5 ココペリ、僕の家族はさ

 家を出て三十分ほどかけて山下公園に到着した。南北に延びるこの公園は、砂場やブランコのあるような公園ではないが、緑も芝だけではなく、花や木々なども多い。海に面しているから遊覧船が停泊しているし、ランドマークタワーなんかの、みなとみらいの風景も見えるから、休日は家族連れやカップルなんかで混み合っている。


 しかし、平日の昼間ともなると、ベビーカーを押すお母さんや、趣味で絵を描いているおじいさんがちらほらといる程度だ。


「今日はお前、機嫌がいいな」そう言うココペリも、右手に持っている笛が飛ばないか心配になるほど、大きく両手をぶんぶんと振って上機嫌そうだ。彼のトサカが潮風を浴びて揺れている。元気がある時はトサカがピンと伸びているので、わかりやすい奴だ。


「そんなことないよ」

「さっきの電話が原因か。誰からだ?」

「兄さんだよ。留学しているんだ。なんか、試験休みだから日本に遊びにきてるんだって」

「留学って何だ?」


 僕は足を止めて、海を向いているベンチに腰かけた。座ると、潮の香りのする海風が頬を撫でていく。ココペリも僕の隣にちょこんと腰かけた。


「留学って言うのは、海外、海の向こうの国で勉強することだよ」

「それはまさしく私じゃないか」ココペリが胸を張り、尊大な口調になる。

「いやいや、ココペリは観光でしょ?」


 僕が苦笑すると、ココペリは心外だと言わんばかりに両腕をばたばたと振った。


「失敬な。私は前に言ったかもしれないが、土地の精霊なんだ。土地が豊かになるように祈るのが私の役割なのだ。どうすれば、広大な大地を花や作物でいっぱいにできるかを勉強している」

「初耳だ。僕はてっきり、のほほんと遊んで暮らしてるのかと思っていた」

「それはお前だ」

「返す言葉もない」


 僕らの前を、四人の家族連れが通り過ぎて行く。父親も母親二十代だろうか、まだ若い。勿論、彼らの二人の子どもたちはもっと若い。母親が小さな男の子の手を引きながら歩き、父親はまだ言葉もしゃべれなさそうな赤ちゃんの乗ったベビーカーを押している。僕は彼らのことを目で追いながら、ぼんやりと思う。


「家族ってすごいよね」

「何がだ?」

「名前が」


 首を傾げているココペリに僕は説明する。


「『族』だもんね。『族』っていうのが何か、自由で荒っぽい集団みたいな感じがする。同じ家で暮らしているだけで、すごい繋がりがあるみたいじゃないか」


『家族』と書かれた旗を掲げ、ベビーカーを押しながら村を襲い、略奪を繰り返す家族を想像し、何を想像しているのだろうか、と我ながら呆れ、かぶりを振った。


「荒っぽい繋がりか、そうだな。インディアンのラコタ族もちょっと荒っぽい儀式をしていたしな。こう、尖った串を踊り手の胸に突き刺して、筋肉の奥深くまで」


 痛そうな話はやめてよー、と僕が顔を歪ませて言葉を遮ると、ココペリはしぶしぶといった様子で「あとは、そうだな。チェロキー族はみんなで一緒に旅立ったしな」と呟いた。


 ココペリの説明にピンとこないまま、僕は通り過ぎた家族を目で追う。母親と兄に少し離されてしまうと、ベビーカーに乗っている赤ちゃんがぐずり、小さな怪物のようにけたたましい泣き声を上げた。


「兄さんとは、久々に会うな」


 小さい頃から僕は兄さんの背中を見て育った。兄さんが電車のおもちゃで遊んでいれば僕はレールをまたいで兄さんのそばに行き、兄さんがブランコで遊んでいれば、僕は柵を越えてブランコの下に入って激突していた。


 目の前の父親が、ベビーカーを押しながら小走りで追いかけて行く。家族が横並びになると、赤ん坊の泣き声が止んだ。僕はくすりと笑い、同時に自分の家族を思い出した。


「ココペリ、僕の家族はさ」と口を開く。




「いいか? 学歴社会をお前たちは理解できていないし、これから馬鹿にするかもしれないけどな、もうそれは社会システムになっているんだ。優秀だとしても、学歴がなければ上に行けない。上に行けないと、自分のしたい仕事をできないんだ。自分よりもアホで世間知らずのボンボンでも、そいつの方が学歴が上だったらそいつの下で尻拭いをする人生になってしまう。だから、今、歯を食いしばってでも頑張れ」


 父は、僕と兄さんが、まだ九九も言えない頃からそう言っていた。そんな家で育った僕らは幼稚園や小学校の頃から受験をした。休日はほぼなく、友達と遊びに行くこともない。僕と兄さんは母親につきっきりで勉強を見られていた。それが、僕は別に苦痛ではなかった。何故、勉強するのか? 父の言う学歴とは何か? 受験とは何か? 僕はいまいちピンとこないまま勉強を続けていた。


 小学校の低学年から、夜の八時九時まで塾に通い、張り詰めた空気の中でテキストと向かい合い、高学年になる頃には、僕は方程式や簡単な一次関数まで解けるようになっていた。


 機械的にテキストを解き続けている内に、自分が歯車となって無理矢理に回され、大きな何かを動かしている、とぼんやりわかり始めていた。しかし、その大きな何かがいったい何なのか、どこに向かっているのか、何故勉強し、何になろうとしているのかが僕にはわからなかった。僕も兄さんもこのまま勉強し、中学受験、高校受験、大学受験をし、どこかの会社に入り、結婚でもするのかもしれない。僕はとりあえず目の前の兄さんの背中を追いかけよう、そう思っていた。


 しかしその僕のぼんやりとしたビジョンは長くは続かず、呆気なく瓦解することになる。


 兄さんが中学受験に失敗したのだ。


 兄さんは偏差値が七十近くまである中学を狙って受けた。受験校は勿論、父が決めたところだ。しかし、呆気なく兄さんは落ちた。補欠合格欄にも兄さんの受験番号は無かった。それどころか、滑り止めにしていた中学のどれにも引っかかることがなかった。僕は、兄さんが大きな崖を登っていて、手を伸ばした先にある岩のでっぱりを掴むことができずに落下していく様を想像し、血の気が引いた。


 この事態に対して兄さん以上に両親は狼狽した。母は泣き、父は母や兄さんを叱責した。兄さんはそれに耐えながら、本来受ける予定になかった家から一時間かかる中学を受験し、そこに通うことになった。


「それからが、大変だったんだよね。兄さんが落ちちゃったから、全部僕に回ってきて」


 中学に入った兄さんは一旦放置され、両親は僕につきっきりになって勉強を教え始めた。兄さんのように受験を失敗させまいと必死になったのだろう。僕は兄さんとは別の私立、両親の言うところの、進学率のいいところに決まった。みんなは悪い奴ではないけど、同級生の中には、勝ち組であるとか、学歴なんて言葉を知ったような口で言っている奴がいて、その度に僕は足の多い虫を見た時に感じるような嫌悪感を覚えてしまう。


「お前の兄は何で海外に留学してるんだ?」

「なんだろう。それは知らない。高校受験の話になって突然、海外に行くって言い出して」


 兄さんが中三になり、そろそろ志望校を決めるぞ、と父が言い出した時のことだった。あれは確か、夕飯の鉄板焼きをしていた時だった気がする。家族の会話よりもホットプレートの上で野菜や肉がじゅうじゅうと賑やかな音をあげていた。父が有名大学の付属高校や、東京の国立大学に何人も行くような高校の名前を列挙し、「負けっぱなしじゃ駄目だ。もう、同じ轍はふまないだろ?」と兄さんを激励する。


 父が次々と鉄板に野菜を置いていく。そして「失敗した悔しさをバネに頑張れ」という常套句を言い出したところで、突然兄さんは箸を置いて、「俺、家を出るよ」と宣言した。


 両親は最初、冗談だと思って聞いていたらしいが、僕は兄さんが両親から視線を外してここではないどこかを、真っ直ぐ見ていることに気がついた。そしてすぐに、想像を超えた言葉が兄さんの口から飛び出した。


「俺はニュージーランドに行く」


 しばらくして兄さんが本気だと伝わると、僕らは混乱した。青筋を立てながら将来のビジョンであるとかそう言った話を持ち出して父は怒鳴り散らし、母は二人をなだめに入る。僕は、ただ呆然と成り行きを見ていた。


 奨学金だとか助成金だとかを手に入れるから、学費で迷惑をかけないと兄さんが言い切って、話は終わった。正確には、父や母は説得や説教を続けていたのだが、兄さんはもう聞く耳を持たない様子で、焼けた肉に箸を伸ばしていた。

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