後でグダグダと説教されるわ。まったく、面倒な話だ。残りのお愉しみで後腐れのないところってえと……やっぱ、オンナかあ? ああ。まだ手を出したことはねえが、野郎相手ってえのも面白そうだな」

「あんた、ニーオの体で何してんだよ……」

「いやいっそ、ガキ相手ってのも一興か?」

「いい加減にしろよ、アキ」

 うんざりしたように、エレが言った。

「あんた、本当はそんなことに大して興味なんかないくせに。俺を揶揄うためだけに、ニーオの体で遊ぶの、止めろよな」

「なんだ、つまんねえ」軽い口調が言葉を返す。「前は、ギャンギャン騒いだくせによ」

「いい加減、慣れたよ。……でも、本当に子供相手だけは駄目だぞ。ニーオが真剣に自殺しようとしかねない」

「そう簡単に死なせちゃやらねえけどな。まったく、ガキの頃の救いがその後の不幸に直結するなんざ、笑い話にもなりゃしねえ。コイツのガキに対する刷り込まれた庇護欲は、もはや呪いの域に達するんじゃねえ?」


 少しの間、沈黙が続いた。動くことも出来ず、幻聴が聞こえてきてもおかしくはないほどの静寂に、ジェイは唾を呑み込んだ。

「……ある意味そうかもな」

 エレの声が、その静寂を静かに、静かに揺らした。

「最初は、四十七年前の贖罪から『組織』に協力することにしたんだろうけど……命懸けになることがわかっていて、それでもここまで深入りしたのは、犠牲者が子供ばかりだからだろう。あんたがいるんだから、『組織』から逃げ出すことなんて、ニーオには簡単なことなのにな……」

「まあ、俺としちゃ単なる生理反応を楽しむだけより、おまえらがやらかすことに付き合う方が、ずっと面白いからいいけどよ」

「お気楽に言うなよ」口を尖らせているのが如実にわかる、声。「そもそも、あんたがニーオを唆したんだろうが」

 カラン、と氷が笑うように音を立てた。

「嘘は言ってないぜ? あの時は、『箱』を開けるしかなかった。人質にされた子供の首を斬り飛ばされる前に止めたきゃ、な」

「………」

「どっちにしたって、同じ結果になってたって。コルドゥーンの闘争を目撃した人間を、奴らが生かしておくわけねえじゃねえか」

「……それを、ニーオにさせたくせに」

 低く、含み笑いが聞こえた。


「けど、ま。それが巡り巡って、ニイオに助けられることになったんだから、おまえさんとしちゃラッキーだったろうが?」

「………」

 苦笑するような溜息が、ジェイの耳に届く。

「呪いといやあ、坊主のそれも立派な呪いの域だよな。テメエの事より、ニイオの方が大事ってえのは」

「……いいじゃないか」

 拗ねたような物言いで、エレが呟いた。

「世界中の誰も、本当の家族だって、俺を助けてなんてくれなかった。助けてって、どんなに叫んだって、誰も聞いてくれなかった。……ニーオだけが俺を救ってくれたんだから」

「で、そのニイオのためなら何だってやるってわけだ。立派な使型の人間の出来上がりだ」

「何だよ、それ」


「神という上位概念に自ら喜んで隷属する奴隷。それが天使っていう概念なんだろう? 人間って奴は多かれ少なかれそういう性質があるようだが、それが自己保存の本能を超える個体は、さすがにまれだ。他人を踏みつけてでも、自らの能力を探求し極めようと血眼になるコルドゥーン共とは正反対の在りようじゃないか」

「……奴隷で、呪い……」

「だから、こうやっておまえは俺と密談してるんだろうが」

「………」


「ところで」

 男の声音が、まるで芝居染みるほどに一際明るくなった。

「今回のガキも、その珍しい天使型だよなあ?」

「は?」

 痛いほどに心臓が大きく脈打つ。

 思わず体を強張らせたジェイは、エレの声に続いた男の言葉に息を呑んだ。


「弟のために我が身を捨てて顧みねえって、いやあ、ニイオ以来初めてお目にかかるぜ。平時にそんな本能の壊れた手段を、さも当然って顔で選択した人間は。坊主の場合は、極限の状況を経て本性が出たようなもんだしよ?」

「それだけジェイにとっては、サミーが大切だってだけだろう?」

「自分の命より? 遺伝子を残そうってえの本能ならともかく、あの年のガキのそれと考えりゃ、十分異常だぜ」

 耳の内側を激しく殴打する血流に紛れることなく、男の言葉はまっすぐにジェイの心臓に突き刺さった。


「なあ。あのガキ、モスキートに食わせてみたら面白いんじゃないか?」

「アキ!」

「そりゃまあ確証はねえが。ニイオといい、坊主といい、天使型の人間だけがモスキートとの融合に成功してるわけだろう? 案外、あのガキも今までのサクリファイスとは違って、あっさり同化するかもな」

「アキ。冗談でも、言って良いことと悪いことがある……!」

「生憎、冗談を言ってるつもりはねえぞ。そうすりゃ少なくとも、ニイオがここのモスキートを必要は無くなるんだぜ?」

「───!」


 絶句するエレの心情がどういうものであるのか、ジェイにはわからない。けれど、その瞬間、足元から這い上がってきた冷たい何かに、ジェイは身を震わせた。


「あのガキをモスキートに食わせて『組織』に引き渡せば、コルドゥーン共は狂喜乱舞するだろうよ。格好の研究材料だ。ニイオに対する監視も弱まるかもよ?」

「出来るわけないだろ、そんな酷いこと! それじゃ、サクリファイスになることと大差ないじゃないか! あんな……っ、死んだ方がマシな目に、どうしてジェイやサミーを遭わせられるんだよ!」


 堪りかねたように叫ぶエレの声に、ジェイは身を縮こまらせた。ガンガンと、頭の中で激しく暴れる血流が、痛みの火花を散らす。目の前の薄暗い廊下が、ふいに、ぐにゃりと歪むような錯覚が起きて、ジェイは壁に縋った。


「それに、そんなことニーオが許すはずないだろ! 俺だって嫌だ!」

「野郎には、事が済むまで黙ってりゃいいじゃねえか。どうせあのガキだって、すでにモスキートの欠片を摂取してんだから、食われるか、ニイオにモスキートを食わせるしか道はねえんだしよ。なら、いずれニイオを壊すだろう負荷をひとつぐらい減らす方を、迷わず選ぶべきじゃねえの?」

「アキ!」


 じり、と無意識のうちにジェイの足は後退っていた。

 まるで、ぐらぐらと歪む視界にこれ以上の刺激を与えては危険だと、これ以上はたないと───それが、心であるのか体であるのか、ジェイ自身にもわからない───脳が強制的に指令を下したかのようだった。逃げ出す意志よりも先に、体が勝手に動いていたのである。


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