4-1 疑惑1
ぱちり、とジェイは目を開けた。
まるで誰かの意志で勝手に抉じ開けられたかのように、覚醒するより先に開けた視界に瞬く。淡い常夜灯の光に自然と視線を吸い寄せられて、それからようやく、ジェイは己が眠りの世界から蹴り出されたことに気が付いた。
一瞬にして切り替わった様相にまだ追いついていない脳が、軽い混乱のまま本能的に体に指令を下す。───つまり無意識のうちに、ジェイは首を巡らせ視線を四方に投げたのである。
淡い光に、隣で眠っているサミーの顔が照らし出されていた。無防備な稚いその寝顔に、我知らずほっとして、やっと認識が視界に追いついてくるのを自覚する。
淡い光の下に見える時計は、深夜であることを示していた。
糸が切れるように眠りに落ちてから、まだ三時間と経ってはいなかった。
疲れ切っている体に対して、未だ神経は昂っているのだろうか。墜落するように意識を失ったのに、今度は切り離されるように目覚めた自分に、ジェイは溜息を吐いた。
空調の微かな作動音と、穏やかな寝息が耳をくすぐる。清潔なシーツと温かいサミーの体温に包まれて、体は安寧の底に埋もれたままだというのに、意識ばかりが冴え冴えと澄み切っている。動きたくはないが、眠れそうにもない。
眉根を寄せて寝返りを打ったジェイは、小さな手足を投げ出して眠っている弟を眺めて小さく苦笑した。
疲れ切っているというのならば、そもそも体力の有無どころの話ではない二歳児には過酷な一日だったと言えるだろう。
タルト菓子を食べ終え、温かいジェイの腕の中で安心しきったサミーは、三人の話し合いの途中から、うつらうつらと舟を漕ぐ有様だった。
それに気付いたエレが苦笑して、さすがにひとまず話を切り上げることを提案してきたのである。
「そろそろ夕食を作る時間だしね。今日は俺が作るから、ニーオにサミーを預けて、ジェイはシャワーを浴びておいでよ」
一瞬迷ったジェイも、頑なに彼らの厚意を拒む状況ではないと思い直した。サミーを連れて入浴するのは難しいし、それに、ジェイの勝手でせっかく寝ている弟を起こすような真似をするのは可哀想だった。
「……え、と」恐る恐る、ジェイは男を見上げた。「お願いして、いいかな? ニーオ」
ニーオは微笑んで、椅子に座ったまま両腕を差し出した。
弟をどこかに連れ去ったりはしない、という意思表示なのだろうか。そのまま椅子から立ち上がることなく、受け取ったサミーを抱き寄せる。
男の胸に凭れかかったまま、くうくうと幸せそうにサミーが眠っているのを見やって、ジェイは笑った。
「……ニーオはさ。子供の扱いに慣れてるよね」
少し驚いたように眉をあげたニーオは、すぐに頷いた。
「ああ。私は施設育ちだからな。下の子供の面倒をみるのが当たり前だったからだろう」
「施設?」
「忘れているだろう? 私は終戦直後の生まれだぞ?」
「あ……」
「当時、孤児など珍しくもなかったが、私は恵まれていてね」
首を傾げるジェイに、ニーオは目元を和らげた。
「赤ん坊だった私が捨てられた町は、比較的住民の結束が強かったらしくてな。戦後の混乱を町ぐるみで乗り切った……コミュニティとして強力な土地柄だったようだ。もともと町に暮らす者は、互いに支え合う傾向があったわけさ。それに町の顔役からして、分け隔てなくあらゆる子供を気にかけてくれたせいか、周りの大人も、孤児である私達にまでいろいろ尽力してくれた」
「へえ」
くすくすと、男は笑った。
「しかも、とても実践的にな。施設の子供達は幼い頃から、町の大人達の指導のもとで武道を叩き込まれたものだよ。後ろ盾として町の警察も一枚嚙んでいたと知ったのは、だいぶ大きくなってからだがね。彼らは、年長者は己の身だけでなく幼い者も守れるようにしろ、とよく言っていた。体の弱い者や女の子には、別の方法でバックアップが出来るようになれ、とも。そうして団結することで、寄る辺ない子供同士でも身を守れると教育されたんだ。……しかも正攻法だけではなく、こっそりと、大きな声では言えないような自衛策を授けられたりもしたな」
ごく自然にサミーのシャツを緩める大きな手の動きは、とても優しい。
「常に言われたものだよ。『綺麗事だけで生きていけるものじゃない。はっきり言ってしまえば、どうしたって親のいないおまえ達は不利だ。だからこそ、お互いに守り合い、助け合って立ち向かうしかないんだ』とね。世を拗ねて悪の道に走れるのは、そもそも生きていく基盤を最初から持っている者だけが出来る贅沢だ。私達のような立場の者が、粋がって流されてそちらに入っても、結局は使い捨てられる立場だということも散々聞かされた。だから、そんな馬鹿なことのために
「そうか。仲間同士で助け合うのが当たり前になってるのなら、その一員である小さな子には、なおさら優しくなるのかな」
「ああ。もとより混血の私は、嫌でも人目に付く……人によっては気に障る
穏やかに言うニーオは、きっと仲間に守られ、仲間を守ることで、戦後の社会を生き抜いてきたのだろう。
「まあ、今にして思えば大人達の言い分は、使える駒を確保するための便宜だったとも言えるがな。ある意味、仲間という重石を喜んで抱えて生きる子供なら、道を誤ったり、些細なことでまわりを裏切ったりはまずしない。本来、身元がしっかりしていなければまず採用されない警察官に、施設出身の子供である我々が相次いで就けたのも、顔役や警察の上層部の思惑通りだったのかもしれんな」
「で、警察官になったら余計に、ニーオは小さい子や女の子みたいな力の弱い存在にますます甘くなったわけ」
畳まれた衣服を抱えて戻ってきたエレが、笑う。ニーオが片眉を上げた。
「それは当然だろう。それなりの力を持つ者なら、自分より弱い者は守るべきだ」
「守るべき、っていうより、もう反射的に守らずにはいられないんだよ、ニーオは。ただの、お人好し」
けろり、と続けられて、男は眉間の皺を深くする。反論しようとしたのだろうか、開きかけた口は、しかし諦めたように再び閉ざされた。
自覚は、あるようだ。
笑ってしまったジェイに、着替えを手渡して笑い返しながら、エレが言う。
「ごゆっくり。洗面所を出たら、並びの、扉の閉まってる部屋が君達の寝室だから。少し休むといいよ。夕食が出来たら呼びに行くから」
「うん。ありがとう」
着替えを抱えて踵を返しながら、ジェイは、ちらりと再びニーオに目をやった。
小さく溜息を吐いた男の手が、そっと、ゆっくりと弟の小さな背中を叩いているのを……サミーが男の胸に頬を摺り寄せるのを眺めてから、そして、ジェイはリビングを出たのだった。
常夜灯の淡い光が、サミーの寝顔を照らし出している。
無防備な、安心しきったそんな顔を眺めながら、居心地の良い部屋で横たわっていられる今に、不思議な気持ちでジェイは目を瞬かせる。
家を飛び出した昨日の明け方には、こんな状況は全く考えられなかった。ただひたすら、小さな弟を国外に逃がすことだけを思い詰めて、
きっと───自分は殺されるだろう。それでも、絶対にサミーだけは、と。その思いだけが、ジェイを突き動かしていたからだ。
けれど今、自分達は安全で快適なぬくもりの中にいる。
それが───腑に落ちなかった。
敢えて言葉にすれば、今のジェイが感じる気持ちは、それが一番近いものだったのである。
最悪の状況なら、いくらでも───嫌でも───脳裏を過ってきた。ある種の悲壮な覚悟をジェイの内に固く結ばせたそれらが、けれど、今は遠い。あまりにもあっさりと覆った状況が、正直に言ってジェイには信じられなかったのだ。
もちろん、ニーオとエレの話が偽りだとは思わない。そして、彼らの親切もまた、嘘ではない。
それを、ジェイは疑うつもりなどなかった。
夕食にと、エレが作ってくれた料理ひとつ取っても、彼らが本当に自分達のことを考えてくれているのは明らかだったからだ。
トマトクリームソースで煮込んだ小振りのミートボールは、ふわふわと柔らかく、穏やかな酸味とも相まって、小さなサミーのために工夫されたものだとすぐにわかった。
それは、ニーオの膝の上で、彼に手伝ってもらいながら上機嫌でスプーンを銜えるサミーに、エレが嬉しそうに笑ったのを見るまでもなかった。
色鮮やかなミモザサラダにかけられた手作りらしいドレッシングの、甘酸っぱい美味しさに目を見張ったジェイに、「まだまだ師匠には追い付かないけどね」とニーオに目をやって肩を竦めたエレも、澄ましてフォークを口に運ぶニーオも。
自分達が安心して食事が出来るようにと、さりげなく心を砕いているのが感じられたのだ。
その思いやりは、決して嘘ではない、と思う。
けれど。
ジェイはその感覚のどこかに、拭いきれない違和感をもまた、感じずにはいられなかったのである。
違和感───あるいは、落ち着かなさを。
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