9 花が咲くわけないだろ

       *


 家に帰り、二階の自分の部屋に向かう途中、階段を上っているあたりから何か音が聞こえた。高く、不思議なメロディだ。神秘的と言うよりは、子どもが笛をでたらめに吹いているような感じだった。


 部屋の前で立ち止まる。どうやら、というかやはり、この笛の音は僕の部屋から聞こえてきている。僕は五分くらい立ち聴きをし、音が止んでから部屋に入った。昨夜の青い花を見て、ココペリがたまには笛を吹くかと思ったのかもしれない。いつも彼の笛は、僕の部屋の窓辺に立てかけてある。持ち歩く姿はよく見るけど、いじってる姿はおろか、演奏を聴いたことがなかったので、僕は驚いていた。


 ココペリは僕が部屋に入ると、厭らしい本を読んでいるのが見つかった中学生のように、ぱっと笛を手放した。黒々とした目はきょろきょろとせわしなく動き、「おかえり、早かったじゃないか」と言う声は上擦っている。


「珍しいね。というか、初めて聴いたよ。ココペリの笛」


 ココペリは鹿爪らしい顔になり、そっと放り出した笛を拾った。形としてはスウェーデンのバクパイプや、サクスフォンに似ている。ココペリ曰く、その笛を吹きながら、田畑の作物や植物が育つよう祈願するらしい。


「そうやって、いつもこっそり吹いてたの?」


 僕がそう訊ねると、ココペリは決まりが悪そうに眼を細め、顔をそらした。何か、まずいことでも訊ねてしまったかと焦ったが、ココペリは少しもじもじとしている。


「いや、吹くのは本当に久々だな。で、私の笛はどうだった?」


「不思議な感じだね。なんというかさ」言葉を選んでいると、ココペリに「率直な感想を言ってくれ」と言われた。


「なんというか、あれはあえてなの? そういう曲なのかな。なんだか子どもが遊んでるみたいに聞こえた」


 すると、ココペリはがっくりと肩を落として長い息を吐いた。「素人の感想だから」と慌ててフォローするが、「いいんだ。大丈夫。わかってることだ」とココペリは呟いた。


「どういうこと? 精霊の笛とか初めて聞いたから、僕の価値観がずれてるだけかもよ」


 僕は、机の脇に鞄を置いて、椅子に腰かけた。ぎしっと椅子が軋む音がする。そのまま椅子を回転させてココペリの方を向く。


「本当はそれはそれは美しいメロディなんだが、私は笛が下手になってしまったんだよ。だから、あんまり笛を吹きたくないんだ」

「なんで下手になっちゃったの?」


 ココペリは怪訝な顔をし、話そうか話すまいか躊躇したが、まぁ話すかといった様子で頭を掻きながら僕を見た。


「私は広大なアメリカの大地で、色々な場所を移り住んでたんだ。長い間生きてるから、色んなところを見てみようと旅をしていたわけだ」


 僕はうんうんと相槌を打つ。しかし、ココペリは話しを止め、腕を組み、うーんと唸るばかりになってしまった。あれ? と思い、話を促そうかと思ったところでココペリが再び口を開いた。


「自分の家にゴミを捨てられると、いい気分はしないよな?」

「え? あぁ、そうだね」何のことだかわからないが、同意する。

「私が住んでいたところを、人間がゴミ捨て場にしたんだよ。インディアンたちもいなくなってしまったしな。人間の願い事も、私利私欲のためって感じがして、聞いてやりたくなくなったんだ。それで私はへそを曲げて、しばらく笛を吹かなかった。そう、笛を吹かなくなったんだ。そうしたらその期間が長かったからか、上手く吹けなくなってしまった。だから、いつの間にか祈れなくなったんだよ。笛が壊れたのか、私が悪いのか」


 昨夜の自嘲的なあの笑みはそういう意味だったのか、と納得する。「なんだか、大変だね」


「なんだか大変だね、の一言ですますからお前はすごいよ。人間のために笛が吹けなくなったなんて、一大事なんだぞ。自分の役目を、誇りを失ったんだ。まぁいい。そうなんだ。今でも人間の願い事を叶えてやろうとは思えないんだが、そういうのを抜きにしても、今の私は花を咲かせるための能力もないんだよ」

「昨夜もそれで、笛を吹かなかったわけだ」

「へたくそな笛を吹くのは、情けないやら悲しいやらで躊躇してしまうんだな……まぁ、だから笛に頼らずに祈りができないかを日々、研究しているんだ、私は」


 漠然としたことしかわからないが、間が空いてしまって吹けなくなったということだろう。僕も、リコーダーを吹いてみろと言われたら、今はもうどうやればファやソの音が出るかわからない。


「あっ、じゃあさあ」僕はそう言いながら、勉強机の一番下の引き出しを開けてリコーダーを取り出した。小学生の時に使っていたソプラノリコーダーだ。

「これで練習してみたら? 上手になったらやる気も出て、お祈りもできるかもよ?」


 僕がリコーダーを差し出すと、ココペリはまた、滑稽といった感じで口をぱくぱく開けて笑い声をあげた。「森野、お前のそういうところを私は嫌いではないよ」


「ひょっとして、馬鹿にされてる?」

「してないしてない。リコーダーで祈りができるかこの阿呆、とかも思っていない」


 馬鹿にされてるな? と複雑な気持ちになりながら、他人の心配をしてる場合ではないぞと思い出す。鞄の中から進路希望調査用紙を取り出し、机の上に置いた。志望大学や学部の名前を三つと、職業や備考などの記入欄が作られている。とりあえず、クラスと名前を書いてみたものの、人はこれを白紙と呼ぶだろう。


「ニュージーランド、ココペリは行きたい?」

「いいや」


 即答であることと、否定されたことに僕は驚いた。「行きたくないわけ?」と声をあげる僕に、やれやれといった様子でココペリは首を横に振る。


「私は、別に自然がたくさんあるところに行きたいわけじゃない」

「そうなんだ。てっきり、自然に囲まれて暮らしたいのかと思ってた」

「もし、そうなのだとしたら、私は別にここにいないだろう」

「確かに」

「私は人の願いを届けるのが役目だ」


 役目かーと思いながら、僕の役目はなんだろうかと考える。進路希望調査用紙を持ち、眉をひそめる。


「何なんだ? それは」ベッドにのそのそと上がりながら、ココペリが訊ねてきた。

「これにさ、高校卒業してからどうするかとか書かなきゃいけないんだよ。まぁ願い事を書くみたいなものだね」

「書けばいいじゃないか」

「それが決まらないんじゃないか」


 ココペリは僕の言っていることがわからないようで、首を傾げている。白紙である進路希望調査用紙はまだ、真っ白で、今はまだ何でも想像し放題だ。ただ、一度その白紙に地図を書きこんでしまえば、そこに向かわなくては行けない気がするし、それが間違っていたら取り返しがつかないのではないかと尻込みしてしまう。


「とりあえず、やりたいことを書いておけばいいんじゃないのか?」

「まぁ、そうなんだろうけど」


 そうなんだろうけど、それがないのだ。「何でもできる」の何でもと、「何かしたい」の何かがない。目的が無ければ、行き先を決めなければ、地図は機能を果たさない。何か自分の力を生かせることはないか? と考えてみるが、思いつかない。


 ココペリは僕のベッドに上がり、あぐらをかき、僕を見据える。あぁ、これは説教タイムに突入したぞ、とわかる。


「お前はニュージーランドに行きたいのか?」

「いや、まだ決めてない」

「私が思うに、お前はニュージーランドに行っても何も変わらんぞ。キーウィみたいにぼーっと暮らしたいとか思ってるんじゃないだろうな? それはキーウィに失礼だぞ」

「そんなこと思ってないって。新しい環境になったら、ちゃんとするかもしれないよ?」


 僕はとりあえず、反論を試みる。しかしその根拠はない。それ故に、呆気なくココペリに一蹴された。


「お前は、自分の目的を持っていないのだ」


 いくつか思いつく言い訳を作ってみたが、それは喉まできて、また体の奥底に戻って行った。返す言葉がない。僕には目的がない。それは自明で、ふわふわ生きている今現在の全ての原因だった。


 幼い頃から、兄さんの背中を追ってきた。兄さんが出かければついて行き、勉強すれば自分もやり、受験すれば受験した。僕は考えることをやめていたのだ。だから、兄さんのように憤りを感じたこともない。それだけだったのだ。何かを自分の中で見つけて、追いかけたことがなかった。僕が留学するかを決断できないのだって、それが原因だ。目指しているものがないから、選択しない。きっと、高校に通わなくなったのも、そんな理由だろう。高校に通って自分が最終的にどうなるのかを、目的がないからイメージできないでいる。だから、高校に通わなければならない理由が、わからなくなったのだ。


「お前は種をまいていないのだから、花が咲くわけないだろ」


 ごもっとも。反論の余地はない。その言葉は強く、僕の中に沈んでいった。


 僕は、どんな花を咲かせたいのかを考えていないのだ。


 じゃあ一体、僕のしたいことは何なのだろうか。好きなことはあるのだろうか。


「ねぇ、僕に向いていることって何かないかな? 参考までに」


 自分でそれくらい考えろ、と怒られるのではないか? と口にしてから後悔したのだが、意外なことにココペリは「あるじゃないか」と答えた。おっ、と僕は頬を緩めて、「なになに?」とねだるように訊ねてみる。


「私を見ることができるのだから、シャーマンの才能があるんじゃないか?」

「それって、職業になるの?」

「知らん。日本にはイタコとかいるじゃないか」

「でも、ココペリしか見れないんだけど。幽霊とかも見えないし」

「じゃあ、お前」

「駄目じゃないか」

「駄目だな」




 夕飯は、スパゲティだった。と言っても、買ってきたミートソースを上からかけただけのものなので、昨日兄さんと食べたものとは比べ物にならないほど単調な味がする。小麦とトマトの匂いも、どこか昨日より安っぽい。


 夕飯は、必ず家族でとる。兄さんがいなくなってからも、それは続いた。四角い木製の食卓を、三人で囲む。僕の前には父と母が座り、かちゃかちゃと、フォークにスパゲティを巻き付けていた。


 四人でいた頃を思い出す。父はまだ若く、髪も黒い。恰幅のよい体格で、饒舌にニュースの解説をしたり、勉強の方法を説いていた。眼鏡の奥の瞳はいつも鋭く、僕らを見ていた気がする。母は、料理を小皿によそいながら、兄さんや僕に学校の話を聞いてきた。兄さんは、適当に相槌を打ちながら、ご飯をかっこんでいる。かっ込み終わったら席を立ち、僕だけが食卓に残されたものだ。


 今、目の前の父は白髪まじりになり、痩せた気がする。しかめっ面をしながら、ニュースを眺めていた。そんなに嫌いなら見なければいいのに、と思ったが、口にしない。母の方は父とは逆に贅肉を腹に蓄えている。目が合うと、とりあえず僕に世間話をふってきた。


「学校はどうだった?」

「まぁ、楽しかったよ。もうすぐテストみたいだ」


 テスト、という単語に反応したのか、「大丈夫なんだろうな?」と問いただすように父は僕を一瞥した。


「勉強はちゃんと、してるから」


「そうか」と呟くと、父は再びテレビに視線を戻した。

 他の家では、例えば須賀原の家では進路の話などをするのだろうか。夢を語り、家族と議論をしながら、夕食を口にするのだろうか。僕は、父や母と将来の話をしたりするイメージが全くわかなかった。僕が夢を見つけたら、それを応援してくれるのだろうか。


「将来、何になろうかな」ぽろっと、僕の口から言葉が漏れてしまった。


 その言葉が父に聞こえてしまったらしく、父はテレビから視線を外すと、僕を見た。浮ついているとか、そんなことも決めてないのか、とか叱責をくらうと思い、身構える。が、父は視線を泳がせ、咳払いをしながら、テレビニュースへと関心を戻して行った。


 何もなかったかのように、フォークにスパゲティが巻かれ、テレビニュースではどこかで戦争が続いていると言っていた。

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