2-1 真昼の逃走劇1

 息を切らしながら、ジェイは足早に歩を進めていた。

 いかにもリゾート地に来たと言わんばかりの軽装の一団に紛れ込みながら、肩越しに後方へと視線を投げる。


 観光客とビジネスマンが入り乱れて幾つもの流れを作っているメイン・ストリートのその中に、仕立てのいい麻のスーツに身を包んだ男達の姿が見え隠れしていた。

 南国とはいえ、商業国家であるトゥームセラだ。各国の大企業が集まるこの国で、そうした服装の人間は珍しいものではない。それぞれにスーツの型や色は違っているから、一見すれば、互いに無関係な通行人同士にしか見えはしないだろう。

 しかし、その襟元で軍人の徽章のように輝く金色の小さなプレートに、ジェイは嫌と言うほど見覚えがあったのである。

 義父のスーツにも装着されていた小さな金色の輝き。先日まで、てっきり義父の会社の社章だとばかり思っていたそれだ。


 十年をかけた国を挙げての再開発により、メイン・ストリートには大型のショッピングセンターや、ブランドショップが建ち並ぶ。老舗のホテルが威風を誇り、異国から出店したデパートがそのロゴを輝かせている。観光バスやタクシーが絶えない四車線の車道を挟む広い歩道には、青々とした街路樹が茂り、ごみひとつその上には見当たらなかった。

 横道に入ればミニホテルやホステルが点在し、民族色豊かな各国の土産物屋が軒を連ねている。

 賑やかなその一帯とまるで隣り合うように、重厚なコンサートホールや博物館といった大型の施設が集い、その外縁を囲んで、高層ビルの林立するオフィス街がある。


 百年程をかけて他国から受け入れてきた移民達を祖とする、トゥームセラ人。各国から出向してきたビジネスマン。一年を通して溢れる観光客。

 観光スポットのひとつでもあるこの街は、そうした人々が入り乱れて混在し、まさに人種の坩堝といってもいい様相を呈している。


 しかしジェイは、その混沌とした人の群れの中に、統一された意思の下に動く一団が紛れ込んでいることを悟っていた。

 年齢も人種も様々な、けれど胸元に金色の徴を掲げた鋭い眼差しの男達が、人混みのあちらこちらから自分達に近付いてくるのがわかる。人の波を掻い潜り、じわじわと包囲を狭めてくるその歩調は速い。


 機敏に小柄な体躯を利用して、賑やかな観光客の狭間を縫い、その陰に隠れ、ジェイはひたすら唇を引き結んで歩を進めた。

 腕の中の小さな弟も、ジェイの緊迫した雰囲気を感じとっているのか、ずっと口を噤んだまま、ぎゅっとその首にしがみついている。


 大きな声で喋りながら歩いている観光客らしいふたり組の後ろから身を滑らせたジェイは、前方から歩いてくる人々の中に、またも金色の徴を付けた男がいるのを見つけた。

 咄嗟に、そのまま横道へと逸れる。


 ───これで、四回目だ。


 人混みに溢れた街中で、けれど、ジェイは自分達が巧妙に誘導されていることに気付かずにはいられなかった。


 昼日中の、観光客とビジネスマンとが行き交うこの街は、異国の人々が集う地区であるが故に国も治安に力を入れている。つまり、異国人の目があるこの地区では、国内での現実を外部に洩らさぬことが暗黙の了解になっているのだ。

 だから、今はまだ男達は強硬な姿勢を取ってはこない。

 この界隈から人通りの少ない区画までは、かなり距離がある。しかし、そこに追い込まれるのも時間の問題なのかもしれなかった。


 気温のせいばかりではない汗が、額に滲んだ。

 外国資本のショップが並ぶ歩道を、観光客に紛れて歩く。車道の向こうに追手の姿がちらつく。

 怯えた草食動物のように、ジェイの視線は絶え間なく辺りを彷徨った。

 欧米人。東洋人。中東、アフリカ、インディア……。この国に住んでいる以上、見慣れているはずのあらゆる人種の人の波に、けれど今は眩暈がしそうだった。


 思わず弟を抱く腕に力を込めたジェイは、ふと、傍らに気配を感じた。

首を巡らせる。


 そこに、ジェイと同じ速度で歩きながらこちらを覗き込んでいる子供がいた。


 ぎょっとして、一瞬足が止まる。

 こんなにも近くに接近してくる存在の気配など、全く感じなかったからだ。

まさに、まるでたった今、すぐ隣に出現したとしか思えない子供に息を呑む。


 思わず足を止めたジェイに、子供はにっこりと笑った。無言のまま左手でジェイの袖を引き、歩くことを促してくる。

 いずれにしても、ここで立ち止まるわけにはいかない。慌ててジェイは、再び歩を踏み出した。


 それでも半ば唖然としたまま、横目で傍らの子供を見下ろす。

 ジェイよりも二、三歳ほど年下の、痩せた小柄な子供だった。褐色の肌の、女の子と見紛うような優しい面立ち。黒い前髪の下から澄んだ明るい青い瞳が、時折こちらを見上げてくる。

 弟を抱いたジェイの二の腕のまわりで揺れる袖を掴んだまま隣を歩く姿は、迷子にならないように年長者にくっついている幼な子のようだ。白い肌にそばかすを散らしているジェイとは明らかに人種が違うから、さすがに兄弟のようには見えないだろうが、傍目には仲の良い友達のようには見えるだろう。


 そこまで考えて、ジェイは我に返った。

「おまえ……?」

 この国の人間なら、状況から───少なくともその雰囲気から、おぼろげにもジェイの身に起こりつつあることを察するはずだった。巻き込まれることを恐れて、近付いてなどくるはずがない。


 けれど、異国の人間だとしたら。


 まずい、とジェイは咄嗟に思った。

 無関係なこの子供を、巻き込んでしまう。


 何が目的だか知らないが、自分から離れろ───と言おうとしたジェイは、けれど再びこちらを見上げてきた子供の口が開いたことで、その言葉を呑み込むことになった。

「まだ、このまま歩き続けて」子供が囁いたのだ。「ここじゃ、あいつらを撒けないから」

「───っ」


 知っている。

 この子供は知っていて、ジェイの隣を歩いている。


 ジェイの顔が、知らず険しくなった。

 ジェイより年下の子供だ。けれど、子供であることが敵ではない証明にはならない。

 ジェイと同じようにサイズの大きなTシャツを着ている子供は、当然のことながら金色の徽章を付けてはいない。

 けれど、ジェイは己の体形を誤魔化すために、この服を着ている。───この子供が、ごくありふれたとはいえ同じような服装でいることに、何らかの、似たような理由がないとは言い切れない。

 少なくとも追手の存在を了解しているこの子供が、単なる通りすがりであるはずがなかった。


 思わず警戒の眼差しで睨みつけてしまったジェイに、困ったように褐色の肌の子供は笑った。

「ええっと。怪しく見えるのは仕方ないけど、ひとまずあいつらから逃げ切ってから、話を聞いて?」

「………」

 眉根を寄せる。

 逃げ切る。この子供は状況を理解していて、なお追手を振り切れると言っているのだ。

 敵か味方か、判別はつかない。判断など出来る状況ではない。

 それでも、今はこの包囲網から脱け出すことが先決であるのだけは、確かだった。


 しぶしぶ小さく頷いて見せたジェイに、子供の顔がぱっと明るくなった。

 そして、前へと向き直ったその表情が鋭く引き締められる。まるで、主の了承を得て戦いに赴こうとする騎士のように、使命感と責任感が幼いその面立ちに滲み出ていた。

 それを横目で眺めてから、ジェイは再び辺りに視線を走らせた。


 ターゲットであるジェイと弟に、小さな部外者が張り付いたところで、追手の男達に動揺はないようだった。ただ先程よりも、人の波を掻い潜りその姿をこちらの視界に晒す回数が増えている。追ってくる速度が速まっているのだ。

 ジェイの背に、ひやりと冷たいものが滑り落ちた。

 予想外に邪魔な存在こどもが現れたことで、男達はじわじわと慎重にふたりを追いつめるやり方を断念したのかもしれない。と、なれば、即座に強硬手段へと切り替えることは大いに有り得る話だった。

 つまりは万難を排する方向を捨てて、更なるアクシデントが発生するよりも先に、ジェイと弟を確保してしまおうと───その手段の是非を問うつもりがなくなった、ということだ。


 子供三人ぐらい、複数の大人の手にかかれば人目を引かずに拉致することも、あるいは出来なくはないだろう。さりげなく集団で壁を作ってしまえば、人の溢れたこの街では、かえって他者の目を容易に眩ませられる。

 たとえ異常を感じる者がいたとしても、有無を言わさずジェイ達を連れて立ち去ってしまえばいい。

 あからさまな犯行現場を異国人の目に晒すわけにはいかないが、あやふやな違和感ぐらいなら何とでも誤魔化すことが出来るからだ。


 そして───おそらくその後、男達にとって邪魔者であるこの褐色の肌の子供は、排除されることになる。

 トゥームセラに限らず、ひとり歩きをする幼い子供がふいに行方不明になることは、決して珍しいことではないと、ジェイだとて知らないわけではないのだ。


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