8 よろしく、現チャンピオン
*
「今日は来たのね」
廊下で織野さんに会った。僕は、しどろもどろしながら返事をする。
「これ、あげる。森野君っぽいなあ、と思って」
織野さんはそう言うと、手に持ったノートを開いて昨夜の絵葉書を取り出した。僕はそれを受け取り、お礼を言う。絵葉書の中には、まだ青い花が一輪、凛として咲いている。これのどこが、僕っぽいのだろうか。僕自身が、凛としているとも、美しく咲いているとも思えない。
訊ねようと口を開きかけた時に、織野さんは少しだけ頬を緩めて、「机の中、プリント溜まってるみたいだけど頑張ってね」と言い、行ってしまった。立ち去る姿をぼーっと見ているだけでも、廊下にぽつぽつと花が咲いていくようで、視界は華やかになる。
昨日、目黒駅で見つかったこともあり、今日は高校に行くことにした。一週間ぶりくらいだろうか。ちょこちょこ行っているので、校門をくぐる時など、そこまで緊張したりしない。しかし、教室に入り、自分の席に着くまで同級生の視線を感じていると、思わず背筋が伸びる。
ココペリは今頃、家で留守番をしているか、どこかを散歩しているだろう。日本の自然を見学している、とか前に言っていた気がする。暢気でうらやましい。
「おっ、今日は来たのか」
隣の席の
「ノート、貸してやらんからな」
「減るもんじゃなし、いいじゃないか」
「俺の中での頑張りの価値が減るんだよ」
「減らないように見るからさ」
そんなやり取りをしながら、僕は昼休みに購買でパンを奢る約束をしてノートを借りた。須賀原は、窓の外を眺めながら「俺も休むかなぁ」と呟いた。そして僕に向き直り、訊ねる。
「お前、いつも休んでる日、何してるわけ? 俺はゲーセンとかだけど」
「散歩とか、読書とか、勉強とか」
「おじいちゃんかよ、お前は」
須賀原は、少し愉快そうに笑った。同級生で僕に視線を送る者も、もう須賀原くらいになっていた。元通りの喧騒が教室に響いている。僕は須賀原のノートをぱらぱらと捲りながら、自習分にまだ学校は追いついていないのだな、と悟る。
高校の人たちは大体、僕が休みがちになり、たまにしか来なくなると冷たくなっていった。まぁ、自分たちがちゃんと高校に来ているのに、あいつだけさぼっているなんて許せない、という心理はわからないでもない。誰だって、一生懸命やっているのに水を差す奴がいたら仲良くしようとは思わないだろう。いるとしたら、お人好しか物好きだ。
「よろしく、現チャンピオン」
須賀原は物好きだった。
それが初めてされた挨拶だった。彼と同じクラスになったのは、高二になってからだ。僕らは互いに面識もないし、彼が何を言っているのかもわからなかったので、差しのべられた彼の右手に対して反応できなかった。
どういうことか、と僕が訊ねるよりも早く須賀原は説明してきた。
「俺は学校を結構さぼるタイプの人間なんだ。それでも、ちょこちょこだな。なんとなく気分が乗らない日とかは休むタイプだ」
須賀原の『軽佻浮薄宣言』を聞きながら、何故彼は胸を張っているのだろうか、と疑問を感じたが、何を言いたいのかは薄々理解し始めていた。
「今は、お前のせいで俺のサボりとか素行は陰るようになった。同じクラスだし、よろしく頼むよチャンピオン」
俺がライト級なら、森野はヘヴィー級ってことだ、とか、俺がストーンズならお前はビートルズだとか須賀原は言った。以来、彼だけがクラスで僕に話しかけてくる。
授業をぼんやりと受け、隣で寝ている須賀原の教科書をそっと別の教科のものに入れ替えたりしながら、午前中は過ぎた。
「恥をかいたじゃないか!」
須賀原は僕が買った焼きそばパンを勢いよくかじる。数学の授業で指名され、寝ぼけた須賀原は英語の詩を音読した。それを怒っているらしい。僕は体裁だけ保つように、ごめんごめんと頭を下げておいた。
「なぁ、お前プリント配られたの知ってるか?」口をもごもごさせながら、須賀原が言う。
「と言っても、どのプリントなのか」滝のように机から溢れているプリントを思い出す。僕はそれを見た時、現代アートのような荒々しさと大胆な演出に思わず息を呑んだ。
「進路希望調査用紙だよ」
その、とても事務的な名前を反芻しながら、さっきぱらぱらと見た感じでは見つけていないな、と眉をひそめる。あの中から、目的の一枚を見つけるのは骨が折れそうだ。
「それの提出日がもうすぐなんだ」
「え? いつ?」
「細かいことは俺も覚えてない。だけど、俺とお前は何だか忘れそうだから気をつけろよと
苗ちゃんとは、織野さんの名前だ。お前、それはちょっと慣れ慣れし過ぎじゃないか、と須賀原を少し睨みながら、僕はメロンパンに齧りついた。咀嚼しながら、そう言えばと昨夜のことを思い出す。そんなに、僕は噛んでいるだろうか、と。同時に、兄さんに言われたニュージーランドのことも頭をかすめた。
「須賀原は海外に行ったことある?」
「あぁ、家族旅行で何回か行ったことがあるぞ。お前は?」
「ない。本州から出たこともない」
須賀原は「本当かよ」と呆れ笑うように言い、森から降りてきた野生動物でも見るかのような、物珍しさと憐れみのこもった視線を送ってきた。
「家族旅行とかで、なかったのか?」
「家族旅行をした記憶というのが、そもそもない。帰省ならあるけど」
そうかぁ、と須賀原は肩を落とした後、自分のハワイ体験記を語り始めた。ビーチが綺麗であったとか、ピンク色をした得体のしれない食べ物を食べたであるとか、阿呆みたいに大きいケーキが一人前であったとか、そんな話をしている。
「ニュージーランドは?」
「ニュージーランドは無いなぁ。オーストラリアはあるけど」
「似てるかな?」
「まぁ近いし、気候は似てるんじゃないか?」
須賀原は、オーストラリアの話を少しだけしてくれたが、幼い日の記憶らしく、カンガルーやコアラを近くで見たとかその程度の曖昧模糊としたものだった。だが、昨夜の兄さんの話についで、海外は広々とし、何の障害もなく、いきいきと暮らすことができる場所に思えた。
「ところで、なんでニュージーランド?」
「留学しないかって」
「留学かぁ。そういう手もありなのか」
ありなのかはわからないが、それでも選択肢が新たに提示されたことは確かだった。突然降ってきて、眼前にぶらさげられたそれを、僕はまだ手に取ろうという気にはなれない。初めて見た果物に対して警戒する、檻の中の猿の気分だ。
「でもさ、お前、真面目にどうするよ。どうせ、このままでも先が見えてるじゃないか」
「先が見えてる?」将来のイメージがわかずに困っている僕としては、その言葉はちょっと新鮮で矛盾をはらんでいた。
「このままさ、東京の大学とか行くとするだろ? どうせ、経済学部とか経営学部とかそんなとこに行って、会社員を目指すんだ。就職難だからっていう理由で簿記とか資格を取ることに必死になるかもしれない。テニスサークルとか入ってさ、それで大学生活をそれなりに楽しんだとしても、その先がもう見えてるじゃないか。なんか、歳を取るたびに可能性が減っていくっていうのは悲しいよな」
須賀原の饒舌な語りが終わるのを見計らったかのように、チャイムの音が響き、僕らのつかの間の休息は終わった。
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