6 バッファローパラダイス東京
*
夕方、僕は電車を乗り継いで東京へ向かっていた。通っている高校は横浜にあるから、東京には模試や受験でしか行ったことがないため、なんだかおっかない。若者たちや人で溢れ、猥雑な人ごみばかりというイメージと、何か華やかなことをしているところという漠然としたイメージが僕の東京像を歪ませている。
「じゃあ、目黒駅に六時で。美味いイタリアンに連れて行ってやるよ」
兄さんは今朝、そう言って電話を切った。
僕は会話の流れで楽しく了承したのだが、目黒という土地に対するイメージが全くなく、時間と共に緊張と不安が胸にこみ上げてきた。ココペリに相談しても「まぁ、行ってみればわかるんじゃないか?」と気楽なものだった。「そこには自然があるのか?」と訊ねられても、「多分東京だからないんじゃない?」としか僕も言えない。
三回も乗り換えをしなければならないなんて、そんな難易度の高いことが自分にできるのか不安でならない。
駅の改札の下をくぐったココペリに「無賃乗車だ」と指摘すると、ココペリは鼻で笑って「精霊一枚、とあれば買うんだがな」と嘯いた。
電車に乗っている間、ココペリは空いていたら僕の隣に座っていたが、混み始めると網棚の上で寝転がっていた。前に話していた、「アメリカからは飛行機で来た」というのを思い出し、ココペリなら、飄々と飛行機に乗り込み、日本に来るなんて造作もないことだろう。
予定よりずっと早く行動し、僕らは五時過ぎに目黒駅に到着した。
東京、ということで身構えていたのだが、意外と横浜と大して変わらない印象を受けた。ビルが並び、デパートが立ち、タクシー乗り場があり、居酒屋やコンビニエンスストアが集まっている。想像していたより落ち着きのある雰囲気なので僕は安心した。頭に懐中電灯を括り付け、松明や鎌を持った目黒区民が僕を襲ってくることもない。
日が暮れ始め、あたりは宵の雰囲気になっている。僕たちは夕方と夜の、境界にいる。
「時間が来るまで散歩しようか」
「おう。でも、空気はおいしくないな」
「そう? 普通じゃない?」
「お前も一度、アメリカの広大な自然で暮らしてみるといい。大地の恩恵を肌で感じ、一日が美しいと感じながら吸う空気を想像してみろ」
ピンとこない。
美容室やコンタクトレンズのビラを受け取りながら、所在もなく歩く。ココペリは、遠出をしているので疲れているのか、いつもより元気がない。トサカも少し、項垂れている。
「元気ないね」と僕が声をかけるとココペリは、「まぁなぁ」と気のない返事をした。
「こういう場所からは、大地の力をあまり感じないなと思ってな。コンクリートで蓋をしてしまっているみたいだ」
さんさんと降り注ぐ陽射し、そして広大な自然の中にいたココペリからしてみたら、こういう都会は別世界なのだろう。SF映画の中にでも紛れ込んだ気分なのかもしれない。
「東京のことをコンクリートジャングルって言うんだよ」
「最悪のネーミングだな」
「東京砂漠とか」
「ビルを全部壊して、本物の砂漠にすればいい。そして、ジャングルにでもオアシスにでもすればいいんだ。バッファローパラダイス東京とかそんな風に呼ばれるところにすればいい」
「ココペリの趣味でしょ、それ」
「素敵じゃないか。さんさんと降り注ぐ陽射しに、走り回るバッファロー、豆とかカボチャとか作物もたくさんだ。だいたい、何なんだコンクリートジャングルって」
コンクリートのビルが地面から生え、それらがぐにゃぐにゃと蔦のように絡みついている様を想像する。それこそSF映画のようだが、意外と非現実的に感じず、そのうち本当にそういう建築が生まれるのではないだろうかと感じた。だけど、僕もバッファローが走り回る東京の方がいい気がする。バッファローを見たことがないけれど。
歩いていて、視界にココペリがいないことに気づき、慌てて立ち止まる。振り返ると、ココペリは道の端にしゃがみこんでいた。「どうしたの?」
「こんなところでも花が咲くんだな」
ちょうどココペリの目の前の電柱のふもとに、小さな青い花が咲いていた。僕もしゃがんで覗き込む。なんという名前なのだろうか、咲いているその花は、行き交う人々や走り去る車などから隠れて、ひっそりと息を潜めているように見える。
青々とし、凛とした美しさがあった。それは、どこか強がりにも見えるのだが、そのピンと伸びた茎が、広げられている花びらが、その淡い青色が美しかった。
電柱のそばにもう一輪、同じ種の花が咲いていることに気が付いた。が、こちらは少しうなだれている。今のココペリのトサカのようだ。
僕はあることを思い出し、ココペリに訊ねてみた。
「ココペリさ、こっちの花をどうにかできないわけ?」
「どうにか、とは?」
「その笛使ってさ、ココペリの祈願で咲かせるとか」
花を咲かせることくらい、大地の精霊ならば楽勝なのではないだろうか、と思ったのだ。だが、ココペリは僕の質問に対して、ふっと笑った。口元が歪んでいる。それは、何も知らないんだなと僕のことを馬鹿にしているというよりは、どこか自嘲的な雰囲気のあるものだった。
「ちょっと、今は無理なんだ。その、体調がな」
それは、残念だね、と肩を落としていたら、トントンと肩を叩かれた。
「森野君?」
突然自分が呼ばれ、驚く。
しゃがんだまま、ぱっと振り返った。するとそこには、目の前の花と似た色のカーディガンを着た人が立っていた。高校の
「やっぱり森野君だ。大丈夫? 具合でも悪いの?」
「大丈夫です!」と慌てて立ち上がる。
織野さんは心配そうに僕の様子を窺っている。何かやましいことをしたわけではないけど、動悸が激しくなるのを感じ、僕は焦る。
「ちょっと、花を見てまして」
「花? どこに?」
織野さんが聞き返す時に僕の目を見たので、どきりとする。どこかの外国製の人形のように、しなやかに伸びたまつ毛に僕は見惚れ、「森野君?」と訊ねられて、質問されていたと思い出した。
「そこに」と僕が名前もわからない青い花を指差すと、彼女は目を細めて微笑んだ。
どうすればいいものか、と目を泳がせていたらココペリと目が合った。ココペリが「この女、花を引っこ抜いたりしないだろうな」と無礼なことを言い、僕と織野さんの間に入ってくる。僕はそっと足でココペリを脇に寄せた。ココペリの「私は偉大な精霊だぞ!」というクレームは聞き流す。
「織野さんは、どうしてここに?」
織野さんは肩から下げている鞄を開いて絵葉書を一枚取り出し、僕に見せてきた。左下に『Late Bloomer』と小さく書かれている。油絵だろうか。どこかの丘の上で、月明かりの中咲いている、一輪の花が描かれていた。寒色系の色が幾重にも塗り重なった重厚な闇の中、絵なのに眩しく感じる月光がさしている。それだけでも十分綺麗なのだが、その光の中に咲いている一輪の花がとても美しく、幻想的だった。そうか、織野さんも花が好きなのか、と嬉しい気持ちになる。
「知り合いの個展を見に行ってたのよ」
「あっ、そう言えば絵を描くんですもんね?」
「時間がなくて最近は描けてないけどね」
言葉が途切れ、沈黙が生まれる。高校に行っていないので、話題にできることが全然思いつかない。足元で精霊が何やら騒いでいるが、自動車のクラクションや通り過ぎる人々の足音にかき消されている。
「今日は何で休んだの?」
ギクっとし、僕はしどろもどろする。何で、と訊ねられても明確な理由はない。仮病をするにも、この状況では信憑性がない。あの、とか、えーと、とか言いながら言い訳を探すが見つからない。すると、織野さんの口から意外な言葉が出てきた。
「まぁ、いいんだけどね」織野さんのその言葉からは、呆れてるというより、優しく包み込んでくれるような、そんな印象を受けた。
「いいんですか?」
「なんだろう。わたしは、人それぞれペースがあっていいと思うのよね。生きる目的とか目標って人それぞれ違うんだし。だから、教室にあんまり来ないのも、森野君のペースがあるなら、いいのかなって思うの。こんなこと言ったら、みんなには怒られるのかな?」
織野さんはそう言って、目を細めて笑った。僕はそんな、大したものじゃないですよと釈明したくなる。が、上手く言葉が出てこない。
「森野君は何でここに?」
「僕はですね。これから兄と会うことになってまして」
「何でお前、そんな変な言葉づかいなんだよ」と言いながらココペリが僕の足を蹴ってくる。彼の足の爪は若干痛い。うるさい、緊張しているんだ! と怒鳴れる状況ではない。
「そうなの? じゃあ私はもう行くわね」
織野さんは「……でもやっぱり、教室にもきてねー」と言って、駅の方へ姿を消した。僕は、名残惜しいような、会話を続ける自信がなかったので少し安堵するようなぐにゃぐにゃした感情を抱いていた。彼女の背中が消えるのを見送り、息を吐き出す。波が引いていくように、胸の鼓動がゆっくりと穏やかになっていく。
「森野、何見惚れてるんだよ」ココペリが僕の足を叩きながら言う。
「可憐だよね」
「は?」
「あの人が歩いた跡には、花が咲いているように見える」
「は?」
初めて織野さんから聞いた言葉を覚えている。あれは、今年の春にやった最初のクラスでの挨拶だった。教室にいる全員が簡単な自己紹介をしたのだが、織野さんは異色だった。
「みんな仲良くって言うけど、無理な相手もいるものよね実際は。だから、仲良くなれた友達は一生大切にしましょう。わたしは、そんな繋がりを見つけることができるクラスにしたいです。よろしく」
クラスは織野さんの言葉にざわついた。僕も、何を言ってるんだこの人は? と思ったが、不思議と嘘くさくなく、そんな言葉を言っても涼しい顔をしている織野さんからは凛とした美しさを感じた。要するに、惚れたのだ。以来、彼女が視界にいるだけで世界が華やかになり、色が塗り替えられていく。彼女が歩いたら、そのそばから色とりどりの綺麗な花が咲いていくように見える。口にすると少女マンガの一コマみたいだし、要するに僕の想像もとい妄想なのかもしれないが、僕にはそう見えるのだから仕方がない。
「お前、ポエマーだな。私は軽く引いたぞ」ココペリの呆れた声がした。
「でも、高嶺の花だよ」そう口にした直後、肩に衝撃が走った。今度は、ばしんという軽快な音と共に肩に痛みが広がる。先程とは違い、思わずのけぞった。
「忠志!」
ココペリの声でない。織野さんの声でもない。低く、それでいてテンションの高い声だ。驚きのせいで、心臓が口から飛び出すのではないかと本気で思った。もし、心臓が口から飛び出たら、ココペリが何か怪しい儀式でもするのではないかと考えたくらい、動揺した。
「兄さん」
茶色く染まった短髪、という以前とは違う髪形をしていたが、へへへと悪戯に笑うその顔は二年前と変わらないものだった。
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