2-3 真昼の逃走劇3
「エレ!」
竦んでいたジェイの体が、頭上から聞こえた声にびくり、と跳ねた。
反射的に振り返ると、すぐ後ろにあの男が───長身の端正な面差しの男が、駆け寄ってきていた。
思わず、ぎゅっと弟を抱きしめて後ずさったジェイの傍らに、子供が駆け戻る。
そして。
「逃げるよ?」
その声が耳に届いた瞬間、腕の中からぬくもりが消えた。
「サミ……!」
腕の中から小さな弟を奪われて、咄嗟に叫びそうになったジェイは、ほぼ同時にふわりと浮遊感を感じた。
「わ……っ!」
「すまんな」
咄嗟に目の前にあったものに腕をまわし、体を支える。温かなそれは───男の首だった。
男が、片腕でジェイを抱き上げていたのだ。
思わず開いたジェイの口が声を吐き出すその前に、男は地を蹴った。
人のものにしては途轍もないスピードで、惨劇に恐慌を起こす人々が、立ち並ぶ露店が、後ろへと流れ去っていく。
思わずその首にしがみついたジェイは、男の肩越しに、弟を抱いた子供が同じように自分達の後に続いているのを見た。
十五歳にしては小柄な体躯とはいえ、人ひとりを抱えているとは思えないスピードで、男はボルガ・ストリートを駆け抜ける。
大通りに出ると、遠目ながらボルガ・ストリートの異常は薄々感じられたのだろう。それでも、未だサイレンの音が響かないことから───金色の徽章の男達が関わっているのだ。そもそも警察が、出動するはずがない───少なからぬ人々が訝しげにボルガ・ストリートの入り口で立ち止まって、遠い喧騒を覗き見ていた。
男と子供はジェイ達を抱えたまま、その人の群れをあっという間に擦り抜ける。
メイン・ストリートほどではないにせよ人通りのある大通りを、人の流れを掻い潜り、車道を突っ切り、ジェイを抱えた長身の男と、弟を抱いた褐色の肌の子供が駆け抜けるのを、通行人が驚いた顔で見送る。
突風のような彼らに呆気に取られるだけの人々は……物見高い観光客でさえ、携帯端末で撮影するという行動に出られるほど、状況を咄嗟に理解出来てはいない。
視線だけが追い縋る。それすら振り切るように、男は再び横道に飛び込んだ。
両サイドに、三階建てという同じ高さに揃えられたショップハウスが軒を連ねる、ありふれたエリアだ。
そのうちの一軒、一番手前の、何の変哲もない雑貨屋の扉を男は押し開けた。
勢いよく駆け込んできた彼らに、ぎょっとしたように、店内の客達が振り返る。
しかし、店の人間は表情ひとつ変えることはなかった。
男もそちらを見ることすらなく、店の奥へと走り込んでいく。
子供が続く。
扉を開け、階段を駆けあがった。
一気に三階まで登ると、男はそのまま非常口の扉を開けた。
まるで一棟の建物のように隙間なく立ち並ぶショップハウスだ。屋上に上る階段は一番端の建物にしかない。
小さな外階段を駆け上った先は、緩やかな傾斜の、屋根だった。一区画分続く長い稜線に、躊躇いなく男は踏み出した。
「……っ!」
ジェイの口から、声にならない悲鳴が零れた。
当然のことながら、素人が足を踏み込むような場所ではない。今にも滑り落ちそうな傾斜に、頼りにできる柵などあるはずもない。足を滑らせたら止めるものもない高い屋根の上を走る男に、否応もなく己の身を委ねているジェイの体の奥を、すうっと臓腑が縮みあがるような嫌な感覚が襲う。
思わず、ぎゅっとジェイは目を瞑った。
屋根を蹴る乾いた音。小さな風の唸り。足元の遠く微かに聞こえる喧騒が、それに紛れる。
ふっ、と突然の浮遊感に、刹那の落下感が続いた。
そして、小さな衝撃が、男の体越しにジェイに響く。
反射的に目を開けたジェイは、未だ足を止めない男を追う子供が、彼らに続いて飛ぶ瞬間を見た。
子供は───男は、一区画分の建物の屋根の上を駆け抜け、道路を隔てた隣の区画のショップハウスの一群へと飛び移ったのだ。
区画を区切る道路は、最も狭いものでも二車線分の幅がある。とてもではないが、人間が飛び越せる幅ではない。
それなのに。
呆然とするジェイを抱いたまま、男は次々と建物の上を駆け抜け、飛び移る。障害のない屋上を伝っての移動は、その俊足とも相まって、たちまちボルガ・ストリートから距離を離していった。
「……ふむ」
耳元で、男が呟く。
と、思う間にその足が今度は屋根の傾斜を駆け降りる。
「……っ」
急な方向転換と下からの軽い風圧に、ジェイは声を呑み込んだ。やや前傾になる男の、その首にまわした腕に力が籠る。
ジェイを片腕に抱いたまま、スピードを落とすことすらなく、男は身を捻る。
ふっ、と浮遊感を感じた時には、屋根から飛び降りた男は反転し、片手で雨どいを握ると、器用に壁を滑り降りていた。
どうバランスを取っているのか、決して自重とて軽くはないだろう男がジェイを抱えたままだというのに、さして頑丈そうにも見えない雨どいは軋みひとつあげなかった。
サーカス団のパフォーマーや、パルクールの達人でも、こうはいかないだろう。
声もないジェイを片腕に抱えたまま、そして、男は静かに着地した。
ひとつ息を吐くと、そっと屈んでジェイを降ろす。
地面に足が着いた瞬間、へなへなとジェイは座り込んでしまった。
呆然と見上げるジェイに困ったように笑って、男はその短い金色の髪をかき混ぜた。
「大丈夫か?」
言葉もなく瞬いたジェイは、ようやく傍らに歩み寄ってきた子供に気付いた。
「サミー……!」
弟を呼ぶ声は、情けなく掠れている。褐色の肌の子供は屈みこんで、ジェイに弟を差し出した。
伸ばした両腕に触れた温かな小さな体を、ジェイは夢中で抱き寄せた。
「ずいぶん大人しいな、とは思ってたけど」
くすくすと子供が笑う。
「寝ちゃってるよ。大物だなあ」
「………」
確かに、頬に感じるのは小さな寝息だった。
家を抜け出したのは、夜明け前だった。それから市を跨いでずっと逃げ続けてきたのだ。
最初は長距離バスで移動していたが、やがて追手の姿が視界を過るようになって、慌ててバスを降りた。閉鎖されたバスの中では、追手に踏み込まれたら逃げようがないからだ。
そして……通行人に紛れるように大通りを進んだり、建物の中に隠れたり、と考え得る限りの方法で逃走を続けてきた。結果として大した効果があったとはいえないが、それでも必死だったのだ。
その間、ずっとジェイに抱かれたままだったとはいえ、確かに二歳児が疲れに屈服したとしても、全くおかしくはない状況だ。
けれど。
弟もまた、ずっと怯えていたのだ。
怖がって、不安そうに必死になってジェイの首にしがみついていたのだ。
泣き喚いたり、ぐずったりと、この年頃の幼児に当然な反応を示さなかったのは義父のせいだとはいえ……こうも安心しきった顔で、この子が眠れるとは思いもしなかった。
───安心?
ふと、ジェイは眉根を寄せた。
───いつから。
顔をあげる。
穏やかな灰色の瞳で、男がジェイを見つめている。
首を傾げるように、子供の青い瞳がジェイを覗き込んでいる。
首を巡らせると、傍らには自動車の列が道沿いに停車していた。その陰に隠れるように身を屈めている彼らと座り込んでいるジェイに、数少ない通行人は気付いてはいないようだった。
見上げると、彼らが降りてきた建物の一階の店舗は、悉くブラインドを下ろしている。
歓楽街───ここが夜にこそ賑わう一帯であり、この時間では街中で最も人通りの少ない区域であることに、ジェイは気付いた。
監視カメラにも捉われず、追手を撒き……彼らを行動不能にさえして、ここまで自分達を連れてきた異邦人への警戒に、ジェイは視線に力を籠める。
「……あんた達は、いったい何なんだ?」
「うーん」困ったように、子供が屈んだままの男を見下ろす。「一番近いあたりだと、やっぱり……泥棒?」
「……は?」
思わず気の抜けた声を漏らすジェイに、男がちらり、と子供を見やってから溜息を吐く。徐にジェイに向きなおった男は、そして、口を開いたのである。
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