おばけ大橋

津田梨乃

おばけ大橋

 三丁目手前にある踏切は、おばけ大橋と呼ばれていた。なぜ、そう呼ばれているかは地元の人も知らない。


 おばけ大橋を渡るときに奇妙なルールがある。

 誰かが言い出した。左側から踏切を渡る際、「待っていてあげないとダメ」だと。それは現代に慣れない妖怪たちに安全に渡ってもらうためという人もいれば、幽霊を引き合いに出す人もいる。神や仏という説もある。暑くなれば、悪魔だと騒ぎ出す人さえいる始末だ。

 何も信じず、あるいは知らずにわたる人も大勢いる。とても奇妙なルールだった。別に破ったから呪われるだとか、なにかに憑かれるということはない。礼儀、もしくは暗黙の了解、あるいは人々の共通認識。そういうものがあった。


 僕が初めて、おばけ大橋を渡ったのは、うだるように暑い夏のある日だった。蝉が途切れることなく鳴き喚き、べたべた湿気がまとわりつく嫌な日。僕が右側の歩道で電車の通過を待っていると、反対側で姉弟ふたりが何やら言い争っていた。


「待っていないといけないんだよ」

 弟くんは、華奢な体を大きく反らせてえらぶっていた。僕も彼くらいの歳の頃は、内容の有無を問わず、やたらと大げさに事を口にし、知っているという優越感に浸りたがったものだ。何だか微笑ましかった。お姉さんは、そんな弟くんを怪訝そうに見ながら「なんでよ」ととりあえず疑問を口にする。反対側で僕も同じことを口にしてみる。しばらく言葉の応酬が続いたようだが、踏切警報機のせいで、よく聞こえなかった。


「だって、渡りたがっているんだもん」

 やけにクリアに弟くんの声が聞こえた。なにが? 僕は、またしても疑問符を投げざるを得ない。しかしお姉さんは納得したのか、諦めたのか、はたまたどうでもよくなったのか「ふうん」と適当に相槌をするだけだった。弟くんの方も取り立てて説明しようとしない。僕は真相がわかる保証もないというのに、姉弟の近くに行くことにした。


 右側から渡ると白い目で見られるかもしれない。ふとそう思った。いったい誰に? わからない。とにかく、郷に入っては郷に従えという言葉もある。地元の風習に合わせ、徐々に一人暮らしという境遇に慣れるのもいいだろう。

 幸い、もう一本の回送列車がくるようで、踏切はまだ開く様子はなかった。車の合間を縫って行くのはなんだか気恥ずかしいので、最後尾の車の後ろを歩くように大きくそれて渡った。どこかで老婆が「そんなに気にしなくて大丈夫よ」と苦笑交じりに言った気がした。


 てっきり姉弟の真後ろになるかと思ったけれど、いつのまにか僕より年上の男性二人組と女子高生の二人組が列に加わっていた。男性たちは、しきりにうちわを振り仰ぎ、女子高生たちは、制汗スプレーをまき散らす。白桃と石鹸が混じった匂いが鼻孔をかすめた。さすがに、この四人をかき分けて姉弟にアタックする度胸はない。残念。謎は迷宮入りだ。


「ここ、待ってないといけないんだよね」


 おや、と思った。前方の女子高生の一人が話し始めたのだ。

「ああ、なんだっけ。急いで渡ろうとすると呪われる的な」

「違うって。これは、あれよ。お年寄りが渡ろうとしてたら、待つじゃん。普通に。あれと同じ感覚。せっかちに追い抜いても、ちょっと白い目で見られるだけで全力で怒られることはないでしょ」

「そんなもの?」

「そんなもの」

 何だか、ちぐはぐな会話だった。しばらく会話を聞いていても何を待つのか、その情報は得られない。


「いったい何を待つの?」

 うっかり口に出てしまった。いくら去年まで彼女たちと同じ高校生だったといっても、見知らぬ男が突然話しかける場面は、いかにも怪しい。僕は言い訳を試みようとしたが、うまい言葉は見つからなかった。

「幽霊よ」

 片方の子が、特に嫌な顔もせず答えてくれた。

「え? うちは神様って聞いたけど」

 もう一方の子が虚を突かれたように言い返す。「妖怪だよ!」とこちらの会話を聞いていたわけでもないだろうに弟くんが叫んでいるのが聞こえた。いったい何の話をしているんだと、男性二組が後ろと前を交互に振り返った。そのうち一人と目が合い、微妙な間ができる。なにごとでしょうね。なにごとでしょう。そんな会話を目だけで交した。


「待ってると、いいことがあるの」

 何か聞かないといけない気がして、無難な質問をした。呪いも祟りもないなら、逆に良いことがあるのではと考えるのは短絡的だろうか。女子高生二人は、互いに顔を見合わせた。


「それは――」


 やがて回送列車が通過し、黒と黄色の縞々棒が観念するように道を開けた。男性二人が歩き出そうとするが、動き出さない姉弟につんのめる形になってしまう。僕は女子高生二人の後ろでその様子をぼんやり眺めていた。ジジジと蝉が目の前を飛び去り、また遠くで鳴き始めた。


 弟くんは、なにやら基準があるのか、道の向こうをじっと見つめながら動かない。「待っている」のだろうか。一台目の車が踏切を渡りきる。牽制するように止まっていた後続車も踏切に侵入し、三台目が続くと思われた時、ようやく弟くんが「よし」と言って歩き出した。お姉さんは、スマートフォンに夢中で、弟くんに釣られるように歩を進めた。男性二人は顔を見合わせ、それに倣い、女子高生はもう駅前のアイスクリーム屋の話題で盛り上がっている。


 渡りきると、姉弟は消え、男性二人組もいなくなり、女子高生たちはもとから存在しなかった。

 僕は背後で鳴り響く踏切の音を聞きながら、アパートに戻った。

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おばけ大橋 津田梨乃 @tsutakakukaku

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