2-2 真昼の逃走劇2

 己の無力さに歯噛みするジェイに、子供が小さく囁いた。

「こっち」

 袖を引かれるまま横道に逸れる。

 しっかりとした足取りで歩くふたりの子供───ひとりは幼児を抱いていたが───は、特に通行人に注目されることなく人混みを潜り抜けていった。

 明確な目的地があるらしく、子供は次々と道を曲がり、車道を横断していく。観光客の中を分け入り、行き交う地元の配送人の後をついて歩きさえした。観光客向けの人力車の列を渡り、モールの中を横切って隣の区画へと出ていく。


 街中を、歩き続ける。


 突然現れた子供によって目まぐるしく変えられていくその進路……その目的地が掴めないせいだろう。追手は、今までのように先回りしてこちらの方向を誘導することが出来ないようだ。対面から現れる敵の姿が、なくなった。

 その代わりに、追ってくる人数が増えたような気がするのは、錯覚ではないはずだ。


 子供に促されるまま、さらに街中を進み続けて、三人はやがてその一画に辿り着いた。

 まず目に飛び込んできたのは、道の両端に並ぶ青い布製の屋根だった。鉄パイプの柱に支えられたその下に、衣類や雑貨、果実や菓子が所狭しと並べられている。


 ボルガ・ストリート。


 市場のように露店が軒を連ねる、三つの区画にまたがる通りだった。

 雑然としているようで計算され尽くした秩序に則ったそこは……昔ながらの商文化を残そうと、直截に言ってしまえば観光スポットとして、かつてのこの街の姿を再現することが認められた区画だった。

 市場というには整然としすぎ、それでいて国の管轄というにはやや無軌道な雰囲気が残るのは、ここに店を構える、十年前の再開発以前から露店を商ってきた店々の個性が滲んでいるせいだろう。

 車両は通行が禁止されているとはいえ十分に車道として使用出来る幅の道路は、石畳で埋められている。こればかりは新しく建て直された三階建ての石造りの建物が並び、その前を露店がひしめき合うように覆い尽くしている。

 ビジネスマンらしきスーツ姿の人間は少なく、溢れかえる人の群れは観光客と露天商ばかり───特に、観光客を中心とした異国の人間が集まる区画だったのである。


 褐色の肌の子供は迷うことなく、その通りに踏み込んでいく。その小さな手に引かれるまま、ジェイもその中へと進んでいった。

 今まで通り過ぎてきたどこよりも賑やかに、人々の間を声が飛び交う。通りを埋め尽くすような、人の群れ。息遣い。声。


 自分達を呑み込むそれらの中で……ふと、ひとりの背の高い男がこちらへと歩いてくるのに、ジェイは気が付いた。

 特に目立った動きをするというわけではないその男に視線が吸い寄せられたのは、何故だろう。

 彫りの深い端正な面差しは、けれど、どこか柔らかなラインをその鼻梁に残している。それが人種の融合から生まれる曖昧な変異のひとつであることを、なんとなくジェイは察していた。混血なのだろう。

 赤みがかった茶色の髪を後ろへと撫でつけ、意志の強そうな灰色の瞳はまっすぐに前へと向けられている。

 開襟シャツにネクタイを締めただけという軽装は、この界隈のビジネスマンのそれではない。かといって観光客とも思えないのは、取りたてて感情を浮かべているわけではない静かな面差しが、周りの人々の楽しげなそれとはあまりにも異質だったからだ。

 ごくありふれた服装に包まれた鍛え抜かれた長身とも相まって、その容貌は微かに威圧感さえ感じさせたのである。


 もちろんそれは、その時己が神経を尖らせていたからこそ感じたことだった───と、後にジェイは思い当たることになる。

 事実、まわりの人々の誰ひとりとして、彼に目を向けようとする者はいなかった。


 男は、ジェイ達に特に関心を持つようでもなく、落ち着いた足取りでその傍らを擦れ違った。

 そしてジェイもまた、通り過ぎた男にそれ以上の注意を払う余裕はなかった。子供に導かれるまま、密やかな逃走を続けるべく前を見据えて歩き続けなければならなかったからだ。


 しかし。

 十メートルも進まぬうちに、ざわり、と背後の気配が動くのをジェイは感じたのである。

 不穏な、それは気配だった。


 本能的に、ジェイは振り返った。

 まるで凍り付いたように、人々が立ち竦んでいた。

 声もなく集まる視線のその先で、ひとりのスーツ姿の男が崩れ落ちる瞬間を、ジェイは見た。

 その近くでも、立ち尽くす人々のあちこちで数人の男が倒れていた。その体の下から滲み広がる赤に、石畳がゆっくりと染まっていく。

 呆然と、何が起こったのかわかっていないように人々は───そして、そのあちこちに紛れている金色の徽章の男達は、それを見下ろしている。

 その中には、つい先ほど擦れ違った長身の男の姿もあった。

 その灰色の瞳が、他の人々のそれのような驚愕ではなく、ひどく冷静な表情を浮かべているのを、ジェイは咄嗟に見て取っていた。


「え───」

「走って!」

 傍らの子供が、突然、叫んだ。

 びくり、と竦むジェイの袖から手を放し、子供は改めて、弟を抱くジェイの腕を握りしめる。そして、地を蹴った。

 走り出した子供に一瞬遅れて、ジェイも駆け出す。


 背後の騒ぎに、何が起きたのかと振り返ったまま立ち尽くす人々の間を、掻い潜って走り抜けていく。


 その頃になって、ようやく状況を悟ったらしい女性の悲鳴が通りに響き渡った。

 肩越しに振り返ると、倒れた男達から本能的に後ずさった人々の間から、仲間を呆然と見下ろしていたはずの男達がこちらに顔を向けたのが見えた。


 次の瞬間、周りの人々を突き飛ばし、追手である男達が一斉にこちらへと駆け出した。狼狽えたように右往左往する観光客を払い除け、踏みつけて、ジェイ達に迫ってくる。

 ぶつかり合い逃げ惑う観光客の悲鳴や怒号を尻目に、露店で働く人や地元の人間らしき一団が露店の奥や建物の陰に素早く身を潜めるのを、ジェイは視界の隅に見た。

 顔が引き攣るのを感じながら、ジェイは再び前を向いた。弟を抱く腕に力がこもる。

 パニックに陥る観光客達を避けて、右へ左へと身を躱しながら走る。

 子供に腕を引かれて逃げ続けながら、それでも、本能的な恐れがジェイを再び振り返らせた。

「───!?」


 もはや体裁を繕う余裕もなく、障害物となる観光客を押しのけ突き飛ばし、殴りつけさえして排除しながら、金色の徽章の男達が追ってくる。

 その後ろから、あの長身の男がみるみる迫ってきていた。


 一瞬、日の光を反射して男が手にしていた何かが光を弾くのを、ジェイは見た。

 男が、一番後ろを走っていたスーツ姿の男に滑るように接近する。

 その手が、閃く。

 次の瞬間、首筋から噴き出す血で空に軌跡を描きながら倒れる男と、それを軽々と追い越して次の獲物に襲い掛かる長身の男から、ジェイは目を離すことが出来なかった。


 子供に腕を引かれていなければ、思わず立ち竦んでいただろう。実際、息を呑んだジェイは、引っ張る子供の手の力につられているからこそ、かろうじて足を動かしているといった有様だった。

 何が起きているのか、わからなかった。

 ジェイと弟とを追う『敵』を、攻撃する男。そんな存在があるはずなどなかった、のに。


 仲間が倒れたことに気付いて振り返ったひとりが、その瞬間にはもう、引き摺られるように空を反転し、地に倒れ伏す。そして、それに目を向けることすらなく、長身の男の手が次の獲物を屠っていく。

 ジェイが見ている間にも、次々と追手の男達が倒れていった。長身の男の手が閃く、ただそれだけで。


 それでは、先程の不穏な気配を感じたあの時も、長身のあの男は、こうして同じように追手の男達を目にも止まらぬ速さで倒していたのだろうか。周りにいた人々が、ジェイが見た最後の男が倒れる直前に、ようやく異常に気付くという、恐るべき早わざで。


 仲間に何が起こったのか理解するよりも早く、ジェイ達が駆け出したことに気付いて咄嗟に追ってきた男達は、初めて彼という敵対者を認識したようだった。

 数人が身を翻し、長身の男に立ち向かっていく。その手が初めて、あからさまに武器を───銃を外気に晒した。


 短い悲鳴にも似た呼気が、ジェイの喉から迸る。


 わかっていた。自分達が日常から、すでに逸脱していることは。けれど、銃という凶器は改めて、否も応もなくそれをジェイに突きつけたのだ。

 わかっていた。それでも。


 ───もう平穏な日常には、戻れないのだ、と。


 男を排除するために反転した者達以外の追手の手にも、もはや銃は隠されてはいなかった。

 悲鳴がボルガ・ストリートを席巻していた。

 逃げ惑う観光客達は、銃を手にする男達が迫ってくる後方以外のあらゆる方向に、なだれを打って駆け出している。ジェイ達の前を、多くの人々が大通りへと殺到していく。


 その遥か前方で、鋭い悲鳴が上がった。

 一拍の空白があった。

 静止画のように立ち竦んだ人々は、そして、今度は前方をも避けるべく、散り散りに逃げだした。

 ある人々は露店の商品を押し倒し、踏みつぶしながら、無理矢理その奥に駆け込む。

 ある人々はパニックのままに、その場にしゃがみこむ。

 そして、ある人々は立ち竦んだまま動けずにいた。

 その向こうに、こちらへと銃を構えている数人の男達の姿があった。


 正面に立ち塞がる敵の姿に凍り付いたジェイの腕から、子供が素早く手を放す。

 数少ない彫像と化した人々を避け、その陰から飛び出した。


 と思った瞬間、その子供の体には大き過ぎるTシャツが翻る。

 交差した子供の手が腰から抜いた物を、ジェイははっきりと見ることは出来なかった。しかし、風を切って投擲されたそれが、小さな薄い、おそらくは金属であろうことだけは悟らずにはいられなかった。


 なぜなら。

 絶叫があがったからだ。

 ジェイ達に銃口を向けていた男達の、ある者は腕が、ある者は足が、血飛沫をあげて切断されたのだ。


 剃刀にも似た鋭い切れ味の、それは刃だったのだろう。

 しかし本来、薄くて軽い剃刀を投げつけたとて、ああもすっぱりと肉体が断たれるはずがない。鎌鼬のそれのように、鋭いながらも皮膚を切り裂くのがせいぜいのはずだ。

 だから、子供が投擲した刃は鋭くも重量のある、殺傷するための武器にほかならない。


 もっとも、噴き出す血にまみれ、人のものとも思えぬ声を迸らせながら転げまわる男達から目を離せずに……生々しい惨状に凍りついていたジェイには、そんなことを考えている余裕はなかった。


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