11 僕の目標が決まったよ

       *


 学校を早退し、携帯電話で母に連絡を取ると、母はすでに父の搬送された病院にいるようだった。母の声は落ち着いているように聞こえるが、それが虚勢であると感じ取れるほど、言葉の節々は震えていた。


 母から父は長い間、耳の奥の平行感覚を司る器官を病んでいると教えられた。どうやらそれが悪化し、倒れて意識を失ったらしいのだ。僕はそのことを初耳だったが、今は隠されていたことをどうこう言っている場合ではないな、と言葉を飲み込んだ。命に別状はなさそうであるという医者の言葉の受け売りに僕は胸を撫で下ろす。


 何をすべきか訊ねてみたところ、母は「保険証をお願い」と言った。父はとりあえず検査を受けているようなのだが、どうやら保険証を携帯していなかったらしい。それは父の部屋にあるようだ。ついでに、数日分の下着なども持って行くか訊ねると、母は「ありがとう」と短く言って嗚咽を漏らした。


 家に帰ると、すぐに父の部屋の扉を開いた。室内は木製の家具で統一され、落ち着いている。壁は全て本棚で隠されており、プラスチックのファイルやバインダー、新書や単行本が隙間なく収められていた。父が読書家であるということを、今知った。


 この部屋に入るのは何年ぶりだろうか。僕は開け放たれた扉の前で、立ちすくむ。


 一呼吸置いてから一歩踏み出した。部屋の中は他の部屋と違う匂いがする。芳香剤とかそういうのではない。部屋にしみついている匂いだ。これは父の匂いなのだろうか。そんなことを思いながら、母に教えられた、父の机の上にあるカードケースを手に取る。プラスチック製のカードケースには、保険証だけでなく、病院の診察券やスーパーや薬局のポイントカードなども入っていた。父の意外な一面を知った気がする。


 何の気なく本棚を眺めていると、僕はあることに気が付いた。まさかと思い、他の本棚も見る。しかし、そのまさかは的中し、僕は息を呑み、言葉を失った。愕然とし、ただただ、本棚の前に立ち尽くす。


「おかえり、帰ってたのか」


 ココペリの声がしたが、振り返ることができない。そんな僕を不審に思ってか、ココペリは隣に立ち、僕の顔を覗き込むように見上げて「どうした?」と心配そうに訊ねてきた。


「ココペリ、ここの本」

「本がどうした? おー、お前の親父さんは結構本を読むようだな」


 父がこんなに本を読んでいるとは知らなかった。父はリビングにいる間は新聞やニュースばかり見ていた。いや、そもそも僕がリビングにいる時間が短かっただけなのかもしれない。本を読んでいるのを見かけたことがあっても、あまり気にしていなかった。


 しかし、だ。父の部屋の本棚に収められていたのは『親と子の楽しい関係』、『子育て大全Q&A』、『子どものための教育』、『これであなたもできるパパ』、『失敗しないお受験』など、育児や教育に関する本だらけだった。母親が読むべき妊娠中の本であるとか、赤ちゃんの子育てやしつけの本、家庭円満の秘訣や理想の父親像、そして自己啓発本に近いものまでたくさん揃えられている。


 そんな中に一冊だけ、子ども向けの野球の本があったが、僕には見覚えがない。父がこの本を読んだのだろうか? 手に取り、付箋がいくつか貼ってあることに気づく。付箋のページを開くと、キャッチボールの仕方であるとか、ノックの仕方などがイラスト付きで丁寧に記されていた。だが、僕の記憶では父と野球はおろか、キャッチボールをしたことも、一度としてない。


 バインダーに手を伸ばすと、そこにはミミズがうねっているような汚い字の作文がファイリングされていた。それは紛れもない、僕の文字だった。隣のページには小学校の時に受けた、足し算引き算のテストなどが収められている。僕は唇を噛み、激しくなる鼓動と目頭が熱くなるのを感じながら、何かにせかされるように、ファイルをどんどん手にして捲っていった。


 そこには、全ての僕と兄さんの作文やらテストやらが学年ごとにきちんと収められていた。幼稚園の頃に折った折り紙のセミや鶴までファイリングされている。全てを見終わっても、心臓が何かに焦るようにバクバクと脈打っている。今までに経験したことがない程動揺しているが、段々と、僕は理解していく。


 タイムマシンという言葉があるが、それに近いものを僕は感じていた。

 過去に帰ったような、それでいて今のこともちゃんとわかっているような、不思議な気分だ。達観しているとまでは言い切れないけど、一気に時間の流れと情報が自分の中に入っていき、僕は理解していく。父が必死に本を読み漁り、いい父親になろうともがいていた姿が目に浮かぶ。父が何を考えていたのか、僕らがどう感じていたのか。それは噛み合っていなかった。だけど、今は、不思議とそれがなんだか可愛らしく感じる。心地よいというか、温かい。嫌いじゃないし、むしろ憧れる。

 

 どのくらいの間、僕はここに佇んでいたのだろうか。静かに頬を流れていた涙をぬぐい、僕はファイルを閉じて、隣に立っていてくれているココペリを見た。ココペリは何やら不安そうな顔で僕を見ている。目が合うと、ココペリは口をぱくぱくとさせた。その様がなんだかおかしくて僕が笑うと、ココペリはむっとした。


「ココペリ、僕の目標が決まったよ」


 僕には、好きなことがあった。それは単純で、生きるための目標にしては平凡な気がするが、僕にとってはとても難しく、一番手に入れたいものだった。考えていたことを告げると、ココペリは柔和な笑みを浮かべ、「いいじゃないか」と言ってくれた。


「私は、素敵な願いだと思うぞ」

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