12 帰れる家があるんだから
*
母に教えられた病院まで、最寄り駅からタクシーに乗って向かった。大きな大学病院で、エントランスは人々で込み合っている。ちらほらと、松葉杖や車椅子を使っている人もいる。僕は彼らの邪魔にならないように受付に向かい、父の名前と事情を説明した。病室の番号と面会のバッジを受け取る。どうやら父は、今はもう病室にいるらしい。
エレベーターで八階まで上がり、独特の消毒液か何かの匂いのする廊下を抜けて父の部屋を目指す。一番奥にある病室前の表札には、知らない人に混じって父の名前があった。
扉をスライドさせて中に入る。カーテンに区切られた病室の、窓際のベッドに父はいた。
父は頭に、メロンについているような網状のネットを被っており、ベッドから上半身を起こして窓の外を眺めている。窓の外のバルコニーには白い花弁をたくさんつけた花が風に揺れていた。
「父さん」
僕が呼ぶと、父はゆっくりと振り向き、僕の名前を呼んだ。気難しそうな顔で「心配かけたな」と短く言い、頭を下げた。僕は父のそばに寄り、持ってきた鞄を置くと、ベッドの隣にあるパイプ椅子に腰かける。そばには母のいつも持ち歩いているハンドバッグが置いてあった。母はトイレにでも行っているのだろう。
「大丈夫なの? 僕は全然知らなかった」
「すまない」
「心配をかけたくなかったわけ?」
決まりの悪そうな顔で、わずかに頷いた。神妙なその顔には、緊張と不安だけではなく、若干の照れがあるように見える。今の僕には、なんとなくだけど、そうわかる。
「一昨日、兄さんに会ったよ」
「
「兄さんはニュージーランドで元気にやってるみたい」
「そうか。元気か」
父はやはり、以前と比べて痩せた。髪が白髪になっただけではない。頬はこけ落ち、老木のように深い皺が額や眉間に入っている。歳をとったというより、弱っている雰囲気だ。僕は、そんなことにも気づかなかったのかと後悔しながら、父に声をかけた。
「父さん、部屋の本棚を見たんだ」
父は逡巡するような間を置き、怪訝な表情をしたが、僕の言いたいことが伝わったらしく、ぱっと僕を一瞥すると、鼻の頭を掻きながらばつが悪そうに口元を歪めた。
「俺の親父はな、中卒で馬鹿だった」
僕は父の父、つまり祖父のことをあまり知らない。僕が生まれる前に亡くなったとだけ聞いたことがある。祖父の話になると父の機嫌が悪くなるので、話題にならない。そんな父の口から祖父の話が出るのは、初めてのことだった。
「社会システムを知らないと、騙されて利用される。親父は、馬鹿だったから利用されて借金をたくさん作った。ギャンブルにはまるように唆されて、まんまと騙され続けた。そのせいで、俺とお袋は貧乏で、苦しみ続けたんだ」
黙って聞いていると、父は虚空を見つめながら再び口を開いた。
「俺はずっと、あぁはなりたくない、と思いながら一生懸命生きてきた。高校を出たら、すぐに就職して、働いて金を稼いできた。これで貧乏から抜け出して幸せになれると思った。だけどな、社会はそんな単純なものじゃなかったんだよ。社会には見えない階級やシステムが存在してたんだ。俺は、それを知らなかった。だから、えらく苦労したよ。それから俺は、賢い立派な親父が欲しかったとずっと思い始めた。社会に出る前から色々なことを教わりたかった。俺に学歴や経済なんかの、システムをちゃんと教えてくれるような人がよかったと、そう思ってたんだ」
父さんは再び僕に視線を戻してゆっくりと言った。
「貴一が出て行ってからずっと考えている。父親として、何をするのが正しかったのか。俺たちは間違っているんじゃないか。どうするべきだったのか」
顔を歪め、声を振り絞るように、掠れた声で父は続ける。
「だけどな、わからなかったんだ。俺も母さんも、お前が学校を休んでいるのを見ても、どうするのが正しいのかわからないでいる。父親失格なのかもしれないが、父親をやめたくないと思っているし……すまないと思っている」
父さんは自分自身の弱さを隠すように、尊敬できる父親になろうとしていたのだろう。その結果、兄さんは家を飛び出してしまった。だけど、父さんは僕らの父さんになりたかったはずだ。きっと父さんも、何をしていいのかよくわからなかっただけなのだ。野球の本を読み、僕らとのキャッチボール思い描いていた父さんを想像する。想像し、胸の奥が締め付けられる。しかし、その痛みも僕らはなくすことができるはずだ。
僕は、もし父さんがおおらかな人だったとしても、今とさほど変わっていない気がする。僕の問題は、僕の問題だ。
「僕と兄さんが、森で遭難したこととか、流星群を見ようと夜に家を抜け出したことがあったでしょ?」
「懐かしいな」そんなこともあったかな、と父さんは少し頬を緩める。
「いつも、迎えにきてくれたじゃないか」
あの頃は、まだ三人で手を繋いで歩けていた。それが、時間が経って手遅れだからという理由で、できなくなる日がくるとは僕には何故だかあまり思えない。
父さんは眼鏡を外し、ゆっくりと顔をくしゃくしゃに歪ませ、瞳を涙で滲ませていった。ぽつりぽつりと、布団の上に水滴が落ちていく。父さんは鼻をすすり、右手で顔を抑え、短く声を洩らし続けた。今までの父さんからは想像できないほど、子どものように泣き声をあげていた。決壊したダムのように泣き出す父さんを見ても、僕は不思議と穏やかな気持ちだ。
僕は、ポケットから紙切れを取り出して、父さんの膝の上に置く。
「兄さん、まだ日本にいるから。仲直りするなら今だよ。僕らにはまだ、帰れる家があるんだから」
キャッチボールだって、できるかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます