1-1 深夜の博物館1

「失敗した……」

 昨夜の失態を思い返して、エレは頭を抱えた。思わず小さな唸り声が漏れるのも、今は止めようがない。


 自分がニーオと共にいるのは、決して彼に心配をかけるためでも、責めるためでもないのに。甘やかして欲しいわけでも、面倒をかけたいわけでもないのに。

 まるで小さな子供のように怯えて震えていた自分を、彼が放っておけるはずなどない。

 それぐらい、わかっているのに。

 大失態だ。


 少年の唸り声以外、暗い車内は物音ひとつしない。ただひとつの例外は、エレの耳に着けられたイヤフォンからの微かな物音だけだった。

 ニーオが身につけているワイヤレス・マイクは一方的に音声を送ってくるだけで、当然のことながら、こちらからの音声は彼には聞こえない。

 わかっていても、思わず漏れた独り言や溜息がニーオに届いてしまいそうな気がして、ますますエレは眉根を寄せた。

 八つ当たりのように、乱暴にシートに背を預け直す。

 小さな体に合わせて最大限にハンドルに近付けたシートのせいで、シートベルトはエレの首元近くにまで迫っている。アクセルを踏むのにも少々苦しいぐらいだが、エレはそれを外そうとはしなかった。

 いつでも発車出来るように……小さな体が乱暴な運転であっても振りまわされないように、自分自身をシートに縛りつけておく必要性を、少年は理解していたのだ。

 自己嫌悪を振り払いたくて、エレはもう一度大きく溜息を吐いた。


 一夜明けて……否、一昼夜が過ぎて意識りせいがしっかりと己を律している今は、昨夜の自分の有様を思い返すだけで恥ずかしかった。

 あれでは、ニーオに心配をかけて、責めて、甘えているのも同然だったからだ。意識あたまは彼と同等───それは無理でも、せめて助けとなれる存在───でありたいと思っているのに、無意識こころは未だ彼に庇護されていたいと甘えているようで、居たたまれなかった。


 ちゃんと目が覚めて───意識がしっかりしている間は、どんなに嫌な記憶も心の奥に仕舞い込んでいられる。……少なくとも、仕舞い込んでいると思い込める。

 けれど意識の制御を失う眠りの中では、そんな思い上がりは、いとも容易く砕かれてしまった。

 押し込めて忘れたふりをしているそれは、あっけなく心の奥の封印を抉じ開けて、かつてのあの恐怖へと、エレを引き摺り戻したからだ。

 何度も何度も、夜毎に蘇るあのおぞましい日々いたみは、快復していく現実の肉体よりも、よほど長く、酷く、エレを苛んだ。泣きながら悲鳴を上げて飛び起きる自分を、根気強く受け止め続けてくれたニーオがいなければ、遠からず気が狂っていたのではないかと、今でもエレは思う。

 それでも四年という時間と共にゆっくりと、かつての記憶いたみは心の奥に沈んで、這い上がってくることも稀になっていたのに。

『仕事』の決行が迫るにつれて、ここのところ、夢に紛れ込むようにじわじわと記憶が滲み出してきているような自覚が、確かにエレにはあったのだ。

 そして、ついに昨夜、それは再びエレに襲いかかってきたのである。


 エレ自身が自覚していたぐらいだ。もしかしたら、ニーオもそれに気づいていて……昨夜は最初から眠らずに、エレの様子を窺っていてくれたのかもしれなかった。


 失態だ。

『仕事』決行の前夜だというのに、ニーオの休息を奪うような真似をしてしまった。

 彼の優しさに甘えるだけの、足手纏いにだけはなりたくないのに。


 再び頭を抱えたくなるのを堪えて、フロントガラス越しに星空を遮る木立の影を眺める少年の青い瞳が、ふいに歪んだ。


 否。そうではないことぐらい、本当はエレにだってわかっている。


 本当は……ただ、怖いのだ。

 足手纏いだから降りろ、と───万が一にもニーオに宣告されたら。

 たとえそれがエレの身を気づかっての言葉だったとしても、もうおまえはいらない、と言われたら。


 そう思うだけで、冷たいものが足元から這い上がってくる。それは、あの日々に引き戻されることと、ほとんど同等の恐怖だった。

 再び見捨てられるかもしれない己へのそれと。

 ニーオを、ひとりにしてしまう───機会を、失ってしまいかねないというそれと。

 他の誰でもない自分自身の弱さが引き起こすかもしれない事態を、何よりも不安に思っているくせに、どうすることも出来ずに怖がるばかりの己の滑稽さに……それでもニーオの傍にいたいと願ってしまう己の自分勝手さに、エレは奥歯を噛みしめずにはいられなかった。


 どうしようもないだ。


 イヤフォン越しに状況を傾聴し続けなければならない落ち着かなさと、密かな落ち込みにどっぷりと浸かっていた時間は、しかし、長くは続かなかった。


 小さな、金属が金属を打つ音が聞こえたのである。

 その瞬間、エレは飛び起きた。

 それが撃鉄を起こす音だと認識する前に、差し込んだままだったキーを押し回す。静まり返った大気とエレの体を、たちまち低い振動が震わせた。


「……アンジェリカか」

 イヤフォンから、ニーオの落ち着き払った声がする。


 小さな褐色の手がギアを入れ、サイドブレーキを引く。

 ヘッドライトは点けない。エレの目であれば、月明かりがあればメーターの表示も街灯の光が届かない裏通りも、さしたる問題もなく見通せる。


「遅かったかしら?」

 イヤフォンの先、ダッシュボードに据え付けたスタンドに立てられた携帯端末から、今度は若い女の声が聞こえた。エレもよく知るその声に、一気に焦燥が押し寄せる。


 ───どちらの陣営にしても、まだ俺を殺しはしないだろう。


 皮肉めいた笑みを唇の端に刻んでニーオが言ったことは、事実だとエレも思う。けれど、では彼らがニーオを傷つけないかと言えば、それはまた別の問題だった。

 殺さないまでも、彼らがニーオに危害を加えることは十分有り得るのだ。


 力一杯踏みつけたい衝動を抑えて、エレはゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 公園の木立ちの陰に停車していた小型車は、そして静かに車道へと進入したのである。

 オフィスビルの立ち並ぶ深夜の裏通りとはいえ、監視カメラはあらゆる場所に設置されている。ライトひとつ点灯していない小型車はそれなりに不審ではあろうが、あからさまに異常な速度を出しさえしなければ、すぐに監視員の注意を引くことはないはずだ。


「そうだな。もうこちらの用は済んだところだ」

 急き立てられる思いのまま幹線道路に乗り入れたエレの耳に、ニーオの声、そして、女のものだろうブーツが床を打つ音が届いた。それだけで、見えずともエレにはその場の状況を思い描くことが出来てしまった。

 薄暗い部屋の中に踏み込んだアンジェリカの緩やかに波打つ髪が揺れ、その手の中にあるであろうリボルバーが、非常灯の光を一瞬だけ反射させるその光景を。


 昼間ニーオとふたりで二度目の下見に出かけた博物館は、この国でも屈指の歴史とその広大さを誇っている。三つの棟から成るかつては宮殿であった石造りの建物の東棟五階、その展示室のひとつに今この瞬間、ニーオはいた。

 ワニスで磨き上げられ、その上に立つ人間の姿を映し出すほどだった黒光りのする床も、はしばみ色の壁紙も、今は薄闇に沈んでいるだろう。非常灯だけという心もとない光が、かろうじて闇を払うそこは、隣の展示室へと抜けるふたつの広い出入り口の脇に掲げられた巨大なパネルと、向かい合う壁一面を覆う巨大なガラスカバー、そして中央に幾つかの黒い台座に置かれたガラスケースだけがあるという広い空間だ。

 そして壁際のガラスや、中央のガラスケースに保護されたその中には、中世から残る修道院の地下から発見されたという膨大な遺物の一部が展示されている。

 美しい宗教画。羊皮紙の書簡。燭台。今にもバラバラに解けそうな古い書物。聖水の塗布に使われたであろう、永い年月にくすんだ金の杯───。

 歴史的価値こそあれ特に変哲もないコーナーのひとつとして、この博物館の一部を担う部屋だった。

 ───その同じ修道院の地下から、夥しい数の子供の遺骨が発掘されたことが公表されていれば、人々の見方もがらりと変わりはしただろうが。


 微かな衣擦れが聞こえる。台座の前に跪いていたニーオが、立ち上がったのだろう。

「ここには、この国の重要文化財が数多く展示されている。そんな物騒な物を振りまわすのは危険なのではないか?」

 一歩、また一歩と踏みしめるように近づいてくる女に、きっとニーオは身構えることもなく、それを眺めている。

「あら」女が小さく笑った。「この私が、流れ弾を撃つなんてドジを踏むとでも?」

「思わんな」

「そうよ。私の銃口が狙うのは、あなただけ。外すわけなんてないでしょう、ニイオ」

 ニーオが、その広い肩を竦める気配がした。

「どうしてここがわかった?」

「昨日今日の付き合いじゃないでしょう? あなた達の行動にも、それなりに見当が付くというものよ」

「猟犬並みだな。アンジェリカ」ふん、とニーオが鼻で笑った。「ずいぶんと鼻の利くことだ」

「あら。そんなにあなたたち、自分が臭うような心当たりでもあるのかしら?」

 揶揄うように、アンジェリカが答える。


 もっとも、あらゆる神殿、宮殿、施設、果ては個人の家に至るまで人知れず侵入することに長けた彼らの───ニーオとエレのそれであり、アンジェリカ自身のそれでもある───気配は、まさにその実績を証明するかのようにひどく薄い。いわんや、その体臭の薄さともなれば推して知るべしというものである。


 ふとアンジェリカの口調が変わった。

「……坊やの姿が見えないわね」


 ───俺、もう十七なんだけどな。

 内心で呟くのは、きりきりと痛む心臓を宥めたかったからだ。ハンドルを切って、エレは素早く周囲に目を走らせる。人通りのない石畳の歩道。建ち並ぶ石造りの建物の、リノベーションされたそれだけは近代的な大きなショーウィンドウに灯される、小さな灯り。

 寝静まった街に、石畳を踏んで突進する小型車の走行音だけが響く。

目的地まで、あと二分の距離だ。


「子供は、もう寝る時間だからな」

 飄々とニーオが返す。

「あらそう。それじゃあ、大人の時間に相応しいことをしない?」

「はしたないぞ、アンジェリカ」

「今さら」


 笑いを含んだ声のその余韻を、突然、銃声が掻き消した。

 直後に、硬い何かが弾ける鋭い音が響く。

 エレの心臓が跳ねた。

 サイレンサーさえ装着しないアンジェリカの無頓着さは、後始末を請け負う組織の───彼女が属するそれの、権力の絶大さに裏打ちされている。実際、国の重要文化財の一つや二つ破損したところで、彼女達には何の痛痒もありはしないのだろう。

 ましてや、人ひとりの命など。


 一瞬、目の前が暗くなるように、血の気が引くのをエレは感じた。


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