7 鳥なんだけど飛べないんだよ

       *


 目黒駅から数分歩いたところにある、レンガ調のイタリアンのお店で、数年ぶりに兄さんと同じテーブルにつき、向かい合って座っている。


 店内は橙色の光で落ち着いているし、しっくいの壁や木製のテーブルはとてもお洒落だ。トマトやガーリックなんかの香りがふわーっと漂っていて、食欲を刺激する。僕はおなかを空かせながらも、そわそわしている。ココペリは壁に書かれた絵を見て、「洞窟の壁画みたいだ」と喜んでいる。


 兄さんはギャルソン姿の店員と世間話をしながら、ピザやスパゲティを注文した。その慣れた動作に、兄さんは僕の知らない世界を知っているのだな、と驚く。いや、もう二十歳になるのだから、当たり前なのだろうか。


「お前は何食べる?」


 メニューを渡されたが、料理の名前を見てもどんなものが出てくるのかイメージがわかない。僕が何度もメニューを見返しているので、兄さんは笑いながら店員に「これはどんなの?」と訊ねた。店員も気さくな人で、笑顔で軽く教えてくれた。ピザにハチミツをかけるとは、僕の常識を超えている。しかし、じんわりと口の中によだれが湧いてきた。


「じゃあ、それで」


 軽快に立ち去る店員をぼーっと見ていたら、兄さんに小突かれた。


「久しぶりじゃないか」

「そうだね。兄さん、留学してから戻ってきてないし」

「まぁそうだな」苦々しそうに兄さんは笑った。


 僕は兄さんが家からいなくなってからのことを思い出す。兄さんは本当に奨学金やら助成金やらを取ってニュージーランドの高校へ行ってしまった。両親から見たら、それは大袈裟な反抗であり、そのしっぺ返しは僕に降りかかってきた。兄さんが海外に行くなんて言い出したのは、きっと誰か悪い知り合いがいたのだとか、テレビや雑誌などの影響だと騒いでいたので、友人と遊びに行くことやテレビを見ることを、中学にいた頃の僕は規制されていた。


「忠志、何高だっけ?」


 僕が在籍している高校の名前を言うと、兄さんは静かに「頑張ったんだな」と呟いた。


 いいや、僕は別に頑張ってなどいない。公式を覚えるのも、英単語を覚えるのも、活用形を覚えるのも、ただこなしていただけだった。ぼんやりと、目の前にあることだけを僕はやっていただけだ。子どもの時に兄さんとこっそり見た映画の中の、人を襲っているゾンビの方がまだ生き生きとしているし、頑張っている気がする。


「忠志、元気だったか?」兄さんは急に真面目な口調になり、神妙な顔つきをした。

「元気だけど?」

「実は、留学した後、忠志をあの家に置いてけぼりにしたことだけが気がかりだったんだ」


 あぁうん、と僕は気のない返事をしながら逡巡する。もし、兄さんが日本に残って、進学校にでも行けば、何か変わっていただろうか。僕はちゃんと高校に通っていたかもしれないし、家族の体裁も保たれていたかもしれない。だけど、それがいいことなのか僕にはわからない。


 まず、飲み物が運ばれてきたので僕らは再会を祝して乾杯した。兄さんはワインで、僕はジンジャエールだ。乾杯する時に気づいたが、兄さんの腕は太くなり、体格もがっしりとしている。兄さんは着実に成長しているようで、なんだか少し遠くに感じた。


「ニュージーランドはいいところだぞ。広大な緑に、羊たち。文化や産業は進んでるけど、日本みたいにギスギスしてない」


 僕の隣、というか床に座っているココペリが興味を示したようで、「詳しく話を聞いてくれ」とウキウキした口調で言った。


「詳しく教えてよ。どこにいたわけ?」代わりに僕が訊ねる。

「首都のウェリントンってところにいる。そこの大学に今は通ってるんだ」

「学校なんていいから、自然について聞いてくれ」ココペリがはやし立てる。

「自然はどうなの?」


 兄さんは、待ってましたと言わんばかりに手を叩いた。


「自然がいっぱいあって、すごくいいぞ。殺伐としてないんだよ。首都で暮らしてても、ちょっと行けば入江があるし、丘陵地帯もある。自然公園とかもあってな、とにかく何もかもが広く感じる」


 熱弁を聞きながら、ココペリがうんうんと頷いている。ここまで熱心に聞いているのだから、この姿を兄さんにも見せてあげたかった。


「キーウィっていう鳥がいるんだけど知ってるか?」

「知らないな」とココペリ。「何それ?」と僕。


「キーウィっていう鳥はニュージーランドの国鳥なんだけどな。くちばしが長くて、まぁ大きさは鳩くらいか。そいつは、鳥なんだけど飛べないんだよ。いや、飛ぶ必要がないって言った方が正しいかな。ニュージーランドには外敵がいないから、飛ぶ必要がなくなった。それくらい平和なんだよ」


 ココペリが手を叩き、歓声をあげる。僕もそれは素直にすごいと思う。敵がいないから、飛ばなくてもいいと気づき翼をなくすなんて、逃げているうちに、何から逃げているのかわからなくなったのだろうか。それとも、目的をなくして、頑張る必要がないと感じたのだろうか。平和に辿り着いたことを悟った瞬間、キーウィはどんなことを思ったのだろう。


 しばらくすると、ピザやらスパゲティやらが運ばれてきた。が、僕は机の上にあったナプキンの使い方もナイフやフォークの使い方もぎこちなく、上手に食べることができない。兄さんは「好きに食え」と言って白い歯を見せた。最初はスパゲティをうまくフォークに絡めることができなかったり、ピザをナイフで切って食べるのかと驚いたが、段々なれてくると料理の味を楽しめるようになってきた。


 ピザを食べている時に、兄さんが突然笑い出した。どこかに食べこぼしでもしたかとか、顔に何かついているかと焦りながらあたふたする。


「お前、変わらないな」


 咀嚼しているピザを飲み込み、「何が?」と訊ねると、兄さんは「あー、飲み込んじゃった」と落胆の声をあげた。僕は首を傾げる。


「お前、食う時いつもずっと噛んでるよな」けらけらと兄さんは笑う。

「食べてる時は噛むものでしょ」


 異議を唱えると、兄さんはそうじゃなくて、と前置きして指摘した。


「前に数えたら、二百回も噛んでたぞ」

「嘘だあ」僕は半信半疑になりながら、反芻する。しかし、自分では何回噛んでいたかなんて覚えていない。


「ホントだって。変わってないよお前。多分だけど、よく噛んで食べなさいってのを守ってんだな」そう言うと、兄さんは頬を緩めた。そうだっけ、と思いながら僕もつられて笑う。


 僕らは、小学校の夏休みに虫取りをしようと山に入って遭難したことや、流星群を見ようと夜、外で寝転がっていたら死体と間違われて通報された事件などの苦々しい思い出話をした。ココペリは店内をうろうろしたり、兄さんにニュージーランドの話を聞くように促してきたりする。一応、彼も楽しんでいるようだ。


「なあ、忠志」


 料理をひとしきり食べて、食後のコーヒーを飲んでいると、兄さんは再び真面目な口調になった。


「お前は大丈夫なのか?」

「さっきもそれ、訊いたよ」


 兄さんは少し酔っているのだろうか、と考えていたら、「違う。そうじゃなくて」と今度は強く言われた。


「あの家は駄目だ」

「駄目?」駄目、という抽象的な言葉が少し可笑しくて僕が笑うと、兄さんは「真面目な話だ」と続けた。

「俺は、とにかく息苦しくてあの家から逃げ出したかった。勉強に受験に学歴、それが何なのかわからずに自由を奪われ続けるのはうんざりだった。だから、留学することを決めたんだ」


 兄さんは、憎々しげにそう言うと、コーヒーを口に運んだ。兄さんの勢いに気圧されながら、僕もコーヒーをすする。家で飲むのとは違う、少し濃い芳醇なコーヒー豆の香りが口に広がっていく。


「お前、学校に行ってないんだろ? 母さんからはたまに手紙がくるんだけど、それに書いてあった」


 ばつが悪く、僕は小さく頷いた。


「俺も、家を出て多くを知った。親父の言っていたことはあながち間違いじゃなかったと今ならわかる。でもな、やり方は間違ってる。もし、親父がまだ昔のままで、お前はそれが苦しくて学校に行ってないのなら」


 少し躊躇するような間を置いてから、兄さんは続けた。


「お前もニュージーランドに来ないか? あの家にいたら親父の言いなりだ。俺たちを縛り付けて、自由を奪うんだよ」


 その言葉には、どこか予言じみた力強さがあり、身震いした。だが、父親のことを、僕は別に嫌いではない。嫌いではないし、好きでもない。父親という役割を果たしているとは思っている。しかし、兄さんの言う父親というものからはまるで、村人を苦しめる魔王のようなそんな印象を受ける。


「陳腐な言い方だけど、レールの上だけ走るのはうんざりだろ。お前は、もっと自由に生きれるし、選択できるんだ」

「買い被りだよ」


 僕が苦笑しても、兄さんは強く言い続けた。


「お前は、もっと広い世界を知れるんだ。やりたいことをやった方がいい」


 兄さんは、レールから出たくて飛行機に乗り、ニュージーランドまで行ったのかもしれない。僕はまた、そんなことをぼんやりと思った。しかし、ニュージーランドに行って、何ができるだろうか。ココペリは、自然がいっぱいのニュージーランドに行くことを喜ぶかもしれないけれど。


 苦笑いをしながらちらりと窺うと、兄さんの眼は強く僕を見据えていた。期待でもなく、勧誘でもなく、僕を確かめているような鋭さがあった。僕はどきりとし、慌てて考える。


 もし、僕が一歩踏み出せば世界が広がるし、一言「行きたい」と言えば、未来が変わるはずだ。だが、何故だろう。決められない。選択を迫られ、崖っぷちに立たせれているような、そんな焦りが胃を締め付け、足に絡みついた不安が膝を少しだけ笑わせている。


 何も変わらないのではないか、と躊躇してしまう。そもそも、僕は何を変えたいのだろうか。未来には無数の選択肢がある。ニュージーランドに行く、なんて選択肢まであったのだ。だけど、僕は先のことをイメージすることができないでいる。


 結局、僕は兄さんに、「もう少し考える」と言って、なあなあにしてしまった。


 高校生の僕には、この店の食事代を払うほどの経済力はなく、「そろそろ行くか」と兄さんに言われた時、冷やっとしたのだが、兄さんは当然のように奢ってくれた。


 目黒駅での別れ際に、兄さんは自分の携帯電話の番号をメモ帳に書いて、千切った。「何かあったら、ここに連絡してくれ」と手渡される。僕はそれを受け取り、気になっていたことを訊いてみた。


「兄さんさ、ところで何でニュージーランドなの?」

「忠志、覚えてるか? トイレにカレンダー貼ってあるじゃないか」


 うちのトイレにはいつも、父親が会社からもらってくるカレンダーがあった。月ごとに捲るタイプのもので、様々な国の写真と日付がプリントされている。


「トイレで見た、あのカレンダーのニュージーランドの写真を見てたら、あぁここに行きてえなと思ったんだよ」

「トイレで決めたわけ?」


 愕然として訊ねると、兄さんは「意外と、ふとした瞬間に見つかるもんだ」と笑った。

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