サクリファイス・エンジェル
高柴沙紀
プロローグ エレとニーオ
体のあちこちで、無数の小さな何かが、這いずりまわっている。
ぎち……っ、ぎち……っと、蠢くその感触は皮膚の上、からのものではない。永遠とも思える長い時間、食い荒らされてきた肉の狭間から、それは伝わってくる。
体内でざわざわと小さな何かが沸き立つようなおぞましい感触は、既に麻痺しかかってただひたすらに鈍く響く痛みよりも、よほど子供にとって恐ろしいものだった。
どんな変貌を遂げているのかもわからぬ己の体の中で、暴虐の限りを尽くしているモノ達のその感触に、子供は、もはや小刻みに体を震わせることしか出来はしない。荒い己の息遣いだけが、まだ無事な耳に届くばかりだった。
ふいに。
ぶちり、と体の奥で何かが食い千切られた。
「───っ!!」
激痛に、しかし子供の唇から吐き出されたのは、鋭い呼気だけだ。すでに声帯は食い尽くされている。
───痛い……っ!
堪らず、横たわったままの小さな体が本能的に転げ回ろうとする。しかしそんなことすらも、もはや子供には叶わなかった。
左腕は、すでに肩から腐り落ちている。右腕も、肘から先がない。脚は、もとより一番先に削り取られた。
痛みに身を捩ることさえ出来ず、びく、びく、と痙攣するようにのたうつ体は、それでも申し訳程度に清潔な検査着に包まれている。その下肢には管が取り付けられ、排泄した尿を別の場所に送り込んでいた。点滴で生かされている体には───ほとんど内臓がその機能を停止している体には、生かしておくだけならば、それだけでまさに十分なのだろう。
己が転がされているこの床もまた、きれいに掃除された絨毯が敷かれていることを、子供は覚えていた。まだ目が見えていた頃、視界に入る色彩といえば、その生成りの絨毯ぐらいのものだったからだ。
四方を囲む白い壁と、天井近くに小さく取られた明かり取りの窓。そして床に絨毯を敷いただけの、それが、子供が押し込められた部屋の全てだった。寝台などという物すらない。人としての扱いなど最初から考慮されていない、けれどかろうじて衛生的と呼べる程度の、それは独房だった。
───痛い。
───怖い。
失った声の代わりに流れ続けている涙が、溶け始めた頬に混ざり続ける。
───痛いよお。
嗚咽が、弱々しく喉を震わせる。
火花があがるように鋭い痛みを弾けさせながら、体の中をたくさんの小さな何かが這いずりまわっている。子供自身には見えないそれが、子供には小さな虫に思えて仕方がなかった。強靭な顎を持つ───あるいは牙を持つ足のない虫。
子供の体を食い千切りながら這いまわる、たくさんの虫。
しゃくりあげる息が、仰向けになったままの胸を激しく上下させる。
───痛い。
───怖い。
───助けて。
ぶつり、と耳の奥で音がする。
───痛……っ!
自分で見ることの出来ない皮膚が、たくさんの小さな何かに押し上げられている。まるで布の下で何かが動き回っているかのように、自分の肌の下で、ぎちぎちと、何かが蠢いている。
考えたくもないのに脳裏に思い浮かぶその姿に、ますます子供は怯えた。
鋭い呼気が、唇から吐き出される。食い千切られた小さな体が弱々しく、絶えずのたうちまわる。
すでに泣き叫ぶ体力もない子供の首筋で、ぶつり、と肉が弾けた。
白い検査着に、新たな赤い飛沫が飛び散る。
───痛い……っ!!
泣き叫ぶ声は、悲鳴のような呼気にしかならない。
───痛い。痛い。怖い。どうして。助けて。怖い。痛いよ。助けて。どうして。痛いよ。怖いよ。痛い痛い痛い痛い怖いどうして怖い痛い痛い怖い痛い怖い怖い怖い痛い怖いどうしてどうしてどうしてどう……
「……レ! エレ! エレフセリア!」
突然、閉ざされていた聴覚が、大きな声に抉じ開けられた。
次いで荒い呼吸音が押し寄せてくる。それが己のものだと理解する前に、弾かれたようにエレは目を開けた。
見開かれた瞳に、柔らかな光が差し込む。ベッドサイドに置かれたスタンドランプの光だと、三拍遅れて少年は気がついた。
そして、滲む視界にぼやけるその光に照らされた、ニーオの端正な顔にも。
ひく、と喉が鳴った。
その途端、心臓が狂ったように激しく脈打ち始める。息が出来ない。胸元の毛布を握る手に、本能的な力がこもった。
「……エレ」
少年が目を覚ますまで揺さぶっていたのだろう。ニーオの大きな掌が、彼の肩を包んでいた。
怯えさせないようにと慮っているのか、ゆっくりとそれが肩から離れ、少年の頬に伸ばされる。
温かな指先を頬に感じて、初めてエレは自分が泣いていたことに気がついた。頬から首筋を伝ってシーツを濡らす感触の冷たさに、ようやく意識が現実を認め始める。
夢だったのだ。
あれはもう、全て終わった……夢、なのだ。
震える胸が、つっかえながら息を吐き出した。
───夢、だったのだ。
瞬くと、新たな滴が頬に零れ落ちて、彼に触れている温かな指先をまた濡らした。そのことに、はっ、とエレは我に返った。
彼を見下ろすニーオは、ひどく辛そうな表情を浮かべていた。常の落ち着き払ったそれとは打って変わって、まるで悔いているかのように、その灰色の瞳が曇っている。
慌てて、エレは口角を引き上げた。
───駄目だ、笑え。
けれど、引き上げた唇の端が引き攣って歪むのが、自分でもわかってしまう。焦りのままに忙しなく瞬く瞳から零れる滴を、急いで拭った。
───笑え。この優しい人に、心配なんかさせないって決めただろう。
「ニーオ」
ごめん、大丈夫だから。
そう続くはずだった少年の言葉は、けれど、枕元に腰を下ろした男の手によって断ち切られてしまった。乱暴にはならない程度に、それでも強い力で引き寄せられたのだ。
シーツの上を僅かに滑った少年の額が、腰を下ろした男の大腿部に触れる。
「……無理をするな」
低い声が囁いた。
「あれから、まだ四年だ。そう簡単に忘れられるものではないだろう?」
頭上から降ってきたその声に、少年は息を呑んだ。
額を押しつけている夜着越しの肌も、後頭部をそっと撫でる大きな掌も、力強く温かかった。誰も助けてなどくれなかったあの頃の己が、ずっと、ずっと欲しかったぬくもりそのものに守られている現実が、ひどく胸に沁みてくる。
蘇ったあの頃の
抑える間もなく己の顔が歪むのを、エレはどうすることも出来なかった。耐えきれなくなって、ぎゅっと目を瞑る。
「…………っふ」
ぱたぱたと零れ落ちる涙と、喉を震わせる嗚咽は、けれど安堵のそれだった。
大丈夫。
強張っていた肩から、力が抜けた。激しく脈打っていた心臓が、その速度を緩めていく。ここは安全だと、体が先に理解したのだろう。
ニーオがいる。
もう、大丈夫。
「ふ……え……っ」
外見通りの、まるで十二、三歳の無力な子供のように、エレはしゃくりあげた。
大丈夫。───大丈夫。
「……エレ」
口ごもるような気配の後に、そっとニーオが呼びかけてくる声が聞こえた。
その言葉の先を遮るように、エレは男の脚に額を擦りつけて首を振った。男の夜着を、両手で握りしめる。
きっとニーオは、「すまない」と言おうとしている。それがエレには、わかっていた。
ニーオに謝ってほしいわけではない。ニーオが悪いわけではない。
もう何度もエレはそう言っているけれど、決してニーオはそうと思ってはくれない。
それでも、エレは知っているのだ。
ニーオが悪いわけではない。ニーオのせいではない。
───だから、謝らないで。
あんたは、俺を救ってくれたんだから。
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