1-2 深夜の博物館2

 イヤフォンの向こうで、けたたましく警報が鳴り出す。

 その耳を聾する音の洪水の中に、床を蹴る靴音を耳聡く聞き取って、思わずエレは息をついた。溜め息と称するには鋭すぎるそれが、恐怖に固まりかけた自らを本能的に叱咤する。

 反射的に、エレは力いっぱいアクセルを踏み込んだ。いずれにせよ、ここまで来た以上、今さら慎重を期すべき理由はない。

 小型車が、一気に加速した。


 耳障りに溢れかえる警報に紛れて、ストライドの大きな靴音が早いリズムでエレの耳に届く。修道院の遺物の展示室から二つの展示室を抜けたニーオが、廊下を駆け抜けている足音だ。

 幾つもの展示室の前を過ぎ、直角に交差する別の廊下を幾度か折れる。下見の際に確認しておいたルートを、ニーオが躊躇いなく走り抜けているのを、エレの耳は聞き取っていた。


 イレギュラーな事態が起こらなければ───その確率は高くはないだろうと、ニーオもエレもわかっていた───ニーオは偽装IDを再び使い、侵入経路であった職員専用通路を使って脱出するはずだった。


 ───ただし、イレギュラーな事態が起こった場合は。


 銃声が、警報を幾度となく切り裂く。

 しかし、靴音は止まらない。


 単独での銃撃がニーオには無効であることを、。いかにアンジェリカが銃の名手であろうとも、獣並みの瞬発力で不規則に身を翻す男を捉えることがいかに困難であるか、彼女言うところの『昨日今日の付き合いじゃない』年月から身に染みているはずだからだ。

 本来ならまず確実に標的を撃ち抜く弾道を、まさに間一髪で躱すニーオは、肉眼では見えないはずの、しかも背後からのそれを正確に感知しているとしか思えない。

 否、本当に感知していることを、おそらくアンジェリカは悟っているだろう。

 凶弾を、自らに向けられる攻撃を先読みするように察知する力も、それを軽々と躱す身体能力も、ニーオのそれはまさに人間が持ち得るものではない、と。


 最初の『サクリファイス』でありながら、今もって生き延びているふたりの内の、片割れ。あるいは……パンドラの箱そのものである男。

 人間の中でも、その意味を彼女ほど身に染みて理解している者はいない。

 それでも、アンジェリカの属する組織にとって、ニーオは何と引き換えにしても絶対に手に入れなければならない存在なのだ。

 殺さなければ、どんな手段を使ってもいい。肉体の損傷には拘泥しない。目的は、ただ彼の身柄を確保すること。それだけが、アンジェリカに課せられた使命と言えるだろう。


 数多の追跡者の中で、良くも悪くもニーオとエレを見つけ出せるだけのを備えているのが彼女だけである以上、その責務は重圧となってアンジェリカに圧し掛かっているはずだった。

 もっとも、彼女がそれを気にしているとは、まったく思えはしないのだが。

 常に誰よりも彼らに肉薄するアンジェリカは、だからこそ、現状を誰よりも理解している。無駄な銃撃と承知していたところで、手心を加えるつもりも毛頭ない。

 それを『昨日今日の付き合いじゃない』ニーオやエレも知っていた。

 彼女の放つ弾丸は流れ弾どころか、常にニーオの逃げ道を塞ぐためのものなのだ。


 彼の進路を塞ごうとする銃弾を避けながら、それでもニーオは退路を駆ける。

 乱暴に押し開けた扉が再び閉じる大きな音が届いた瞬間、エレが運転する小型車は博物館の裏手の道路へと滑り込んだ。


 窓を開けると、夜の大気に漏れ出す、イヤフォン越しではない警報が車内に押し寄せてくる。

 黒い鉄格子の外壁越しに、石造り……石灰岩の白い宮殿がぼんやりと浮かんでいた。ライトアップの時間が過ぎているため、正面玄関前の広場を兼ねた広い庭以外に、その外観に目立った灯りはない。

 しかし、本来ならこの時間には点灯されていないはずの光が、宮殿のあらゆる窓から溢れ出していた。

 その光に照らし出されて、複数の人間が館内を駆けまわっているのが見える。慎重に階上へ向かう、一連の人影もある。

 間もなく警察も駆けつけるだろう。

 宮殿を振り仰いだエレの目が、白い壁に規則的に並ぶ窓の五階部分へと走った。装飾的な円柱を挟んで、かつての鎧戸に使われた城の窓枠をそのまま生かしたそれらは、アーチを描く観音開きの格子窓だ。


 そのひとつが、今まさに押し開けられたところだった。

 外からは画一的に見えるその窓は、しかし、他のそれと違って廊下に面してはいないことを、エレは知っていた。外からでは区別の付けようがないそれは、ちょうど男性トイレの位置に当たる。

 昼間、人目を避けて密かにその留め金を壊しておいた、『イレギュラーな事態が起こった場合』の脱出口である。

 もちろん、閉館後にその異常は警備員に発見されてはいただろうが、そもそも庭を含めた敷地内の巡回を一時間置きに行い、常に警備員が常駐している館内だ。足場もない五階の窓からの侵入の可能性は、特に可及的速やかに対処するほどの警戒ランクとは、やはり考えられることはなかったのだろう。即日の修理要請は彼らの期待通り、されてはいなかったようだ。


 カツン、とイヤフォンから硬い音が届く。

 同時に遥か高い位置にある窓から、ひらりと身軽に男の影が飛び降りるのをエレは見た。

 常人に限らず、翼のない生き物が飛び降りて無事に済むはずのない高さを落下した男は、しかし、危なげなく着地した。曲げた膝で衝撃をわずかながらに吸収し、受け身の要領でくるりと前転する。

 そして、立ち上がりざま駆け出した。


 博物館の窓から漏れる光が、こちらへと走り寄る男のシルエットを浮かび上がらせる。

 まだ、館内の警備員達は内部からの脱出者に気付いていない。

 息を詰めて、エレはそれを黒い鉄格子越しに見つめた。

 腰高に積まれた煉瓦上に聳える黒い鉄格子は、優に三メートルはある。その先端は、やじりのような串刺し用の鹿角砦ろっかくさいだ。───クラシカルな防御柵のその天を衝く鏃に、閉館後、高電圧の電流が流されていることは、おおやけにされてはいない。

 もろろん、その黒い鋼の間に人が擦り抜けられるほどの幅はない。

 一息に暗い敷地を駆け抜けてきた男はそのままの勢いで、越えることが不可能であるはずの鉄格子へと迫る。

 激突する寸前、男の脚が強く地を蹴った。

 まるで重力を振り切ったかのように、軽々と男の体は鹿角砦の上空を通過していた。くるり、とまるで猫のように反転して、男が小型車の傍に降り立つ。


 次の瞬間、素早く扉を開けて男は車内に滑り込んでいた。それを確認するや否や、エレは車を急発進させた。

 背後で騒ぎが起こる気配を感じながら、即座に最初の交差点を曲がる。そのままスピードを落とすことなく、夜の街角を右へ左へと小型車は疾走していく。

 一見、出鱈目のような進路は、こちらに向かっているだろう警察車両との遭遇を避けるための迂回だ。もちろん、最終的には国外へ出るルートへと繋がる道を辿っている。


 狭い裏道に必死にハンドルを握るエレの隣で、息を弾ませていたニーオが改めて大きく息を吐いた。携帯端末からイヤフォンを引き抜きながら、僅かに首を傾ける。

「待たせたな」

「───怪我はないのか?」

 笑う気配とともに髪をかき混ぜられて、エレはこっそりと息を吐いた。ニーオが窓から脱出してここまで、一分弱。彼が無事なら、逃げ切るには十分なタイミングだった。


 その気が緩んだ空気をまるで読んだかのように、突然、声が割り込んだ。

「呆れた」

 それは、今までイヤフォン越しに聞いていた女の声だった。

 携帯端末からのそれは、扉の閉められた男性トイレの中からのものであるせいか警報も小さく、何ものに阻まれることもなく、明瞭にふたりの耳に届いた。

「真夜中とはいえ、あんな子供に車の運転をさせるなんて。誰かに目撃されたら、それだけで大騒ぎになるでしょうに」

 ニーオが脱出の際に投げ捨てたワイヤレス・マイクに向かって、わざわざ言っているのだろう。言葉通りに呆れた仕草で首を振るその姿さえ見えるようだ。

 きっと、閉ざされた複数の個室の扉の前を通り過ぎ、開かれたままの窓とその手前に落ちているマイクの前で、アンジェリカは腕組みでもして佇んでいることだろう。

 投げられる声には、ニーオを回収して走り去った小型車を運転していた人間が、実年齢よりもさらに幼い容姿をしていることを知っているからこその、その無謀さを窘める響きすらあった。

 もっとも言葉として届けられるものは、立派な嫌味に他ならないのだが。


「施設侵入より、未成年者の自動車運転の方が発覚の可能性が高いくらい、少し考えればわかりそうなものよね。考えなしなのかしら。いい歳して、常識も知らないと見えるわ」

『敵』が投げ捨てていった通信装置に向かって、堂々と嫌味混じりの忠告をしてくる彼女に常識云々を持ち出されたニーオが、隣で苦笑する気配がする。

「まあ、考えなしのたわけでもなければ、こんな馬鹿な事を続けられはしないでしょうけれど。……そろそろ七年。あなた達を自由にさせているのも、上部うえには我慢の限界のようよ」

 わずかに、その声が孕む響きが変わった。

組織こちらの追跡者が増強されるわ」

 そして、硬い物が潰され破壊される音と共に、携帯端末が沈黙した。


 黙ったままニーオが手を伸ばし、携帯端末の電源を切る。ハンドルを切りながら、エレはそんな男を横目でそっと眺めた。

 街灯の光が時折浮かび上がらせる男の端正な顔は、特に表立った感情を浮かべてはいない。後へと撫でつけた赤みがかった茶色の髪も、鋭い灰色の瞳も、偽装のための警備員の制服を纏った鍛えられた体躯も、薄暗い車内で今は闇に沈んでいる。

 それでもエレは、男がわずかに目を伏せ、考えを巡らせていることだけは察していた。


 ワイヤレス・マイクを踏み潰して彼らとの接触の証拠を隠滅したアンジェリカが、今さら偽の情報を流すとも思えない。

 彼女の思惑は知らない。常に彼らに最も肉薄するアンジェリカが、けれど、毎回確かに彼らを見逃している節があることだけが、ニーオやエレの知る全てだった。


 最初は───これは実際に過失で落として現場に残してしまった通信機に、アンジェリカが話しかけてきたことから、この密かな接触は始まった。


 ───そちらにせよ、こちらにせよ。どちらの陣営も、あなたという器が満ちるまでしか猶予を与える気はないわ。それは、そう長い時間じゃない。ちゃんと、わかっているの?


 以来、時折ニーオは、彼女に対して情報のチャンネルを開いたまま逃走するようになったのである。


 小型車は、深夜の街中から郊外へ向かって走り続けている。やや遠回りをしながら国境へ向かうのは、人目を避け……追跡者に尻尾を掴ませないためだ。

「……さて。アンジェリカの忠告もある。エレ、運転を代わろう」

 やがて、何事もなかったかのようにニーオが首を巡らせて、エレに言った。

「うん」

 確かに彼が運転を続けていては、何時、見咎めた誰かに通報されるとも知れない。素直に頷いて、エレは道端に車を停めた。


 シートベルトを外し、ニーオが一度車外に出て車を回り込もうと扉を開けた時だった。

 電源を切ったはずの携帯端末が、突然起動したのである。

 車内を照らす光に、ふたりは反射的に視線を走らせた。


「───聞いているか、仁尾?」

「───皆川か」

 携帯端末から聞こえる声は掠れたしゃがれ声で、その持ち主の年齢さえ判別し難いものだった。

 ニーオも会ったことはないという声の主は、淡々と言葉を継いだ。

「サクリファイスの死亡を観測した」

 ニーオの表情が一気に険しくなる。息を吸い込んで……吐き出した言葉は、まるで食い縛った歯の隙間から絞り出すようなものだった。

「───何処だ?」

「トゥームセラ。十四時間前のことだ」

「ずいぶんと、確認に時間がかかったものだな」

「あちらの妨害があったのだろう。奴らには時間を稼ぎ、先回りすることでしか、おまえ達を押さえられる可能性がないからな」

 低く不穏なニーオの声にも常と同じ無関心さで、しゃがれた声は言葉を返す。まさに他人事として、罠が張られているだろう旨を示唆した対手に、そしてニーオの返答も簡潔なものだった。

「了解した。すぐに向かう」

 返答はない。たったそれだけの会話で用は済んだとばかりに、一方的に携帯端末は彼らの目の前で全ての機能を停止したのである。

 再び闇に沈んだ車内に、沈黙が重く舞い降りた。


「……ニーオ」

 思わず呼びかけたエレの声に振り返った男の顔には、隠しきれない苦渋が満ちていた。

 けれど、それでも。

 向き合ったエレの表情に何を読み取ったのか。───あるいは、何を思ったのか。

 一度瞬かせた灰色の瞳に、優しい表情いろが過る。そしてニーオは、その唇の片隅を苦笑の形に引き上げた。

「大丈夫だ。……手伝え、エレ」


 命令の形をした要請は、けれど、己の痛みをひとりで呑み込んだりはしない、と告げるものに他ならなかった。

 笑って差し出されたそれは、何もかも自分ひとりで背負おうとしてしまうニーオから、エレが四年をかけてようやく獲得した大切な信頼ことばだった。

 最初は、弱くても情けなくても、それでも傍にいて彼の重荷を背負う手伝いがしたいのだ、と訴えたエレに根負けして……あるいは絆されて、返された同意に過ぎなかった。


 けれど今は、ニーオが本当に自分を必要としてくれていると信じられるから。


 罠の存在を前にしても、サクリファイスの惨劇を目の当たりにすることが分かっていても───それでも、ニーオは差し出してくれたのだ。頼みであり、許可であり、『当てにしている』という期待でもある、信頼を。


 だから、エレはいつものように決然と頷いてみせた。

「───任せろ」

 真剣な表情で答えたエレに、男は目を細め、黙ってその肩先を手の甲で叩いて笑った。


 ニーオが必要としてくれる。傍にいて、彼を助けられる。

 エレにとっては、それで十分なのだ。それ以外に、望むことなど何もない。

 ───二度と失態は繰り返さない。

 絶対に。


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