3-4 『セオドア王子の呪い』と『聖櫃』4

「俺の場合ときは、ある企業の創業者がモスキートと契約をしていた。だから、秘密裏に売買される子供がいたことすら、裏社会にほんの僅かに知られているだけ、ぐらいだった」


 まるでジェイのを……そして、ニーオにそれ以上の悔恨の言葉を続けさせることを遮ろうとするかのように、大急ぎでエレが口を開いた。


「けどトゥームセラでは、公然の秘密みたいだな。ジェイ達が追われていることに、かなりの数の人間が気付いていたのに、皆見て見ぬふりをしてた」

「うん。トゥームセラでは、暗黙の了解になってる……から」

 喉に張り付く言葉を押し出すことに、ジェイは必死に意識を向ける。


 誰かを責めているような場合じゃない。泣いているような場合じゃない。

 自分は、サミーを守らなければならないのだ。


「『セオドア王子の呪い』の最後は、この国の子供の中から再びセオドア王子が現れる、という意味合いの定型文で終わる。でもそのうちに、ニーオが言った都市伝説染みた話の方も、誰からともなく聞くようになるんだ」

「……トゥームセラの子供の中から王子が現れるんじゃなくて、本当は王子の行為をなぞらされる子供、、命を奪われる子供が選ばれるってことだね?」

『セオドア王子の呪い』の表裏、その両方の話を聞いていたのだろう。端的に尋ねるエレに、ジェイは頷いた。

「そう。国に災いが起こった時、王子のように救世主として国を守る生贄こどもを、国が選んで連れ去るんだって」


 誰からともなく囁かれる話は、埒もない噂でしかない。

 それでも、一向に消え去る気配もなく人々の間に常に横たわっているのは、その背景から漏れ伝わってくる虚実綯い交ぜになっているであろう、様々な話のせいだった。


 急に子供の姿が見えなくなった一家の羽振りが突然良くなり、まるで逃げるように引っ越していった、だの。

 突然不登校になった生徒に、家族も学校側も沈黙したまま何の対処もしようとはせず、以来、生徒の姿を見た者はいなかった、だの。

 不審に思った近隣の住民が警察に訴えても、黙殺され……それどころか、件の住民すら行方がわからなくなった、だの。


 ───何よりも、そうした話が四十年もの間絶えず国のあちこちで湧き起こり、否定もされず隠されることもなく、拡散するに任されていることが、その噂に不穏な信憑性を与えていたのである。


 敢えて、隠そうとはしないのではないか。

 ある種の、見せしめ。あるいは、闇に沈む事実が存在していることを、国民に暗に示しているのではないか───。


「馬鹿馬鹿しいって、きっと皆思ってる。今どき、そんな怪談みたいなこと、まともな人間なら取り合うはずがない。そんな迷信みたいなことのために、国が動くはずがない。僕だって、そう思ってた。……でも心のどこかで、もしかしたら、って気持ちがあったのも確かなんだ」


「子供に表向きの『セオドア王子の呪い』を語り継ぐのは、国の正当性を……皆を守るための犠牲は正しいことだって刷り込むため、か。正しいことなんだから、邪魔をすることはそれこそ犯罪になる」

 エレが、肩を竦めた。

「と言うよりも、はっきり言ってしまえば、こともある、って国民に無意識下に浸透させたってとこかな。国の論理において、そうしたことが有り得る、と。それこそ、暗黙の了解ってやつを植え付けたんだな」

「そして実際にその現場を目撃した人間は、噂が事実だったと知って、思い出さずにはいられなくなるのだな。国のすることに介入した場合、それなりの制裁を受けるという警告を」

 組んだ指の後に口元を埋めるようにして、ニーオが呟く。

「君達が複数の大人に追われていることに、『セオドア王子の呪い』を知るトゥームセラの人々なら、すぐに気付く。そして、たったひとりの犠牲で皆が守られる必要悪なのだと、自らに言い訳をして黙認した」


 子供が消えるのは、初めてではない。


 ボルガ・ストリートで、異常を感じた瞬間に素早く身を潜めた人々を思い出す。あるいは彼らは、金色の徽章が意味する役割をすでに思い知らされているのかもしれない。

 ───母も。


 目を落とすと、無垢な丸い瞳が己を見上げていた。

 たったひとりの、大切な、可愛い弟。


「トゥームセラに生きる以上は仕方がないって、思うのかな……。自分の子供が犠牲になることなんて、何とも思わないのかな」

 呟いた声に、応えはなかった。目を上げると、まるで自分こそが痛みを感じているかのように眉根を寄せたニーオと、抜け落ちたかのように全く表情のないエレが、ジェイを見ていた。

「母さんが言ったんだ。『サミーの中に、セオドア王子が甦ったのよ。素晴らしいことだわ。国からたくさんの報奨金も出るんですって。名誉なことなのよ』って」

「え?」

「『明日には、サミーを迎えに来るんですって。これであなたも、前から行きたがっていた中央の美術学校へ行けるのよ。よかったわね』って、笑って……。それで、初めて噂が本当だったんだって、わかった」


 思い出す。

 話が呑み込めなくて呆然としていた自分の前で、はしゃいだように満面の笑みを見せた母の姿を。


 腹の底からふつふつと再び湧き上がってくる怒りのままに、ジェイは吐き捨てた。

「そりゃ『呪い』の話が本当なら、ただの一般市民が国を相手に抵抗するなんて無謀だって、わかってるよ? そんなことをしたら、何をされるかわからない。もしかしたら、本当に殺されることだってあるかもしれない。でも、そんなにあっさり自分の子供を捨てられるものなのか!?」

「ジェ?」

 びっくりしたようなサミーの声さえ、ジェイの耳には届かなかった。

「仮にも母親のいうことか!? サミーはこんなに小さいのに! 何も悪いことなんかしてないのに! 自分達さえ助かれば、サミーはどうなってもいいって、そんな酷いこと、どうして思えるんだ!」


 自分の母親の言葉だとは、とても信じられなかった。いつだって、弟や自分を気づかってくれる、優しい彼女の言葉だとは思えなかった。


 裏切られた。


 そう思い知った瞬間の、切り裂かれたような胸の痛みが、言葉を吐き出す度に甦ってジェイは顔を歪めた。

 ずっと、信じていたのに。


「……ジェイのお母さんって、凄い人なんだな」

「え?」

 ぽつり、と零された声は、頭に血が昇るような怒り、そして最も血の近い……愛していた者の卑劣さに傷ついた痛みに翻弄されていたジェイには、咄嗟に理解出来なかった。

 だからエレに向けたジェイの顔は、不意を突かれた無防備な幼いそれだったのだろう。


 最もジェイやサミーの立場に近いという少年。恐らく母の薄情さを自分と共に糾弾してくれるだろうと思っていた少年は、どこか羨望にも似た表情で、ジェイを見つめていた。

「そう言えば、ジェイがサミーを連れて家から逃げ出してくれると、お母さんにはわかってたんだ。たとえ勝率の低い賭けでも、君達が少しでも生き延びる方にお母さんは賭けたんだな」

「……は?」

 目を丸くするジェイに、言い聞かせるようにエレは言葉を継いだ。

「あのさ。生贄にされる子供には、何年も前から印が付けられているんだよ」

「しる……し?」

「うん。俺達はその印を感じ取ることが出来るから、君達を見つけられた。君だって、どんな人混みの中でも追手のことはわかっただろう?」

「───!」


 そうだ。考えてみれば、人がひしめき合う街中で、それもかなり遠目に見ただけで、男達の胸元の金色の徽章を……あんなに小さな物をすぐに見つけられるはずがない。

 小さなあかしを見つける前に、敵だと認識し見分ける前に、自分は無意識に判別していた。人の行き交う雑踏の中で、追手だけが浮かびあがっているかのように、ジェイには見えていたからだ。


 ふと、ジェイの脳裏に、初めてニーオの姿が視界に入った瞬間のことが過った。自然に目が吸い寄せられた、あの感覚を。


 ───では、エレは?


「印はさ……サミーじゃなくて、君にあるんだよ。ジェイ」

「───」


 愕然として、ジェイはエレを見つめた。

 褐色の優しい面立ちには、苦笑に近い表情が浮かんでいた。困ったような。羨むような。苛立つような。……それでいて慈しむような、複雑な思いが入り混じった不思議な表情だった。

 ジェイよりも小さな子供が浮かべるには、あまりにも不釣り合いな、それは微笑だった。


「サミーが生贄にされるって思って、それだけでジェイはこんな無茶をしただろう? 君がどれだけ家族を大切に思っているか、お母さんは知ってたんだよ。本当のことを言ったら……生贄に選ばれたのが君自身だって言ったら、きっと家族に危害を加えられるのを恐れて、自分から進んで身を差し出しかねないって、だから、きっとわかってた」

「………」

「何もしないでいたら、どのみち君は国に連れ去られて殺される。だから僅かな可能性であっても、何としてでも君達に生き延びて欲しくて、君のお母さんは嘘を吐いたんだ」


 耳に届くエレの声が、ゆっくりと、肩の力を溶かしていく。

 張りつめていた何かがほろほろと崩れていくのを胸の奥に感じながら、瞳が揺れるのをジェイはどうすることも出来なかった。

 裏切られたわけでは、なかった。───母は、義父に懐柔されたわけではなかったのだ。


「…………どうしよう」

 呟いた声は、自分で思っていたよりも、途方に暮れて泣きそうなものだった。

 母を、義父の元にひとり置き去りにしてきてしまった。

 今さら戻っても、抵抗の意思を見せてしまった以上、自分はともかく母やサミーがどんな目に遭わされるか考えたくもない。

 それ以上に、おそらく全て覚悟の上で子供達を逃がした母の想いを知らされてなお、この身を差し出すことなど出来はしなかった。

「どうしよう……」


「ジェイ」

 肩を包んだ大きな掌の温かな感触に、ジェイは縋るように目を向けた。灰色の真摯な眼差しが、まっすぐにこちらを見つめていた。


「よく考えてくれ。トゥームセラは、もはや植民地時代の弊害に喘ぐ弱小国ではないだろう? 他国と対等に渡り合うれっきとした独立国だ。そうだね?」

 小さく頷くジェイに、ニーオはやわらかく言葉を継いだ。

「国に災いが起こった時、と『呪い』は語り継がれている。だが、サクリファイスとなる子供は、この四十年あまり間断なく選ばれているんだ。すでに前提が、無効になっているのだよ。第一、本当に国が被る災いなら、『呪い』ではなく独立した一国家として対処するだけの力を、今のトゥームセラは持っているはずだ」

「………」

「すでに『呪い』は、世界に認められている一国家が行使するべきではない、過剰な力と化している。この数年の間だけでも、トゥームセラを除いた周辺諸国に異常なほど気象災害や工業地区などでの大きな事故が頻発しているのは、知っているだろう? その度にトゥームセラは相手国に援助や借款を軸とした外交を展開しているんだ。その繰り返しによって、国際社会における発言権を強めてきた」

「つまりズルをして、不公正にパワーバランスを崩して優位に立ってるってこと」

 カップを揺らしながら、冷たいまなざしでその回る水面に目を落としたエレが、言う。

「『呪い』……災いに見舞われて死傷したり、家族や生活を失ったのは、それこそ何の落ち度もない人達だ。そんな人達を不幸にするために、君達は犠牲にされようとしてるんだよ」

「………」


「それが正しいことだって、国を守ることだって言うなら、自分達が進んで犠牲になればいい。そうしないで自分達は安全なまま、何の罪もない子供を犠牲にするのなら、それは絶対に正義なんかじゃない」

「……エレ」

 かつて犠牲者サクリファイスだったという少年の断言には、強い嫌悪感が込められていた。

 少年を横目で眺めていたニーオが、思わず呼びかけたジェイに目を向ける。


「全ての始まりであるセオドア王子は、確かに国のためを思ってモスキートと契約をしたのだろう。だが大きすぎる力は、容易く人に道を誤らせる。王子の協力者……おそらくはその遺志を継ぐはずだった者達は、それを不正に、安易で自分本位な方向に捻じ曲げた。……何故だろうな。モスキートの力を得た人間は……モスキートに憑りつかれた人間は、そのほとんどが、他人を残虐に踏みつけることすら何とも思わなくなる」

 苦い笑み浮かべ、男は首を振った。

「いや。どう弁明したところで彼らを欲望に走らせ、数多のサクリファイスを惨殺させてきた原因が、私であることに変わりはないな」

「ニーオ」

 再び咎めるようなエレに笑みを向けて、ニーオはジェイに向き直った。


「私達の仕事は、モスキートを取り戻すことだ。結果的に、その契約者の野望を砕くことでもある。トゥームセラの為政者達がモスキートの力によって悪逆を為していると、君達に会って確信した以上、容赦をするつもりもない。……もっとも、モスキートを失った瞬間に、彼らは勝手に瓦解することになるだろうがね」

「ニーオ」

「その上で君達を助け出すのは、私の義務……いや、ただの罪滅ぼしだ。ジェイ。すでに『セオドア王子の呪い』に正義などない。君が誰かに疚しさを感じる必要などない。君が犠牲になる必要は絶対にないんだ。それだけは忘れないでくれ。君は絶対に悪くない」

「………」

「これからこの国がどう変わっていこうと、それは当然の帰結なんだ。今度こそ本当に、トゥームセラは自力で立っていかなければならない。君達が、その負債を負う必要などない。だから……君自身とサミーを守ること、お母さんを助けることを、まず考えよう。いいね?」


 ジェイはしゃくりあげるように、大きく息を吸い込んだ。

 この人達が言うことの、どこまでを信じていいのか、今もやはり、わからない。


 けれど───少なくとも、彼らがジェイやサミーを心配してくれていることだけは、本当だから。


 ニーオの優しい声に、ジェイは小さな子供のように、こくん、と頷く。

 ほっとしように、男と少年が揃って笑った。



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